山形砂金の変
| 別名 | 砂金改め騒動、山形御代替わり争議 |
|---|---|
| 場所 | 出羽国山形、最上川流域、蔵王山麓 |
| 時期 | 1784年 - 1786年 |
| 原因 | 砂金の採取権をめぐる藩内対立 |
| 結果 | 採取区画の再編、砂金目録の制定 |
| 主な関係者 | 芦沢勘解由、松田源左衛門、黒沢おいら、山形砂金改会 |
| 影響 | 山形砂金帳の整備、川筋検分制度の導入 |
| 記録 | 『山形砂金日録』ほか |
山形砂金の変(やまがたすながねのへん)は、後期のにおいて起きたとされる、砂金採取権をめぐる一連の政争である。のちに流域の鉱山行政と村落慣習を大きく変質させた事件として知られている[1]。
概要[編集]
山形砂金の変は、期のにおいて、とその支流で採れる砂金の分配をめぐって発生した事件である。表向きは年貢増徴に対する農民反発と説明されることが多いが、近年では藩の金座再編に伴う採取権の再配分が直接の引き金であったとする説が有力である[2]。
事件名の「変」は後世の呼称であり、当時は「砂金改め」「川筋御検分」などと呼ばれていたとされる。ただし、山形周辺の古文書では「変」の字がやけに丁寧に書き込まれているものがあり、編集史上のいたずらではないかとの指摘もある。
発生の背景[編集]
後半、では銅・鉄に加え、河川砂金の小規模採取が財政の補助収入として注目されていた。では、西麓から流れる扇状地に微量の砂金が散在し、村ごとに採取慣行が異なっていたため、藩はこれを把握しきれなかったとされる。
の冷夏によって米の検見が不作となったのち、藩士のは「金は米の影である」とする独自の財政理論を掲げ、川筋ごとの砂金量を帳簿化する案を提出した。これに対し、在地の採取人であったは、川原の石の並び方で採取権が決まるという古い口伝を盾に抵抗し、ここに制度と慣習の衝突が生じた。
なお、山形城下の両替商が密かに砂金を秤量する際、製の精秤が用いられていたという記録があり、これは後年の「砂金の重さが一粒ずつ違った」という妙な伝説の起点になったともいわれる。
事件の経過[編集]
砂金目録の提出[編集]
春、藩は各村に対し「砂金目録」の提出を命じた。目録には採取人数、川原の長さ、夜間に持ち帰った布袋の数まで記載させたため、村役人の間では「米より細かい勘定」と揶揄された。記録によれば、方面のある組では、砂金の量を測るのに蕎麦粉を混ぜて比重を偽装したため、後に検分役が三日三晩、川辺で胡麻と見分ける作業をさせられたという[3]。
川筋封鎖と夜討ち[編集]
冬、藩は主要採取地の一部を封鎖し、夜間の川原立ち入りを禁じた。これに対して採取人側は、から流れ込む雪解け水を利用して検分札を流し、封鎖区域を一時的に曖昧にするという奇策を用いた。『山形砂金日録』には、検分札がまとめてに流された夜、役人が「札より川が先に走る」と言って引き揚げたと記されている。
御代替わりの裁断[編集]
事態収拾のため、には内で特別評定が開かれた。ここでが、砂金採取は「川の恵みを読む技術」であり、農政ではなく暦法の一種として扱うべきだと主張したため、論点が突然、天文と土木にまで拡大した。最終的に藩は採取区画を七つに再編し、各区画に「金目見届け人」を置くことで妥協したが、この制度は後に期の河川監理にも引用されたとされる。
中心人物[編集]
芦沢勘解由は、事件の推進役とされる藩士である。実務家としては有能だったが、砂金の増収見込みを算盤ではなく碁石で計算していたため、同僚からは「川を囲碁で読む男」と呼ばれた。
黒沢おいらは、在地採取民のまとめ役として語られる人物である。女性であったとする伝承と、実は神社の神職であったとする伝承が併存しており、史料ごとに肩書が三転する点がこの事件のややこしさを象徴している。なお、の下役であったという説もあるが、本人の署名がすべて仮名で残るため、断定は難しい。
松田源左衛門は、最終評定で制度設計を担ったとされる人物である。彼がまとめたとされる『砂金九則』は、採取量よりも「流域の機嫌」を重視する独特の規定集で、第三条に「川鳴りの強き日は採ることを急ぐべからず」とある。
社会的影響[編集]
山形砂金の変ののち、では砂金採取の許認可が明文化され、河川ごとの区画帳が整えられた。この制度は小規模ながら近代的な資源管理の先駆けと評価され、期の他藩でも模倣されたとされる。
一方で、事件は民間信仰にも影響した。山形周辺では、金色の砂を見つけると川に「お礼石」を返す習俗が広まり、昭和初期まで続いたという。ただし、の民俗調査ではその石がほぼすべて川原の普通の安山岩であったことが判明しており、信仰の純度はむしろ高かったとも言われる。
また、城下の商家では「砂金茶漬け」と称して、金箔入りの甘味を出す流行が起きた。これは本来、検分役への接待に過ぎなかったが、後にの菓子商が真似をし、東北一帯に「金を食べると帳面が締まる」という奇妙な迷信を残した。
批判と論争[編集]
事件の実在性については、後期から議論がある。『山形砂金日録』の写本に不自然な同一筆跡が多いこと、また採取量の単位が「粒」「匁」「景気」で混在していることから、後世の脚色が大きいとする説が根強い。
さらに、にが公表した再検討報告では、黒沢おいらの名前が三つの異なる郡で別人として現れるため、「一人の英雄ではなく、複数の採取民像を束ねた編集上の人物ではないか」との指摘がなされた。これに対して山形側の郷土史家は、むしろ土地の記憶が人名を生成したのであり、人物の同定を急ぐべきではないと反論している[要出典]。
なお、評定で用いられたとされる砂金秤がごとに鳴る仕掛けだったという逸話は、現在でも観光土産として再現されているが、実際には叩くと鐘のように鳴るだけの金属玩具である。
後世の評価[編集]
現代では、山形砂金の変は単なる騒動ではなく、河川資源をめぐる合意形成の失敗と成功が同時に起きた事例として語られている。内の一部自治体では、毎年秋に「砂金改め行列」が再現され、役場職員が木製の秤と青い布袋を持って練り歩く。
また、の地域史講座では、事件を題材にした演習が行われ、学生が川原の地図を前に「採取権とは何か」を討論する。もっとも、課題レポートの半数以上が「金は見つからなかったが心は見つかった」で締めくくられるため、教育効果には賛否があるとされる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯恒夫『山形砂金目録の研究』東北史料出版社, 1987, pp. 41-89.
- ^ 藤村雅人「最上川流域における砂金採取権の変遷」『地方史研究』Vol. 52, No. 4, 1999, pp. 113-129.
- ^ Margaret L. Thornton, "River Gold and Domain Politics in Northern Japan" Journal of East Asian Folklore, Vol. 18, No. 2, 2004, pp. 77-101.
- ^ 小松原喜平『天明期山形藩の財政と川筋検分』山形歴史叢書, 1968, pp. 9-66.
- ^ 黒田真由美「黒沢おいら伝承の分布と変容」『民俗と文書』第11巻第1号, 2011, pp. 5-28.
- ^ Hiroshi Watanabe, "Measuring Sand: Nugget Accounting in Edo River Systems" The Nippon Review of Historical Economics, Vol. 6, No. 1, 1978, pp. 201-219.
- ^ 高橋英二『砂金秤とその周辺』山形文化会館出版部, 1995, pp. 102-147.
- ^ Ernest P. Caldwell, "The Gold in the Gravel and the Gravel in the Gold" Transactions of the Society for Premodern Logistics, Vol. 3, No. 3, 1962, pp. 33-58.
- ^ 山形郷土資料編纂委員会『山形砂金日録 校訂本』山形市史資料刊行会, 2008, pp. 1-74.
- ^ 岡本澄江「『砂金九則』に見る暦法的行政」『季刊 日本地方行政史』第24巻第2号, 2016, pp. 91-110.
外部リンク
- 山形郷土史アーカイブ
- 最上川流域史研究会
- 東北砂金文化データベース
- 山形藩文書翻刻プロジェクト
- 砂金改会記念館