山岡家族
| 名称 | 山岡家族 |
|---|---|
| 読み | やまおかかぞく |
| 成立 | 1897年頃 |
| 提唱者 | 山岡辰之助、黒田ミサオほか |
| 地域 | 北海道札幌郡・石狩平野一帯 |
| 性格 | 家族制・互助組織・生活規範の複合体 |
| 関連機関 | 北海道庁、札幌農学校、帝国農事協会 |
| 主要文献 | 『山岡家族調査報告』ほか |
| 影響 | 農村協同組合、親族登録制度、近隣扶助慣行 |
山岡家族(やまおかかぞく)は、後期ので成立したとされる、家計・親族関係・地域互助を一体化したである。もともとは周辺の移住者集落で用いられた俗称であったが、のちに系の調査報告に取り上げられ、半ば公的な概念として流通した[1]。
概要[編集]
山岡家族は、血縁を基礎としながらも、同居・通勤・出資・冠婚葬祭の分担を通じて擬似的に拡張される家族単位を指す概念である。法的にはとも親族制度とも一致しないが、の調査帳簿では「準家族」として別枠で集計されたことが知られている。
この制度は、開拓地での労働力不足と冬季の燃料不足を背景に、山岡辰之助らが「一家にして一村の機能を持たせる」ことを提案したことに始まるとされる。もっとも、実際にはの下宿屋と流域の請負農家の慣行が混ざっただけではないかとの指摘もあり、起源については今なお論争がある[2]。
歴史[編集]
成立期[編集]
山岡家族の成立はの冬、月寒村の収穫不良を受けた救済会合に求められることが多い。会合では、親族のない単身移住者を「末子」扱いで編入し、食費を共通化する試みが行われたという。参加者名簿には、山岡辰之助、黒田ミサオ、安藤市太郎など17名が記されていたが、のちの写本ではなぜか19名に増えており、複数の史料で数字が食い違う[3]。
制度化[編集]
にはの巡回書記・奥村義太郎が、山岡家族を「農家経営の合理化に資する」として報告書に記載した。これを受けて、は同年8月、とで実地講習を行い、家族内に「会計係」「薪炭係」「来客係」を置く方式を推奨した。なお、来客係は実質的に接待要員であり、冬季には一日平均4.3回の湯茶提供が義務化されていたとされる[4]。
普及と変質[編集]
に入ると、山岡家族は農村部から都市下宿へ広がり、の女学校寄宿舎やの船員宿でも模倣された。ここで本来の「血縁を超える共同体」という理念は徐々に薄れ、単に「会費を取り、当番表を回す面倒な親族っぽい集まり」を意味する俗語へ変質したとされる。一方で、の生活改善運動では、山岡家族が「近代的節約生活の雛形」として再評価され、農村婦人会の実習教材にも採用された。
構造[編集]
成員区分[編集]
山岡家族では、成員は「主家」「準家」「預り子」「外輪」の4層に分けられた。主家は戸籍上の中心世帯、準家は同居する親類や奉公人、預り子は就学や養育目的で一時的に迎え入れられた子ども、外輪は縁続きではあるが月1回の会合にのみ参加する者である。とくに外輪の規定は曖昧で、の内部規則改定では「提灯を持って来る者を外輪とみなす」とまで書かれていた[5]。
家計と儀礼[編集]
山岡家族の特徴は、家計が完全に分離されていない点にあった。味噌、灯油、学用品、葬儀香典までを一つの「家用勘定」に入れる方式が普及し、会計簿は平均で74頁に及んだという。儀礼面では、正月の年始回りを省略し、その代わりに年4回の「納屋会」を行う慣行があった。納屋会では必ずを着用し、最後に「今年もまた家族である」と唱和するのが通例だったとされる。
社会的影響[編集]
山岡家族は、の寒冷地農業に適応するための生活技術として一定の評価を受けた。実際、の調査では、山岡家族を採用した世帯の灯油消費量が平均で12%低かったとされるが、同時に来客時の菓子消費量は1.8倍に増えたという、節約とは言いがたい結果も報告されている。
また、都市部では下宿文化や社員寮文化に影響を与え、の新聞社や銀行で「擬似山岡家族」と呼ばれる相互扶助グループが形成された。これらは会費制で、当番が遅刻すると翌週の米飯が麦飯に格下げされるなど、家族というより半ば懲罰的な共同生活だったと証言されている。
批判と論争[編集]
山岡家族に対しては、当初から「家族の名を借りた労働組織にすぎない」との批判があった。とりわけのは、山岡家族の実態を「情の共同体ではなく、鍋と寝具の共同所有」と揶揄している[6]。一方で擁護派は、むしろ核家族以前の合理的モデルであり、近代日本に先行する生活共同体の実験だったと主張した。
論争を決定的にしたのは、に発見されたとする「山岡家族第二議定書」である。そこには「家長は朝の第一声を発する義務を負う。ただし声量は近隣犬の吠声を超えてはならない」と記されていたが、文体が妙に役所的であるため、後世の作為との見方が根強い。なお、同議定書の署名欄にのほか「山岡ヌイ」「山岡ポン太」とある点も、研究者の間でたびたび話題になる。
衰退と再評価[編集]
になると、山岡家族は制度としては急速に衰退した。家計の個別化、住宅事情の変化、上の親族概念の整理により、実際の運用はまでにほぼ消滅したとみられる。ただし、札幌近郊の一部農家では、1970年代まで「冬だけ山岡式」を採る例が確認されたという。
その後、期には地域福祉やシェアハウスの文脈で再発見され、「先祖返りした共同住宅モデル」として紹介された。もっとも、実務家のあいだでは、山岡家族は理念よりも台所の争奪戦が有名であり、再現実験では3日で炊飯器の所有権をめぐる紛争が発生したと報告されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 山岡辰之助『山岡家族調査報告』北海道庁資料課, 1903年.
- ^ 奥村義太郎「月寒村における準家族制度の実地観察」『北海道農政彙報』Vol. 12, No. 4, 1904, pp. 211-238.
- ^ 黒田ミサオ『家の外輪と内輪』帝国農事協会出版部, 1910年.
- ^ S. Hayashi, "Household Hybrids in Hokkaido Frontier Settlements," Journal of East Asian Rural Studies, Vol. 8, No. 2, 1921, pp. 45-79.
- ^ 札幌毎日新聞社編『暮らしの合理化と山岡式家族』札幌毎日新聞社, 1925年.
- ^ 渡辺精一郎「山岡家族第二議定書の文体分析」『社会史研究』第17巻第3号, 1931年, pp. 88-104.
- ^ Margaret A. Thornton, "Collective Kinship and Fuel Economy," The Northern Anthropologist, Vol. 3, No. 1, 1954, pp. 13-29.
- ^ 高橋ルイ『戦後北海道の互助慣行』北苑書房, 1962年.
- ^ 『山岡家族と都市下宿の比較研究』国際生活文化センター紀要, 第5巻第2号, 1978年, pp. 102-141.
- ^ Nobuhiro Sato, "The Last Winter Yamaoka Households," Proceedings of the Society for Invented Social History, Vol. 21, No. 4, 1998, pp. 301-319.
外部リンク
- 北海道生活共同体アーカイブ
- 札幌近代家族研究所
- 帝国農事協会デジタル文庫
- 山岡家族史料集成
- 架空社会制度年表館