平塚右兵衛貞昌
| 生誕 | 1568年? |
|---|---|
| 死没 | 1631年? |
| 別名 | 平塚右兵衛、貞昌斎、砂浜右衛門 |
| 時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
| 主な業績 | 逆風射撃、潮汐照準法、三度折り薬室 |
| 所属 | 平塚家、後北条残党測量同盟 |
| 活動拠点 | 相模国、江戸湾沿岸 |
| 著名な逸話 | 銃身に米粒を詰めて湿度を測った |
平塚右兵衛貞昌(ひらつか うえもん さだまさ、? - ?)は、末期から初期にかけての改良家、研究者、ならびに「逆風射撃」の祖として知られるの武将である[1]。特にの海岸部で編み出したとされるは、後世の城砦防衛理論に影響を与えたとする説がある[2]。
概要[編集]
平塚右兵衛貞昌は、近世初期の史においてしばしば周縁的に扱われる一方、海風を利用した命中率向上法を体系化した人物として語られる。とりわけからにかけての浜辺で行われた試射記録は、のちに下の兵学者に参照されたという。
一部の史料では、貞昌は単なる武芸者ではなく、・・を兼ねた「実用技術の総合者」であったとされる。ただし、彼の事績の多くは期の写本にしか現れず、同名異人説も根強い[要出典]。
生涯[編集]
出自と青年期[編集]
貞昌はの小領主・平塚家の三男として生まれたとされる。幼少期、城下で行われた火薬納入の立ち会いの際、湿気で弾薬が膨れた様子を観察したことが、後年の研究の出発点になったという。家中には算術に通じた僧侶が出入りしており、そこで覚えたの考え方が、彼の「角度を数で制する」という発想につながったとされる。
青年期には沿いの関所を回り、各地の風向きと銃弾の落下点を記録した。とくに付近の浜辺で、毎朝4時台に30発ずつ試射したとの記録があり、これは「浜の暁験」と呼ばれる。なお、その記録簿は一冊目がぬれたため二冊目を塩漬けにしたという、いかにも後世の編集者が喜びそうな逸話が付されている。
この時期、貞昌はの船大工から曲尺の応用を学び、銃床にとを交互に挟む独自の反動軽減法を考案した。彼の銃は「三度折り薬室」と呼ばれ、折り目を三つ入れることで火薬の燃焼速度を安定させたと伝えられる。
逆風射撃の確立[編集]
貞昌の名を最も有名にしたのは、ごろに完成したとされるである。これは、風下に立つのではなく、あえて風上へ弾道を逸らすことで、敵の兜の縁をかすめるという奇妙な戦法であった。彼は「風は敵よりも先に裏切る」と述べたとされ、この言葉は後世の兵書『風裏一撃録』に引用された。
伝承によれば、貞昌は沖の季節風を観測し、湿度が74%以上の日には弾が1.3尺だけ沈むことを発見した。そこで、火薬量を米粒28粒分だけ増減させる調整法を定め、これが「米衡法」である。実験は毎回、立会人の僧が数珠を1回転させるまで中止しない規則であったという。
この理論は一帯の鉄砲組足軽に急速に広まり、彼らは雨の日にむしろ命中率が上がるとまで主張した。もっとも、後年の軍記物には「貞昌の銃だけが先に雨を撃ち落とした」といった誇張表現も見られ、史実性には疑問が残る。
晩年と失踪[編集]
以降、貞昌は公的記録から徐々に姿を消す。いわゆるの後、彼はの浜で「海の反動を学ぶ」と言い残し、弟子数名を連れて沿岸へ向かったとされる。その後、の漁村で銃身洗浄に関する講義を行ったという記録はあるが、本人の署名はなく、代筆の可能性が高い。
最終的には、の嵐の夜に自作の試験台ごと沖へ流されたという説が有力である。ただし、翌年にで「平塚右兵衛」を名乗る人物が海辺の潮位表を売っていたとの商業帳簿も残っており、死没年は確定していない。
業績[編集]
潮汐照準法[編集]
潮汐照準法は、時と時で弾道がわずかに変化するという前提に基づく独自理論である。貞昌はとの潮目を14か月にわたり測り、潮位が一寸上がるごとに命中点が約二分ずれるとした。彼の弟子はこれを「潮一寸、命二分」と略記した。
この理論は海沿いの砲台設計にも応用され、浜風が強い日は砲口を少し西に振る慣習ができたという。もっとも、現代の研究者の間では、これは実際には射手の姿勢の崩れを潮汐に仮託しただけではないかとの指摘もある[3]。
三度折り薬室[編集]
三度折り薬室は、火薬の量を三段階に折り分けて装填する方式で、湿地戦における暴発率を低下させたとされる。貞昌は紙・竹・漆を用いた試験体を72種作成し、そのうち実用に耐えたのは9種のみであったが、彼は「9は風が通る」として採用を決めたという。
この発明は、のちにのが採用を検討したが、弾薬消費が読みにくいとして不採用になった。なお、試作品の一つはの寺に奉納され、長らく「破魔筒」として修験者に扱われた。
教育と弟子筋[編集]
貞昌の門人は確認できるだけで18名おり、その多くがやの沿岸警備に従事した。中でも、、の3名は「風見三羽烏」と呼ばれ、弟子それぞれが異なる風向記号を作ったことで、後世の注釈を極端に面倒にした。
彼の教授法はきわめて実地的で、座学は1日20分しか行わず、残りは砂浜に杭を打って弾着を数える方式であった。そのため門下では算術が上達したが、字が汚くなる者が続出したと伝えられる。
評価と影響[編集]
貞昌は、近世兵学における「理屈で撃つ」発想の先駆けとして評価されることがある。とくに配下の一部家臣が彼の記録を写し取り、藩の浜辺訓練に持ち帰ったという伝承は有名である。
一方で、期の史家は、彼の業績を「数理化された伝承」にすぎないとして慎重であった。ところが期に入ると、海軍関係の雑誌が『潮汐照準法』を再評価し、沿岸観測の象徴的人物として急に持ち上げたため、人物像が妙に立派になりすぎた経緯がある。
現在では、内の郷土史研究会の間で、貞昌は「戦国末期の実験精神を体現した男」として親しまれている。また、毎年の一部町内では、浜辺で竹筒を振って風を測る「貞昌祭」が行われ、参加者の約3割が仕組みを理解していないという。
批判と論争[編集]
貞昌をめぐる最大の論争は、そもそも彼が実在したのかという点である。現存する一次史料の多くは以降の写本であり、しかも筆跡が3種類以上混在しているため、後世の創作説が根強い。
また、逆風射撃の記述には「弾丸が一度だけ海鳥を追い越した」といった表現があり、同時代の戦闘技術としては不自然であるとの批判がある。これに対し擁護派は、貞昌は兵学家ではなく「境界条件を言語化した観測者」であったと主張している。
なお、にの古書店で発見されたとされる『平塚右兵衛覚書』は、その後の調査で装丁の糊が初期のものと一致し、偽書とみなされている。ただし、偽書であること自体が「貞昌らしい」と受け止められてしまったため、議論は収束していない。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 高瀬玄吾『相模浜辺銃術考』海鳴社, 1978年.
- ^ Margaret A. Thornton, "Tidal Aiming and Early Japanese Gunnery", Journal of Maritime Military Studies, Vol. 12, No. 3, 1994, pp. 201-228.
- ^ 北沢宗一『風向と弾道の民俗史』岩波書店, 1989年.
- ^ 小泉琢磨『平塚右兵衛貞昌覚書の研究』中世史料叢刊, 第4巻第2号, 2003年, pp. 55-89.
- ^ Edward K. Bell, "The Three-Fold Powder Chamber: A Curious Case from Sagami", East Asian Arms Review, Vol. 7, No. 1, 2001, pp. 13-31.
- ^ 井上千代『江戸湾潮汐表と砲術実践』吉川弘文館, 2011年.
- ^ 渡辺精一『浜の暁験とその周辺』地方史研究, 第18巻第4号, 1966年, pp. 102-119.
- ^ 斎藤蘭子『貞昌斎日録』青木書店, 1998年.
- ^ Charles H. Morrow, "When Wind Betrays: Experimental Infantry on the Pacific Coast", Proceedings of the Pacific Historical Ordnance Society, Vol. 5, No. 2, 1987, pp. 77-96.
- ^ 平塚右兵衛顕彰会編『潮一寸、命二分』平塚郷土資料館, 2020年.
- ^ 森下佑介『風裏一撃録考注』史料批評, 第9巻第1号, 2016年, pp. 1-24.
外部リンク
- 平塚右兵衛貞昌研究会
- 相模沿岸兵学アーカイブ
- 貞昌祭実行委員会
- 風向計量史データベース
- 横浜古書偽書調査室