山口 弘剛
| 氏名 | 山口 弘剛 |
|---|---|
| ふりがな | やまぐち ひろたけ |
| 生年月日 | 1931年4月17日 |
| 出生地 | 岐阜県郡上郡八幡町 |
| 没年月日 | 2004年9月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民間記録思想家、装置設計家、地方史収集家 |
| 活動期間 | 1952年 - 2003年 |
| 主な業績 | 山口式索引箱、雨量目視換算表、流域手帖法の体系化 |
| 受賞歴 | 日本記録工学奨励章、東海民俗資料功労賞 |
山口 弘剛(やまぐち ひろたけ、 - )は、の民間記録思想家、装置設計家、地方史収集家である。山間部の災害記録と手書き索引の研究で広く知られる[1]。
概要[編集]
山口弘剛は、の山間部に生まれたとされる記録技術者であり、のちにを拠点に独自の災害記録法を提唱した人物である。特に、30年代から広まった「流域手帖法」は、紙の折り目と川の増水を対応させるという奇抜な発想で知られる[1]。
また、の非公開整理室で短期間勤務した経験が、彼の索引観に決定的な影響を与えたとされる。もっとも、この経歴には異説も多く、本人が「私は図書館員ではなく、図面の風を読んでいただけである」と語ったという証言も残る[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
、山口はの木材集積地に近い家に生まれる。父は役場の臨時書記、母は村の裁縫講習所で帳簿をつけていたとされ、幼少期から「書かれたものが物事を先に決める」という家庭環境にあった。
少年時代には、の支流で毎年起こる小規模な越水を観察し、石垣の濡れ方を方眼紙に写し取っていた。近所では「水位を見ずに石を見ている子」と呼ばれたが、後年の本人はこれを「初期の現地校正」と説明している。
青年期[編集]
にへ進んだ後、で開かれた民間製図講習会に出席し、そこでという旧制技師に師事したとされる。高木は実在が確認しづらい人物であるが、山口自身は「線を引くより、線に引かれる側が重要である」と教えられたと回想している。
にはの印刷関連会社に勤め、帳票の誤差を修正する補助器具を試作した。この頃に作成した「折返し目盛板」は、営業担当が雨の日にしか持ち歩かなかったため普及しなかったが、山口はこの失敗を「用途が湿度に依存しすぎた」と総括した。
活動期[編集]
、山口はの雑誌編集部に移り、地方記録の整理に専念するようになる。ここで彼は、河川台帳、寺院の過去帳、農協の納品簿を一つの箱に収める「山口式索引箱」を考案し、最盛期にはだけでが複製されたという。
の以後、彼の名は防災関係者の間で一気に知られるようになった。山口は被災地を巡り、泥で読めなくなった記録紙に炭酸水を薄く吹きかけて文字の凹凸を浮かび上がらせる方法を推奨し、この技法は一部の自治体で「気泡復元法」として採用された[3]。
晩年と死去[編集]
に入ると、山口は内の貸しアパートで私設資料室を運営し、往来する研究者に対して毎回ちがう尺貫法の説明をしたことで有名になった。晩年はの海辺に移り、潮位と索引の関連を調べる「海岸帳簿」研究に没頭したが、完成直前にノートの大半を自ら解体し、部品ごとに封筒へ分けたまま亡くなった。
、で死去した。没後、遺族の納戸から「第七改訂流域手帖(試作)」と記された厚紙束が見つかり、現在はの民俗資料館に保管されている。なお、この資料館では年に一度、来館者が紙を三つ折りにするだけの「山口忌」も行われる。
人物[編集]
山口は、几帳面である一方、説明が急に詩的になる癖があったと伝えられる。会話の冒頭で必ず「まず目盛りを疑え」と言い、相手が黙ると満足して茶を飲んだという逸話がある。
また、紙の角が少しでも丸いと記録の信頼性が下がると考え、来客用の名刺まで自作の裁断器で四隅を微妙に尖らせていた。これにより指を三度切ったため、以後は革手袋を常用したが、本人は「安全は注釈である」と述べたとされる[4]。
一方で、地域の祭礼には熱心で、の保存会に毎年寄付をしていた。だが寄付金の封筒に必ず川幅のスケッチが描かれていたため、保存会では「弘剛の封」と呼び、儀礼的に机の下へ置く慣習が生まれた。
業績・作品[編集]
山口式索引箱[編集]
山口式索引箱は、木箱の内部を可変式の仕切りで分割し、災害記録・戸籍写し・気象メモを同時に保管する装置である。見た目は文具棚に近いが、実際には情報の流れを水路のように扱う思想装置とされ、のからにかけて十数自治体へ導入された。
もっとも、箱の重さが平均にも達したため、職員からは「整理される前に腰が壊れる」と苦情が出た。これを受け、山口は軽量化版として桐材ではなく発泡コルクを使った試作機を作ったが、書類が静電気で一斉に貼り付く事故が起き、以後は試作番号だけが残った。
雨量目視換算表[編集]
山口の代表作とされる『雨量目視換算表』は、傘の濡れ具合、屋根瓦の光沢、通学帽の重みから降雨量を推定するための表である。版は全で、右端に「猫が軒下へ入る場合は補正値+3」と書かれていることから、後年しばしば話題になった。
この表はのローカル気象番組で一度紹介されたが、司会者が「実用性は高いが、測定者の主観が多すぎる」と評したため、かえって民間で流行した。山口はこれを「主観は地域に密着したセンサーである」と解釈していた。
流域手帖法[編集]
流域手帖法は、手帖のページを川の流路に見立て、増水時にどのページが湿るかで避難順を決める独創的な記録法である。、の土木関係者向け講習で披露され、机上演習としては高く評価されたが、実地での再現率はきわめて不安定だった。
それでも一部の山間部では、ページの角がしおれた場所を「今年の危険地点」とみなす習慣が定着し、自治会の防災会議は毎年、山口の手帖を前にして折り目の増減を議論したという。
後世の評価[編集]
山口の評価は、、、の三分野で分かれている。防災史では「先見的な現場主義者」とされる一方、図書館学では「分類を箱に押し込みすぎた人物」として半ば伝説化されている。
にはの研究会で「山口弘剛と紙の地形学」と題する報告が行われ、その際に「彼は記録を保存したのではなく、記録の逃げ道を設計した」と要約された。もっとも、同報告の注記欄には「山口本人が講演中に窓の外ばかり見ていた」と記されており、学界では今も解釈が割れている[5]。
以降は、デジタルアーカイブの先駆者として再評価する動きもある。ただし、山口の方法の多くは紙の湿度変化を前提にしており、化した瞬間に意味が半分失われるとされるため、評価は常に「アナログの亡霊」を伴っている。
系譜・家族[編集]
山口家は系の農家を祖とし、祖父の代にへ移ったと伝えられる。父・山口敬三は役場勤めののち郷土誌の編集を手伝っており、母・山口つねは村の裁縫教室で帳面づけを担当していた。
妻はで、結婚後は私設資料室の整理を事実上引き受けた。長男は、長女はとされるが、修一は家業を継がずで塩蔵技術の研究を行い、美代は手帖法の図案を再解釈して布製のカバーを制作した。
なお、親族の一部には「弘剛が生まれる前に家の帳簿が全部改ページされた」という伝承があり、山口家では彼を「改ページを背負って生まれた男」と呼んだという。
脚注[編集]
[1] 山口弘剛の生年・没年および活動分野については、遺族が保管していたとされる『弘剛覚書』に基づく。 [2] 勤務歴については異説が多く、非公開整理室の名簿には記載がないという。 [3] 気泡復元法は一部自治体資料に見られるが、全国的普及の有無は確認されていない。 [4] 本人発言として伝わる文言は回想録ごとに異なる。 [5] 研究会報告の原稿は所在不明であり、要出典とされることが多い。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯直人『流域手帖法の成立と変容』東海記録文化研究所, 1998.
- ^ M. K. Thornton, “Index Boxes and Wet Papers: A Study of Hirotake Yamaguchi”, Journal of Regional Archival Studies, Vol. 12, No. 3, pp. 41-67, 2004.
- ^ 水野嘉一『山口弘剛資料集成 第一巻』郡上市民俗資料館出版部, 2006.
- ^ 田辺正樹『気泡復元法の実際と誤差』防災記録叢書, 第4巻第2号, 1972, pp. 15-29.
- ^ H. Sato, “The Rainfall Visual Conversion Table of Yamaguchi”, Bulletin of Japanese Folk Engineering, Vol. 8, No. 1, pp. 2-19, 1981.
- ^ 橋本礼子『紙の地形学とその周辺』名古屋大学出版会, 1991.
- ^ 山口清子『弘剛私記』私家版, 2005.
- ^ Charles E. Miller, “A Man Who Measured Clouds by Hats”, Proceedings of the Pacific Archive Conference, Vol. 6, No. 4, pp. 88-96, 1997.
- ^ 小林武『昭和防災思想史ノート』中部評論社, 2010.
- ^ 渡辺精二『山間部帳簿文化の形成』岐阜民俗学会誌, 第21巻第1号, 1987, pp. 73-91.
外部リンク
- 郡上市民俗資料館デジタルアーカイブ
- 東海記録文化研究会
- 山口弘剛研究室便り
- 紙の地形学年報
- 地方記録装置コレクション