徳川家康像(伝徳川家康・伝豊臣秀吉・伝織田信長)
| 種別 | 彫像(伝承付きの帰属呼称) |
|---|---|
| 想定制作地 | 京・洛中の鍛金/彫刻工房とされる |
| 素材(説) | 青銅(あるいは彩色木彫)とする見解がある |
| 主な帰属先 | 徳川家康・豊臣秀吉・織田信長 |
| 関連制度 | 伝承ラベル改竄(学術管理手続) |
| 象徴要素 | 微細な衣紋表現、眉間の緊張感 |
| 議論の焦点 | 「誰の顔」かより「誰が貼ったか」 |
は、ある特定の彫像がに伝わるとする説と、やの作風・肖像に由来するという説が併存している美術史上の呼称である[1]。とくに江戸中期に発生した「伝承ラベル改竄(かいざん)」の実務を示す資料としてしばしば言及され、収集家や学芸員のあいだで半ば伝説化している[2]。
概要[編集]
は、同一の彫像をめぐって「伝徳川家康」「伝豊臣秀吉」「伝織田信長」といった複数の伝承ラベルが付け替わることで知られる呼称である[1]。像そのものは同一とされる一方で、ラベル運用の履歴が研究対象となっており、美術史と行政文書の接点として扱われることが多い。
この名称が注目される背景には、江戸中期に流行したとされる“肖像の物理測定より、台帳の書式が価値を決める”という考え方がある。実務では、展示替えや入札のたびに「帰属名」を更新する必要があり、の一部の収蔵先で「改竄」ではなく「更新」と呼ぶ慣行が形成されたとされる[3]。なお、現存する台帳断片の書きぶりが、研究者の間で「微笑むぐらい律儀」である点も、語り継がれる理由とされる。
概要[編集]
呼称が成立する仕組み[編集]
本像が“徳川家康像”と呼ばれつつ、同時に“伝豊臣秀吉”“伝織田信長”とされるのは、像の来歴が「顔」より「紙」によって組み替えられてきたためと説明されることが多い[4]。具体的には、像の裏面に貼られた紙片(保存用札)が、来歴台帳の改行幅に合わせて切り替えられたという説がある。
この説では、改行幅の規格として「二寸四分(約7.3cm)を基準にする」という手順が語られるが、根拠となる記録は“確認できた気がする”程度の断片に依存しているとされる[5]。もっとも、学芸員向け実務書では、札の貼付位置を誤ると燻煙(くんえん)乾燥後に影が出るため、位置合わせが重要であったとも述べられる[6]。
外見上の“見分けどころ”[編集]
帰属が変わっても像の表情は変わらないため、研究では細部の意匠が争点になる。とりわけ眉間の筋(“三本ヒダ”と呼ばれる)が、系の“沈着”、系の“高圧”、系の“攻め”をそれぞれ想起させるとして、測定図が比較される[2]。
一例として、顔面から首元までの距離をノギスで測定し「ちょうど12.6mmだけ左眉が深い」とする計測報告があり、そこから“どの人物の印象に似せたか”が推定されたとされる[7]。ただし、この報告は同じ測定者がのちに「ノギスの定規が摩耗していた」とも記しており、疑義と面白さが同居する資料として引用され続けている。
歴史[編集]
洛中の工房と「台帳主導」の時代[編集]
像が最初に“誰の顔か”を名乗った時期は明確ではないが、様式が京都()の工房で整えられたという伝承がある[8]。この工房では、彫刻工程よりも「台帳に先に帰属名を書いてから彫る」手順が採用されたとされる。
当時の説明では、注文主が入札で比較されるため、彫像の価値を“作者名”ではなく“帳簿の整形”で上げる必要があったという。結果として、像は完成後に“伝”が付けられる運用になり、だけでなく、同時期に人気が高かったやの呼称が後追いで貼られたと推定される[3]。さらに、工房の帳簿係が同じ姓(例:渡邊姓)を持つ者を優先的に記す風習を採っていたため、同名の人物が増殖する“帰属名の擬似血縁”が起きたという見解もある[9]。
展示替えと「伝承ラベル改竄」[編集]
最も語られるのは、江戸中期の収蔵施設で行われた(実務上は更新と呼ばれた)である。ある記録では、展示室の照度調整(蝋燭と行灯の換算)に合わせて“札の色味”が見える角度を変えたため、帰属ラベルも同時に更新されたとされる[6]。
具体的には、照度の目安を「行灯1基で畳一畳あたり0.7目盛」とし、帰属名札の紙厚を「0.18mm以内」と規定したという“細かすぎる数字”が残っている[10]。ただし、この数字は同じ論文内で“分厚く見せる方が買われた”とも書かれており、矛盾がむしろ信憑性を補うと指摘される。一方で、台帳の綴じ糸の色が展示替えのたびに変わっていることから、改竄は技術というより儀礼として運用された可能性がある[4]。
徳川期の広報と“勝ち顔”の流通[編集]
徳川政権が安定するにつれ、肖像物の市場では“勝ち戦の顔”が求められたとされる。そこで本像は、落款の有無よりも「見る側の物語」を優先する方針で、の説明文を土台にしながら、必要に応じての逸話やの逸話へ接続されたと考えられている[2]。
研究者の中には、「本像の説明文が11回改訂され、そのたびに“短い勝利譚”が増えた」とする説を支持する者もいる[7]。この“11回”という数字は、説明文の版木に残る彫り直し痕のカウントだというが、実物の版木は所在不明であるため、要出典であると注記されがちである[11]。それでも、改訂ごとの文体が急に硬くなる点が“役所っぽさ”を増幅させ、現場の統制が想像しやすい材料になっている。
社会的影響[編集]
の事例は、肖像文化が「絵が似ているか」より「制度がどう呼ぶか」によって編成されうることを示したとされる[1]。とくに、展示や販売の場では、来歴の正確性よりも“説明の流通性”が優先されたという指摘がある。
また、像をめぐる論争は学術界だけに留まらず、町人の間でも「伝って、貼るものなの?」という問いを生んだと説明される。ある町触(まちぶれ)に由来するとされる逸話では、行商が似た彫像を見つけると「今日の客は徳川が好きか、秀吉が好きか、信長が好きか」を口上で切り替えたという[9]。このように、帰属の揺れが“商売の応答性”として利用された点が、本像の社会的影響とされる。
さらに、後世の美術館運営にも波及したとされる。少なくとも民間の収蔵家向け講習では、ラベル更新の手順が“事務の芸術”として教えられた時期があり、本像はその教材に採用されたとされる[6]。
批判と論争[編集]
本像に関しては、帰属が三人物にまたがる点そのものが批判の対象になっている。批判側は「物理的特徴で語るべきであり、台帳の紙切れ遊びを研究にするのは誇張である」と主張することが多い[5]。一方、擁護側は「像の作者性より、伝承ラベルがどのように社会を動かしたかこそが歴史である」とし、むしろ“誇張される制度”の側面を研究すべきだとしている[2]。
また、細部計測が過度に精密であることも論争になった。たとえば“左眉が12.6mm深い”のような数値は、測定の再現性が検証されていないとして退けられることがある[7]。ただし、この退け方自体が「退ける側の測定誤差を隠したのではないか」という逆批判を呼び、結果として論争が長期化したとされる[11]。さらに、像の裏面に貼られた紙片を剥がすと“視認性が落ちる”ため、実験的検証が倫理的に制限されるという事情も指摘されている[6]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 田中信一『帰属名の綴じ方:江戸中期の台帳美学』東京書房, 1978.
- ^ Margaret A. Thornton『Attribution by Ledger: Portrait Statutes in Early Edo Markets』Oxford University Press, 1991.
- ^ 佐藤由紀夫『洛中工房の手順書:先に書く、後で彫る』京都学芸紀要第14巻第2号, 2003. pp. 41-63.
- ^ 鈴木昌平『展示替えと紙札の温度:蝋燭照度換算表の系譜』美術史実務研究第9巻第1号, 2011. pp. 12-29.
- ^ Viktor Petrov『Administrative Iconography and the “Three Faces” Problem』Journal of Early Visual Governance Vol. 6 No. 3, 2007. pp. 201-226.
- ^ 小林武『彫像の裏面に残る影:保存札の貼付位置と観察効果』国立保存技術年報第22号, 2016. pp. 77-95.
- ^ 渡邊敏郎『眉間意匠の定量化とその限界』日本彫刻測定学会誌第31巻第4号, 2020. pp. 305-318.
- ^ Ahmed El-Sayed『Markets of Memory: How “伝” Became Trade』Cambridge Historical Practices, 2005.
- ^ 松本静香『勝ち顔の広報文体:版木改訂十一回説の再検討』地方史文庫第8巻第1号, 2019. pp. 88-104.
- ^ 中村良介『照度目盛0.7の真偽と、0.18mm札の可能性』照明・収蔵資料研究会講演要旨集, 2014.
- ^ 『美術館運営講習(増補版)台帳更新と注意義務』内務印刷局, 1832.
外部リンク
- 伝承ラベル研究アーカイブ
- 洛中工房地図プロジェクト
- 行灯照度換算データベース
- 台帳美学デジタル写本館
- 眉間意匠測定リポジトリ