富山不可侵条約
| 正式名称 | 富山不可侵条約 |
|---|---|
| 通称 | 富山協定、湾岸無干渉覚書 |
| 署名 | 1908年11月17日 |
| 発効 | 1909年1月3日 |
| 署名地 | 富山県富山市総曲輪・旧県会議事堂 |
| 締約当事者 | 富山県沿岸連絡会、伏木汽船組合、越中薬販同盟ほか |
| 主目的 | 港湾・干潟・薬棚の相互不可侵 |
| 言語 | 日本語、漢文、簡易英語 |
| 現況 | 1947年に実質失効、ただし慣行の一部は残存 |
富山不可侵条約(とやまふかしんじょうやく、英: Toyama Non-Invasion Treaty)は、末期ので成立したとされる、沿岸警備・越境漁業・薬売りの通行に関する相互不可侵協定である[1]。後にの地方外交史における「最も地味な平和条約」として知られるようになった[2]。
概要[編集]
富山不可侵条約は、周辺の港湾荷役、海岸線の採草権、ならびに薬種商の巡回販売路をめぐる摩擦を抑えるために結ばれたとされる地域条約である。条約名に反して軍事同盟ではなく、むしろ「互いの生活圏に土足で入らない」ことを文書化した、きわめて実務的な取り決めであったとされる[3]。
条約が注目されるのは、その規模の小ささに比して文面が異様に精緻であり、各条に、、薬箱の封印様式まで定めていた点にある。また、署名の翌日にへ提出された副本には、なぜか積雪量の予報表が添えられており、後世の研究者の間で「条約と気象台の境界が曖昧である」としばしば議論されてきた[4]。
成立の背景[編集]
19世紀末のでは、冬季の荒天によりとの荷役がしばしば停滞し、またの薬売りが隣村の漁網修繕小屋に入り込んで商談を始めることが珍しくなかった。こうした習慣は平時には便利であったが、1897年から1906年にかけての米価変動と塩の配給難により、港と内陸のあいだで「どこまでが相手の縄張りか」をめぐる小競り合いが増えたとされる。
特に有名なのは、1906年の春にの干潟で発生した「杭七本事件」である。漁場の境界を示す杭が一晩で七本増えていたことから紛争になったが、後の調査で、半分は波で倒れた杭をの学生が勝手に立て直したものであり、残りは近隣の児童が「均衡が取れて見える」と判断して補っただけだったと判明した[5]。この出来事が、口約束ではなく文書化された不可侵規範の必要性を一気に高めたといわれる。
条約交渉[編集]
第一次草案と薬箪笥会議[編集]
交渉の中心人物は、の書記であった、伏木汽船組合の実業家、および越中薬販同盟の監事である。彼らは1908年夏、の茶屋二階で非公式協議を重ね、条約本文を「一文を一呼吸で読める長さ」に抑えることを原則とした。
もっとも、薬販側は薬箪笥の引き出しを開ける角度まで規定に入れようとして会議が紛糾した。これに対し長沢は、机上にあったの帳簿を裏返し、裏面に朱で「不可侵」の二字を先に書いたという逸話が残る。真偽は定かでないが、のちに条約の正式写本に同じ筆致が見られることから、少なくとも誰かが極めて真剣であったことは確かである。
署名式と三つの印章[編集]
1908年11月17日の署名式は、旧県会議事堂の広間で行われた。参加者は全部で43名であったが、実際に署名したのは12名のみで、残りは証人兼「雰囲気の補強」として招かれたとされる。式次第には蔵の控えによれば、午前10時の開始から昼食の白えび天ぷらを挟み、午後3時12分に第九条が修正されたとある。
条約文の異様な特徴は、三種類の印章が使い分けられたことである。県側の朱印、汽船組合の黒印、薬販同盟の緑印で、これにより「海・陸・棚」の三界が均衡したと説明された。ただし、緑印は当時のインク不足から実際には藍に近く、後年の複写では「不可侵」が「不可寝」に見える箇所があり、研究会で毎年軽い笑いを誘っている[要出典]。
条約の内容[編集]
富山不可侵条約は全十一条から成り、中心は第2条から第7条までに集中していた。第2条では港湾荷役の際に相手方の縄を勝手に束ねてはならないこと、第4条では干潟で採った海藻を「見本」と称して持ち帰ることを禁じ、第6条では薬売りが宿先で魚の干物を掛け値で交換する際の上限数量を定めた。
また第8条には、双方が争いを避けるために「冬期は午後四時以降、議論を開始しない」旨が記されていた。これは一見すると奇妙であるが、北陸の冬では暗くなるのが早く、議論が長引くと誰も帰れなくなるため、現場感覚としては合理的であったとされる。第11条には、条約違反の際はまずで三度汽笛を鳴らし、それでも収まらない場合のみ県会の議長が仲裁に入ると定められていた。
運用と社会的影響[編集]
発効後、この条約は意外にも広範な影響を与えた。港湾労働者のあいだでは「不可侵を守る者は荷が軽くなる」と俗信化し、実際に荷役事故が減ったとする統計がの年報に見える。薬売りの側でも、巡回路の重複が減ったことで訪問先の在宅率が上がり、ある年の売上は前年より18.4%増えたと記録されている。
一方で、条約があまりに細かかったため、村ごとの解釈差が新たな儀礼を生んだ。たとえばでは「不可侵」の境界を示すために、玄関前へ小さな木札を置く習慣が広まり、これが後に防風除けと混同された。また、条約に基づく調停はしばしば茶菓子付きで行われ、流域では「条約の仲裁には羊羹が要る」とまで言われた。
批判と論争[編集]
もっとも、条約に批判がなかったわけではない。港湾の若年層からは「互いに踏み込まないだけで、本当の解決になっていない」との声があり、1910年代にはの新聞が「不可侵は便利だが、不可笑にすぎる」と評したこともある。また、薬販側の一部は、条約が販売先の競争を緩和しすぎて新規参入を妨げたと主張した。
歴史家のあいだでは、そもそもこの条約の存在自体が後年の郷土史家による半ば創作ではないかという議論もある。ただし、県庁文書庫の焼失を免れた副本、伏木の倉庫帳、そしての旧家に残る署名控えが互いに妙に一致しているため、少なくとも「何かしらの極端に真面目な申し合わせ」が存在したことはほぼ間違いないとされる。
その後の展開[編集]
第二次世界大戦後、条約の法的効力は施行と地方制度改革により失われたとみられる。しかし、相互に土足で入らないという慣行は生活習慣として残り、1960年代まで一部の港で荷受け前に必ず三回ノックをする風習が続いた。これを「富山式ノック」と呼ぶ研究者もいる。
なお、1983年にで開催された「北陸の約束」展では、条約写本の余白に鉛筆で書かれた献立メモが再発見された。そこには「鱈汁、かぶら寿し、茶三杯」とあり、交渉の核心が外交よりも昼食管理にあった可能性を示唆している。学術的にはなお議論があるが、関係者の筆跡がほぼ全員、満腹時の字であることから、宴席が重要であった点は疑いがない。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 長沢一之助『北陸港湾小協定史』富山港湾史料刊行会, 1938, pp. 41-67.
- ^ 岡島正平『越中薬販同盟沿革誌』越中商業研究所, 1929, Vol. 2, pp. 113-129.
- ^ Margaret A. Thornton, “Micro-Treaties in Provincial Japan,” Journal of Maritime Border Studies, Vol. 14, No. 2, 1978, pp. 88-104.
- ^ 西尾良蔵『富山不可侵条約の成立と伝承』北日本郷土出版社, 1956, pp. 5-39.
- ^ 田村惣吉『伏木汽船組合雑記』伏木海運文庫, 1911, 第1巻第3号, pp. 7-18.
- ^ 富山県立図書館編『総曲輪旧県会議事堂文書目録』富山県立図書館, 1964, pp. 201-219.
- ^ H. B. Kenmore, “The Politics of Harbor Politeness,” Transactions of the East Asian Legal Antiquarian Society, Vol. 9, No. 1, 1961, pp. 22-35.
- ^ 『富山県報』第318号, 1909, pp. 1-4.
- ^ 島田喜久『不可侵と不可笑——北陸小協定研究』港町書房, 1987, pp. 144-171.
- ^ Aiko Kisaragi, “Seals, Snow, and Local Sovereignty,” Asian Provincial History Review, Vol. 7, No. 4, 1995, pp. 301-318.
- ^ 『富山の条約とお茶請け』富山文化社, 1974, pp. 12-13.
外部リンク
- 富山地方条約研究会
- 北陸港湾史アーカイブ
- 越中薬販同盟資料室
- 総曲輪文書デジタル庫
- 地方外交年表研究所