山口 絢加
| 氏名 | 山口 絢加 |
|---|---|
| ふりがな | やまぐち あやか |
| 生年月日 | 1948年4月17日 |
| 出生地 | 日本・神奈川県横浜市中区山下町 |
| 没年月日 | 2011年9月3日(63歳) |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 都市記録学者、編集者、聞き書き調査員 |
| 活動期間 | 1971年 - 2011年 |
| 主な業績 | 移動式年表の体系化、港湾口述史の標準化、仮設記録箱の導入 |
| 受賞歴 | 日本記録文化賞、港史学会特別功労章 |
山口 絢加(やまぐち あやか、 - )は、の都市記録学者、口述史収集家、ならびに「移動式年表」の提唱者である。港湾地区の聞き書き調査と内の非公式文書整理で知られる[1]。
概要[編集]
山口 絢加は、戦後日本の都市辺縁部における記録実務を再編した人物である。特にとの倉庫街、埋立地、闇市跡を対象とした口述史の収集で名を知られ、記録が散逸しやすい環境を前提にした「移動式年表」の方法論を確立したとされる[1]。
彼女の仕事はので、自治体資料、港湾労務者の私製日誌、商店街の回覧板を一つの時系列に束ねる試みとして始まった。後年はの周辺研究者やのアーカイブ担当者にも影響を与えたとされ、都市記録の分野では半ば伝説的人物として語られている。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
、に生まれる。父は港内運送会社の帳場係、母は中華街の近くで貸本棚を営んでいたとされ、幼少期から帳簿、荷札、値札の断片に囲まれて育ったという。山口はのちに、文字の意味よりも「紙がどこへ渡ったか」を先に覚えたと回想しているが、この発言は晩年の講演録にしか残っておらず、要出典とされることもある。
小学校時代には、台風で流された掲示板を拾い集め、日付順に並べ直して遊んでいたという逸話がある。近所では「紙拾いの絢加」と呼ばれていたとされるが、同時代の証言は少なく、本人の自己演出であった可能性も指摘されている。
青年期[編集]
にへ進学し、国語部と地理研究会を兼部した。卒業後は文学部に進み、近代文学よりも郷土資料の保存技術に強く関心を示したとされる。大学では民俗資料整理のゼミに所属し、教授の「記憶は棚に入れた瞬間に歴史になる」という講義に感銘を受けたという。
在学中、の古書店街で拾った封筒群を独自に年代順へ再構成したことが、後の方法論の原型になったとされる。なお、この時期に内の印刷所で短期間アルバイトをし、活版の組み替え速度を「記録の正確さとは別種の才能」と学んだという記述が残る。
活動期[編集]
、の外郭調査班に準ずる形で、埋立地の労働史聞き取り事業に参加した。ここで彼女は、従来の年表が行政単位で区切られていることに限界を感じ、港内の出来事を「移動距離」「荷役待ち時間」「潮位変化」の三軸で並べる独自図法を考案した。これが後に「移動式年表」と呼ばれる。
には、の簡易宿泊所街で行った調査が注目され、の紀要に掲載された。調査票は通常のA4ではなく、折り畳むとポケットに入るB7判の細長い紙で作られ、現場での持ち運びやすさが評価された。山口はこの紙を「折り返し可能な記憶単位」と呼び、のちに7,400枚を越える記録カードを個人で管理したとされる[2]。
にはの非常勤協力員として、港湾労務者の聞き書きと写真裏面の注記照合を担当した。とりわけの大型台風後に失われた倉庫街の聞き取りでは、同じ証言を最低3人から集め、日付の揺れをあえて残したまま公開したため、当初は「曖昧さを保存する編集」と批判された。しかしこの手法は後に口述史の現場で模倣され、地域史資料の標準のひとつになったとされる。
晩年と死去[編集]
に入ると、山口は自治体史編さんの顧問や大学院の非常勤講師として活動の場を広げた。特にの『可搬記録論序説』は、災害時に記録棚を避難可能な形へ分解するという発想で注目され、以後の文書保全論にも影響したとされる。
、の自宅で死去。享年63。死後、書斎から未整理の封筒束が約1万2,000通見つかり、うち347通は宛先のない空白封筒だったという。遺族が保存を申し出たが、最終的にはの準備室に分散寄贈され、現在も完全な目録は作成途中とされる。
人物[編集]
山口は寡黙で几帳面な人物として知られる一方、現場での判断は驚くほど大胆であった。たとえば証言の食い違いを「誤差」ではなく「記憶の湿度」と表現し、調査メモに気温と潮風の強さを書き込むことを常としていた。
また、初対面の相手に必ず空の封筒を渡し、「何も入っていないように見えるものほど、後で効く」と言ったという逸話がある。本人はこれを実用品として説明していたが、弟子たちの間では厄介な呪文のように扱われた。山口の机には、常に方眼紙、朱肉、細長い定規、そして切手の貼られていない返信用封筒が3枚ずつ並べられていたという。
酒は弱く、会合ではほとんど番茶しか飲まなかったが、港湾労務者の話を聞く際は必ず甘味を一つ注文したとされる。これは長時間の聞き書きで相手の緊張を解くためであったと説明されるが、実際には本人が羊羹を好んでいたためとも言われる。
業績・作品[編集]
後世の評価[編集]
山口の評価は、研究分野によって大きく分かれる。都市史研究者からは、行政資料と聞き書きを接続した先駆者とみなされる一方、伝統的な文献学の立場からは、証言の揺れを残す姿勢が「編集の不完全さ」と批判された。
しかし後半以降、災害記録や再開発に伴う資料散逸が社会問題化すると、彼女の方法は再評価された。後には、避難所での聞き取りをその場で年表化する手法が各地で試みられ、やの一部自治体では山口式カードの簡易版が採用されたとされる。
一方で、弟子筋の研究者が「山口の方法を使えば、喫茶店の閉店史まで学問になる」と誇張したため、一般向けにはやや珍説として受け止められることもあった。とはいえ、記録を固定せず、移動させながら保存するという発想は、現在のデジタルアーカイブ論に先行するものとして引用され続けている。
系譜・家族[編集]
父・山口正蔵は港湾運送会社の帳場主任、母・山口みつは貸本業と手芸教室を兼業していたとされる。兄弟は姉が一人おり、戦後の住宅不足の中で一家はからへ移っている。
に編集者のと結婚したが、仕事の都合で別居に近い生活が長く続いたという。子はなく、晩年は姪のが実務上の連絡役を務めた。山口家には、代々「帳面を捨てない」習慣があったとされ、祖父の代の奉公人名簿まで保管されていたというが、この伝承は本人が最も好んで語ったもので、事実関係は確認されていない。
死後、遺品のなかから「昭和四十六年 潮風強し、記録は乾かぬ」と書かれた短冊状のメモが見つかり、山口の仕事を象徴する一節として研究会でたびたび引用されている。
脚注[編集]
[1] 山口絢加の生年・出生地・主要業績に関する記述は、『港湾記録人物事典』所収の略伝による。
[2] 記録カード7,400枚という数字は、本人の遺稿『箱の中の年表』に見えるが、現物は未確認である。
[3] 仮設記録箱の耐久試験結果については準備室メモに断片的な記録がある。
関連項目[編集]
出典[編集]
『港湾記録人物事典』港史文化研究会編、港史出版社、2009年。
山口絢加『港の記憶をたたむ』記録社、1982年。
山口絢加『可搬記録論序説』都市資料出版、1996年。
佐伯隆一『封筒と潮位のあいだ』編集工房、2005年。
M. Thornton, "Portable Chronology and Urban Memory in Postwar Japan," Vol. 14, No. 2, Journal of Archival Practice, 2012, pp. 41-67.
『神奈川近代都市史研究会紀要』第8号、1979年、pp. 12-29。
高橋みのり『災害と記録箱の思想』日本記録学会、2013年。
A. K. Saito, "Wet Notes and Dry Folders," Vol. 3, No. 1, Coastal Memory Review, 2015, pp. 5-19.
『横浜開港資料館年報』第21巻第1号、1985年、pp. 88-104。
『封筒の地政学』は、書名が内容に反して過度に政治学的であるとして、当時一部で話題になった。
脚注
- ^ 著者名『書名』出版社, 年.