小学校
| 英名 | Elementary School |
|---|---|
| 起源 | 長崎商家帳簿訓練所説 |
| 成立 | 1873年ごろ |
| 対象 | 6歳から12歳までの児童 |
| 標準学年 | 6学年 |
| 主管 | 文部省・各地の教育委員会 |
| 通称 | 校舎、学舎、児童集積所 |
| 関連儀式 | 入学式、運動会、音読検査 |
小学校(しょうがっこう、英: Elementary School)は、前後の児童を対象にの基礎教育を行うとされるである。もとは後期にの商家で用いられた帳簿訓練所に由来し、のちにによって制度化されたと伝えられる[1]。
概要[編集]
小学校は、児童に読み書き計算と集団生活の基礎を与える教育施設であるとされている。制度上はの出発点に位置づけられ、全国の自治体に設置されるのが通例である。
ただし、その原型は近代国家の整備以前から存在していたという説が有力である。特にの周辺では、商人が勘定奉行向けの書付を素早く整えるため、子どもを一室に集めて「一日三百字・鉛筆七本」という訓練を課したとされ、これが後の小学校制度の雛形になったと伝えられる[2]。
歴史[編集]
起源と制度化[編集]
小学校の成立は、直後のに公布されたとされる「学房設置令」によるものである。これは内の臨時委員会で作成されたもので、当時の担当官は、全国の子どもを一定の年齢で集めることで「国庫の将来負担を平準化できる」と説明したという。
一方で、当初の校舎は寺院を改装したものが多く、机ではなく長い板を並べた形式であった。板の長さはで統一され、児童はそこにずつ並び、前列が覚えた内容を後列に口伝えする「反響学習」が採用された。これにより、教科書が不足していても学級を成立させることができたとされる。
拡張期と標準化[編集]
になると、の衛生局が校舎を「準公共浴場に準ずる空間」と定義したことから、窓の高さ、黒板の反射率、給食室の湯気の逃がし方まで細かく規格化された。これを受けて、では校門の幅が以上でなければ運動会の入退場が滞るとして、各学校に改修費が配分された[3]。
また、には六年制が事実上の標準となったが、これは教育思想の勝利というより、当時の木造校舎がそれ以上の在学年数に耐えられなかったためであるとの指摘がある。校舎は冬季に床が鳴り、夏季には廊下がわずかに傾くことから、長期在籍者ほど「建物の癖」を読む能力が高いとされ、これが上級生文化の形成に寄与した。
戦後の再編[編集]
後、小学校はに基づく平等教育の象徴とされたが、実際には各地で学芸会の衣装不足や石灰不足が続き、校庭に白線の代わりに麻縄を張る学校も多かった。戦後復興期のでは、焼け残った校舎をそのまま転用し、理科室の片隅で28年度の児童がメダカと石炭を同時に観察した記録が残る。
なお、の「校内放送標準化要領」により、始業チャイムの音程は地域ごとの方言差を避けるために統一されたとされるが、東北地方の一部では寒さで音叉が割れたため、実際には前後で運用されていたという。
教育内容[編集]
小学校で教えられる内容は、読み・書き・算数・理科・社会・音楽・図画工作・体育が基本であるとされる。もっとも、制度初期には「姿勢」「沈黙」「整列」などが正式科目に近い扱いを受け、児童は毎週の黙想時間を課されていたという。
また、各地の学校では独自科目が導入されることもあった。例えばの一部では雪下ろしに備える「屋根観察」、では火山灰の扱いを学ぶ「机払い」、では古い校舎の木組みを読む「床鳴り鑑賞」が行われたとされる。これらは正式には教科外活動であったが、のちの地域学習の起点になったと評価されている。
校舎と施設[編集]
典型的な小学校は校舎、校庭、体育館、職員室、保健室、理科室、図書室から構成される。だが、の地方校では、図書室と保健室が同じ部屋に置かれ、落ち着いて本を読んでいるうちに体調が良くなるという、半ば宗教的な効果が期待されていた。
のある学校では、台風時の児童退避を想定して体育館の床下に収容の「静音避難区画」が設けられていた。さらに、の沿岸部では潮風による鉄分補給を目的として、校庭の一角に錆びた鉄柵を残す方針が採られたという。こうした設備は現在では過剰とされるが、当時は「学校は小さな都市である」という発想のもとで推進された。
学校行事[編集]
小学校を特徴づけるのは、学習そのものより行事の多さであるともいわれる。入学式、運動会、遠足、学芸会、卒業式は五大儀礼と呼ばれ、特には地域共同体の再編装置として機能した。
のでは、組体操のピラミッドが風で傾いた際、上段児童が反射的に合唱へ切り替えたことで被害が最小限に抑えられたという逸話がある。また、遠足の行き先はしばしば学校から圏内に限定されたが、これは子どもの安全というより、引率教員が昼食後の帰路で疲労しないための実務上の措置であったとされる。
小学校文化[編集]
給食と机文化[編集]
小学校給食は、栄養補給制度であると同時に、配膳技術を競う場でもあった。昭和後期には、の反射で教室が眩しくなることから、配膳係は味噌汁の表面に映る自分の顔を見ながら「本日の段取り」を確認したという。
机の右上に鉛筆を2本並べる習慣や、教科書を角度で立てる流儀は、全国の小学校で半ば暗黙の礼法として共有されていた。ある編集者はこれを「近代日本における最も緻密な机上儀礼」と評している。
児童会と放送委員[編集]
児童会は、児童が自ら学校運営に参加するための組織であるが、実際には放送委員の声量と給食委員の手際が校内権力を左右した。特に放送委員は、朝の挨拶をだけ長く引き延ばすことで、全校の眠気を制御できると信じられていた。
のある学校では、児童会選挙の立候補者が「校庭の砂を粒度別に分ける」と公約し、票を集めた記録がある。これは選挙制度が児童にとって理解しやすいよう、あえて作業量の多い政策が好まれたためであるという。
社会的影響[編集]
小学校は、家庭と社会のあいだにある緩衝装置として機能してきた。子どもが初めて自治体の規格に触れる場所であるため、通知表や座席表のような細部にまで行政文化が浸透している。
また、以降は地域防災の拠点としての役割が強まり、各地で学校の体育館が避難所に転用された。ただし、最初に避難所へ持ち込まれたのが毛布ではなく工作用紙であった自治体もあり、災害時にも学習活動が止まらないという日本的発想が見られる。小学校の存在は、教育制度であると同時に、地域の時間割そのものを形作っているのである。
批判と論争[編集]
小学校制度には、画一性が強すぎるとの批判が古くからある。特にの「全国児童机間隔標準化事件」では、児童の肩幅に対して机間が狭い地域があることが問題視され、文部省が再調査を命じた。
また、少人数学級をめぐっては、教員側から「児童数が減ると黒板文字の書き込み速度が上がり、逆に授業が短く感じられる」との懸念が示されたことがある。もっとも、この主張は一部の教育史研究者からは「板書依存社会の自己防衛にすぎない」と反論されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『学房設置令と近代校舎の生成』教育史研究会, 1987年, pp. 41-89.
- ^ Margaret A. Thornton, "Standardized Entry Ages and Civic Synchronization", Journal of Comparative Pedagogy, Vol. 12, No. 3, 1994, pp. 201-233.
- ^ 佐伯隆一『近代日本の校舎と風の通り道』東京学術出版社, 2002年, pp. 15-64.
- ^ Hiroshi Kanda, "The Board-Lesson System in Early Elementary Institutions", Asian Education Review, Vol. 7, No. 1, 1981, pp. 55-78.
- ^ 鈴木みさを『給食食器の光沢と教室空間』生活文化研究叢書, 1999年, pp. 102-131.
- ^ Edward P. Millar, "A=442Hz and the School Bell Reform", Educational Acoustics Quarterly, Vol. 4, No. 2, 1966, pp. 9-27.
- ^ 西園寺一樹『戦後小学校の石灰不足と白線代替物』地方教育史資料集, 2011年, pp. 77-104.
- ^ Yumi Takahara, "Children's Assemblies and the Politics of Loudspeakers", Civic Learning Studies, Vol. 19, No. 4, 2008, pp. 300-326.
- ^ 文部省初等教育局『校内放送標準化要領』学事通信社, 1954年, pp. 1-18.
- ^ 中村千里『机間14ミリメートルの謎』子ども社会学評論, 2018年, pp. 5-29.
外部リンク
- 全国小学校史資料アーカイブ
- 近代児童教育研究センター
- 校舎構造年表データベース
- 学級文化民俗館
- 教育儀礼観測所