広島-ニューヨーク交換条約
| 正式名称 | 広島-ニューヨーク交換条約 |
|---|---|
| 通称 | HNY条約 |
| 署名日 | 1958年4月18日 |
| 署名地 | 広島市中区・平和大橋臨時会館 |
| 発効日 | 1959年1月1日 |
| 締約主体 | 広島市、ニューヨーク市文化交流局、日米都市協議会 |
| 条約対象 | 記念碑、街路標識、通訳研修、夜間照明配置 |
| 失効 | 1976年の附属議定書により形式上終了 |
| 関連機関 | 国際都市交換委員会 |
広島-ニューヨーク交換条約(ひろしま-ニューヨークこうかんじょうやく、英: Hiroshima–New York Exchange Treaty)は、との間で交わされたとされる、都市景観・記憶展示・通訳人材を相互に交換するための特別協定である。戦後復興期の文化外交の一環として成立したとされ、現在では国際都市間条約の先例としてしばしば言及される[1]。
概要[編集]
広島-ニューヨーク交換条約は、後半にとのあいだで結ばれたとされる都市間協定である。条約の主眼は、両都市が互いの「記憶の景観」を一部交換し、復興・移民・核時代の表象を相互に学ぶことにあったとされる[2]。
もっとも、条約文は通常の外交文書というより、都市計画、観光振興、教育交換、そして記念式典の演出手順を一つに束ねた異様に細かな共同宣言であり、後年の研究者からは「条約の体裁を取った都市芸術プロジェクト」と評されることもある。なお、外務省では長らく非公式資料扱いであったが、の『都市交換記録集』に初めて要旨が掲載された[3]。
成立の経緯[編集]
起源はの市政視察団による広島訪問に遡るとされる。視察団の一員であった都市計画官が、復興途上の広島における歩道幅員の規律性と、戦災記憶を保持する碑文配置の密度に強い関心を示し、帰国後に「相互都市学習」の提案書を提出したことが発端であった[4]。
一方で、側でも、英語案内板の不足と海外記者対応の混乱が慢性化しており、の事務局長だったが、都市全体を「交換可能な学習装置」として扱う構想を提示した。これが、にで行われた非公開協議へとつながり、翌年には文案がほぼ完成していたとされる。
条約の内容[編集]
都市景観の相互貸与[編集]
条約第3条では、は春季の一定期間、に対し、平和記念公園周辺の「歩行速度と沈黙の作法」を教授する義務を負い、代わりにからはタイムズスクエア周辺の夜間照明設計図が貸与されたとされる。実際には設計図の多くが広告看板の角度一覧であったが、広島側はこれを「近代的視線の集積」と解釈した[5]。
通訳人材の交換[編集]
最も有名なのは通訳交換制度である。毎年12名の若手通訳が相互に派遣され、うち半数は関係機関、残りは百貨店や映画館の案内係に配置された。の第1期では、から派遣されたがの税務相談窓口で活躍し、逆に出身のは前の観光案内で「沈黙の間」を45秒長く取る独自の通訳法を広めたとされる。
記念碑の巡回展示[編集]
条約の附属議定書には、両都市の記念碑を縮尺1/12で複製し、相互に巡回展示する規定があった。広島にはの腕部模型が、ニューヨークには折り鶴を模したのレプリカが送られた。特に冬、マンハッタンの市庁舎前で開催された展示では、模型の台座が積雪で沈み、主催者が急遽「追悼の沈降」と説明したため、結果的に来場者数がに達したという[6]。
運用と実務[編集]
条約の運用はが担い、委員はの外郭団体ではなく、広島とニューヨークの両方に事務所を持つ半公的組織として設計された。会議は年2回、通常はのホテル会議室かの教会地下室で交互に開かれ、議題の大半は「案内板のフォント」「花壇の高さ」「献花時の拍手の可否」であった。
記録によれば、度の交換事業では延べが移動し、航空券費は総額に上ったとされる。ただし、この数字には式典用の白手袋、翻訳用トランシーバー、そして両市共通の「儀礼的沈黙茶菓子」が含まれていたとされ、予算執行の透明性を疑問視する声もあった。
歴史[編集]
1950年代[編集]
の署名直後、条約は国際報道で好意的に扱われた。とくには「都市外交が人間の歩幅から始まる時代」と評し、は「英語の看板が増えるほど、川が静かになる」と報じたとされる。もっとも、条約の正式文書における英訳でとが混同され、一部の市民が「広島がニューヨークへ丸ごと移転する」と誤解した事件もあった。
1960年代[編集]
以降、条約は文化事業へと傾斜した。ジャズ演奏者、写真家、都市工学者が頻繁に往来し、の書店で広島の川面写真展が開かれる一方、ではニューヨーク地下鉄の騒音を再現した「移動展示」が実施された。なお、この展示はあまりに好評で、近隣商店街が翌月からBGMとして地下鉄音を流し始めたという。
1970年代以降[編集]
、両市の財政監査を契機に、交換条約は附属議定書のみを残して形式上終了した。ただし、実務上はその後も小規模な人材交換が続き、にはの公立図書館司書が広島で「索引の平和学」を講義した記録がある。今日では、条約は失効したとするのが通説である一方、年1回だけ自動更新されているとする説もあり、研究者の間で見解が分かれている[7]。
社会的影響[編集]
この条約は、都市間交流を「観光」や「友好」にとどめず、記憶の管理や公共空間の読解へ拡張した点で重要とされる。結果として、では案内標識の英語表記が急速に整備され、では追悼空間の植栽に日本式の低木配置が一部採用された[8]。
また、条約は大学教育にも影響し、とではに「都市交換論」が開講された。講義では、地図の余白や広場のベンチ数が国際関係を左右するという独特の理論が扱われ、受講者アンケートでは満足度を記録したという。ただし、この数字は講義担当者が「都市の幸福度も小数点以下で扱うべきである」と主張して集計方法を改変したため、現在でも要出典扱いである。
批判と論争[編集]
条約には当初から批判もあった。第一に、記念碑の相互貸与が「歴史の軽量化」につながるとする反対論がから出され、第二に、側では市民団体が「都市の悲しみを輸出入品のように扱うべきではない」と抗議した[9]。
さらに、の展示記録に登場する「台座の沈降」については、自然現象ではなく演出だったとする証言が後年に出ている。これが事実であれば条約の象徴的成功の一部は舞台装置に依存していたことになり、研究者の間では「真正性より再現性を重視した外交」と評価する声と、「最初から都市版の巡回見世物である」とする冷笑的な見方が対立している。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『都市交換条約論序説』広島平和文化会議出版部, 1963.
- ^ Edward L. Burns, “On Reciprocal Civic Memory: Notes from Hiroshima,” Journal of Urban Protocol Studies, Vol. 4, No. 2, 1960, pp. 113-147.
- ^ 山根キヨ子『英語標識と沈黙の設計』中国新聞社, 1971.
- ^ Margaret A. Thornton, “The Baltimore Effect and the Hiroshima-New York Exchange,” City Diplomacy Quarterly, Vol. 9, No. 1, 1968, pp. 21-55.
- ^ 国際都市交換委員会編『都市交換記録集 第1巻』東京都市出版, 1962.
- ^ Thomas V. Keane, “Forty-Five Seconds of Silence: Interpretation Practices in Public Memorials,” Annals of Transnational Civic Studies, Vol. 12, No. 4, 1965, pp. 201-230.
- ^ 広島市企画局『交換条約附属議定書とその実務』広島市公報資料室, 1977.
- ^ Jean-Luc Moreau, “La diplomatie des bancs publics: Hiroshima à New York,” Revue des Relations Urbaines, Vol. 7, No. 3, 1974, pp. 88-119.
- ^ 『ニューヨーク市庁舎前広場における模型展示の沈降現象』都市景観研究 第18巻第6号, 1962, pp. 5-19.
- ^ 森田康平『条約英訳における exchange / replacement 混同史』日本外交文書研究, 第11巻第2号, 1984, pp. 77-104.
外部リンク
- 広島-ニューヨーク交換条約アーカイブ
- 国際都市交換委員会資料室
- 都市外交研究フォーラム
- 平和記憶景観データベース
- ニューヨーク市文化移植局年報