山崎信江
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| 活動領域 | 福祉統計/家庭訪問記録/政策評価 |
| 主要機関 | 厚生省中央研究所、地方保健福祉センター群 |
| 代表的業績 | 「訪問記録監査表」の体系化(通称:監査十表) |
| 評価 | 実務の標準化で知られるが、評価指標の偏りが指摘された |
山崎信江(やまざき のぶえ)は、の研究者・実務家として語られてきた人物である。特にとの接続を進めたことにより、現場の記録様式にまで影響を及ぼしたとされる[1]。
概要[編集]
山崎信江は、領域における記録の“読み替え可能性”を高めることを目標に活動した人物として記述されることが多い。
当時の福祉現場では、支援の内容が日々の手書きメモに埋もれ、行政側で比較できないという問題が繰り返し指摘されていた。そこで山崎は、現場の職員が迷わず記入でき、かつ後から監査できる形式として、いわゆるを整備したとされる[1]。
彼女の活動は単なる“書式”の改革にとどまらず、のちのやの運用思想へ波及したと説明される。ただし、その評価指標が現場の実態からずれていたのではないか、という反論も併存している。
人物像と業績[編集]
山崎信江の特徴として、第一に“細部への異様なこだわり”が挙げられる。彼女は家庭訪問の記録について、文章の長さや語彙数よりも、とを優先すべきだと主張したとされる。
第二に、彼女は統計学を「現場の手続き」にまで降ろした点で知られている。たとえばの会議資料では、訪問時の会話内容を丸ごと書く代わりに、相手の反応を「肯定・保留・拒否」の3区分でタグ化し、そのタグの出現順を追跡する方式が試みられたとされる[2]。
第三に、現場実装のための“監査装置”があったとされる。彼女が考案したとされる「監査十表」では、1人の対象者につき月間で最大まで記入でき、超過した場合は翌月に“繰越理由コード”を付ける運用になっていたという。もっとも、コード体系は現場で頻繁に改訂され、統一されなかったとも語られている[3]。
歴史[編集]
成立:記録が政策になるまで[編集]
山崎信江がこの分野へ入った経緯は、複数の回想で異なっている。ある記録では、彼女は時代の衛生係補助として働き、雨の夜に届けられた“古い救護台帳”の誤記が原因で転記作業が炎上した経験が契機だと述べられている[4]。
一方で別の資料では、山崎が大学院で触れたのはではなく、災害時の行方不明者探索に使われる“照合手順”だとされる。その照合手順が福祉記録にも応用できるのではないか、と彼女が考えたことからが構想された、という筋書きになっている[5]。
いずれにせよ、この構想は戦後の行政機構の拡大と並走して定着した。行政は福祉を“件数”で捉えたがり、現場は“品質”を語りたがる。このズレを埋めるため、山崎は「品質を件数へ変換するための監査可能な枠組み」を作ろうとしたと説明される。
発展:監査十表と地方展開[編集]
山崎は(仮称)で、現場職員の記入負荷を抑えながら比較可能性を上げる試験運用を行ったとされる。試験はの夏からの年末まで、全国で延べ世帯を対象に実施されたと記されている[6]。
この試験では、同一訪問の記録を「手順A」と「手順B」の2方式で回し、後から監査者が再現できる割合を競ったという。結果は“再現率”が手順Aで、手順Bでだったとされるが、計算方法の説明は短く、後年に“そこまで正確なはずがない”と疑問視された[7]。
その後、彼女の枠組みは地方のへ拡張され、特にの複数区で“監査十表採用モデル”として扱われたといわれる。区分項目は増殖し、初期のはに膨らむ一方で、職員の記入時間だけは平均からへ増えたとされる[8]。
転機:評価指標の副作用[編集]
山崎の方式は、監査のしやすさゆえに“書くことが仕事になる”状況を生んだと批判された。ある内部報告では、監査が進むほど現場は数値化しやすい話題(服薬、通院、金銭、睡眠)へ会話が寄り、数値化困難な話題(対人関係、沈黙、家族の遠慮)がおろそかになる兆候があったと書かれている[9]。
ただし山崎自身は、数値化されない要素は“備考欄”へ追記できると主張していたとされる。しかし備考欄は監査の対象外にされがちで、結果として“例外の声”が制度の外へ押し出される構造になった、という指摘が後に出ている[10]。
この転機は、頃から福祉現場の反発として顕在化したとされる。そこで山崎は「備考を監査可能にするための“短文テンプレ”」を追加したが、テンプレが定型化することで逆に“本当の出来事が型に押し込められる”問題が生じたと説明される。
社会的影響[編集]
山崎信江の功績は、単に記録様式が普及したことだけでなく、福祉行政が“後から検証できる形での語り”を求めるようになった点にあるとされる。
たとえばの一部自治体では、福祉サービスの継続判断において、訪問記録のタグの出現頻度を参考指標として扱う仕組みが導入されたとされる。山崎の方式では、相手の反応タグが月内に集中すると“緊急度が高い”と仮定するルールがあり、これが現場判断へ影響したという[11]。
さらに波及は、大学の実習にも及んだとされる。実習生は「監査十表の書き方」を学び、その模擬監査で評価されることで、福祉の語り方そのものが訓練されていった、という証言がある。ただしこの流れは、“見える成果”を追う風土にも接続したと批判されている[12]。
批判と論争[編集]
批判の焦点は主に、評価指標の“癖”に関するものである。山崎の方式は比較可能性を高めた一方で、現場の微妙な関係性の揺らぎを単純な区分へ圧縮する危険があると指摘された。
また、数字の精度に関する疑義も存在する。前述の“再現率91.4%”の算出根拠について、監査者間の一致度がどのように計算されたのかが明示されず、当時の資料に“手入力の校正作業が含まれていた可能性がある”という記述が後年の点検で見つかった、とする説がある[13]。
さらに政治的な論争も起きたとされる。福祉予算の配分を巡り、記録が“行政の都合に合わせて整えられる”という懸念が広がったのである。結果として、山崎の枠組みは万能の解答ではなく、“都合よく使われる道具”になり得るという評価へと変化していった。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 山崎信江「訪問記録監査表の実務化に関する試案」『厚生実務年報』第12巻第3号, 1959年, pp.12-28.
- ^ 田中昌子「福祉記録の比較可能性—監査十表の検証」『社会医療研究』Vol.18 No.2, 1961年, pp.41-63.
- ^ Katherine L. Ross「Standardization of Home-Visit Narratives in Postwar Japan」『Journal of Administrative Statistics』Vol.7 No.1, 1964年, pp.77-92.
- ^ 鈴木清隆「備考欄は沈黙を救うか—記録様式と例外の扱い」『福祉制度論叢』第5巻第1号, 1970年, pp.5-19.
- ^ Matsumoto Yusuke「監査のための短文テンプレート形成」『臨床記録学研究』第2巻第4号, 1973年, pp.201-214.
- ^ 厚生省中央研究所編『訪問記録監査表試験運用報告(延べ3,216世帯)』厚生省中央研究所, 1958年, pp.1-58.
- ^ 佐藤恵子「一致度の空白—再現率の計算仕様をめぐる再点検」『公共評価技法』第9巻第2号, 1983年, pp.33-55.
- ^ 米田篤志「記録の政治学—福祉予算配分とタグ設計」『社会政策レビュー』Vol.22 No.3, 1987年, pp.10-31.
- ^ Nobue Yamazaki「On Auditability in Welfare Fieldwork」『International Review of Welfare Methods』Vol.3 No.2, 1966年, pp.1-17.
- ^ A. K. Nakamura「Home Tags and Emergency Assumptions: A Curious Case」『Journal of Off-by-One Policy』Vol.1 No.1, 1971年, pp.99-110.
外部リンク
- 監査十表アーカイブ
- 福祉記録と統計の資料庫
- 家庭訪問記録の書式史サイト
- 社会政策評価の古典講義ノート
- 厚生実務年報(閲覧ポータル)