常総水累
| 名称 | 常総水累 |
|---|---|
| 読み | じょうそうすいるい |
| 英語表記 | Joso Suirui |
| 発祥 | 江戸後期の常総台地周辺 |
| 主な対象 | 水位、堤防負荷、田畑浸水、舟運停止 |
| 運用主体 | 名主、普請組、寺社、後に県土木関係者 |
| 成立年 | 1818年頃とされる |
| 廃止状況 | 制度上は消滅、民間では断続的に継承 |
| 記録単位 | 尺、勺、さらに独自の「累段」 |
常総水累(じょうそうすいるい)は、南西部を中心に伝承された、流域の水位変動を階層的に記録・予測するための民間・準公的な帳票体系である。江戸後期にの用水管理から派生したとされ、のちに期の治水計画にも影響を与えたとされる[1]。
概要[編集]
常総水累は、、、周辺の低湿地で用いられた水位・浸水深・堤外圧を総合的に記録する方法である。単なる水位帳ではなく、過去の増水を基準に「今年は昨年の何累に相当するか」を示す点に特徴があった。
名称の「水累」は、の増水が一度の洪水で終わらず、支流・逆流・田面反射の三段で「累なる」ことを表した語と説明される。なお、地元の古文書では「水類」「水塁」とも書かれ、写本のたびに意味が少しずつずれていったことが知られている[2]。
成立の背景[編集]
成立の背景には、後期の頻発する水害と、に伴う用排水管理の複雑化があったとされる。特に年間の連続洪水で、村ごとの口伝だけでは堤防の危険度を比較できなくなり、の名主・桐原甚右衛門が「前年差ではなく累差で見るべきだ」と主張したという。
この発想に同調したのが、の測量方であった松村宗右衛門、ならびにの記録係であった僧・了雲である。彼らは寺の什器目録に使われていた等級表を流用し、水位を「一累」「二累」「半累」と段階化した。もっとも、半累の定義だけは最後まで統一されず、家によって約18センチから27センチまで幅があったとする説が有力である[3]。
運用[編集]
累段の測定[編集]
測定は毎朝辰刻、堤防上の木杭に結ばれた麻縄の結び目で行われた。標準杭は本流、旧流路、田面の三か所に設けられ、最も高い杭の濡れ具合を基準に「上累」「中累」「下累」が決められた。記録係は竹尺と烏口を用い、雨天時には墨のにじみ方まで加点したという。
村役と寺社の役割[編集]
運用の中心は村役場ではなく、実際にはの御朱印係に似た半公的機関であったとされる。各村の帳面は年末にの講で照合され、異常値が出た場合は神社の太鼓を3回、寺の鐘を7回鳴らして通知した。なお、太鼓の回数と鐘の回数を逆にすると「逆水」と呼ばれ、翌年の豊作祈願が無効になると信じられていた。
舟運との接続[編集]
から方面への舟運では、水累の値が4累を超えると「棹の角度を15度増やす」規定があった。これにより、荷駄の遅延率が12.4%改善したとする『常総普請覚書』が残るが、算出方法は不明である。さらに、舟頭のあいだでは水累を見誤ると舟板が「三日後に泣く」と言われ、板の反り具合まで記録票に書き込まれた。
制度化と近代化[編集]
期に入ると、常総水累はの地方改良運動と接続され、帳票の様式が縦書きから横書きに改められた。これにより「累段表」が「水累式危険度指標」として再編され、の土木係に提出する補助資料として半ば公式化された。
1908年にはの地理学教室から調査員が派遣され、現地で「水が多いほど累が増すという逆説的だが便利な表現」と報告している。報告書では、常総水累が実測値よりも「住民の体感」に近いことが評価された一方、記録者ごとに数値が揺れるため統計学的には扱いにくいとも指摘された[4]。
社会的影響[編集]
常総水累の最大の影響は、災害対応そのものよりも、地域の会話を数値化した点にある。たとえば「今日は二累だから田へ入るな」といった言い回しが一帯の共通語彙となり、婚礼の日取りや味噌樽の蓋の重しまで水位感覚で決める風習が生まれた。
また、30年代の高度経済成長期には、土木業者がこの制度を半ば広告的に利用し、「常総水累対応済み堤防」という表現をパンフレットに載せたため、地元では防災と宣伝の境界が曖昧になった。1972年には県の委託研究で、常総水累に基づく避難判断が実際の氾濫到達時間より平均14分早かったとされるが、調査票の一部が柚子箱に入れられたまま発見されたため、信頼性には議論がある[5]。
批判と論争[編集]
批判の中心は、常総水累が経験則に依存しすぎており、客観的な気象観測と整合しない場合があった点である。とりわけの観測記録と比較した際、同じ降雨量でも村ごとに「三累」「五累」の評価が分かれることがしばしばあり、後年の研究者は「地域アイデンティティの計測装置に近い」と評した。
一方で、支持者は「水は数字ではなく記憶である」と反論した。1991年の総会では、旧家の当主が「二累の夜に橋を渡った者は三代祟られる」と発言し、会場が一時騒然となったという。もっとも、その発言の直後に配布された資料では祟りの発生率がわずか0.7%と記されており、会員の間でかえって信頼を集めた。
現代における再評価[編集]
デジタル化[編集]
2000年代以降、常総水累はと結びつけられ、「累段」を地図上に重ねる試みが進んだ。これにより、旧来の木札や帳面は電子化され、の研究施設では水累を自動推定する試作アルゴリズムまで開発された。もっとも、学習データの大半が昭和40年代の手書き帳簿だったため、AIが豪雨予報より先に味噌の湿気を警告する事例があった。
文化財としての保存[編集]
現在、いくつかの原本は類似の施設に寄託されているとされ、毎年六月には「水累読み合わせ会」が開かれる。参加者は古い墨跡を読み上げ、最後に「累を絶やさず」と唱和する。なお、保存担当者の一人は、帳面の余白に描かれた舟の落書きが最も正確な水位記録だと主張している。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 桐原甚右衛門『常総水累覚書』下妻普請研究会, 1824年.
- ^ 松村宗右衛門『利根流域累段考』結城郡測量所, 1831年.
- ^ 了雲『寺社水帳と浸水等級の関係』常総講写本, 1842年.
- ^ 渡辺精一郎「常総地方における水累制度の形成」『日本農村史研究』Vol. 18, No. 3, pp. 201-226, 1967年.
- ^ Margaret A. Thornton, "Layered Flood Memory in the Joso Plain" Journal of East Asian Hydrology, Vol. 12, No. 1, pp. 44-79, 1983.
- ^ 茨城県土木課『常総水累実地調査報告』県庁資料第14号, 1909年.
- ^ 佐久間隆一『堤防と祟りの社会学』中央防災出版, 1994年.
- ^ 常総水累保存会編『水累読本: 旧帳面の解読と運用』常総郷土文化社, 2002年.
- ^ Hiroshi Kanda, "The Numerology of Water in Rural Kantō" Proceedings of the Society for Invented Studies, Vol. 4, No. 2, pp. 11-38, 1978.
- ^ 野口千鶴『茨城県低湿地の伝承危険度指標』東北地理学会誌, 第31巻第2号, pp. 88-104, 2011年.
外部リンク
- 常総水累保存会
- 茨城民間防災資料アーカイブ
- 水累研究フォーラム
- 常総郷土史デジタル館
- 旧河道と記憶の会