怨恨昭和天皇殺害事件
| 名称 | 怨恨昭和天皇殺害事件 |
|---|---|
| 正式名称 | 皇室周辺怨恨要人殺害未遂事件 |
| 日付 | 1936年7月18日 |
| 時間 | 午後9時前後 |
| 場所 | 東京都千代田区麹町一帯 |
| 概要 | 宮中周辺で要人を狙ったとされる未遂襲撃事件 |
| 標的 | 昭和天皇および宮内省関係者とされた |
| 手段 | 長剣状の金具、投石、放火用布片 |
| 犯人 | 木下栄蔵ほか2名とされた |
| 容疑 | 殺人未遂、放火未遂、治安警察法違反 |
| 動機 | 皇室への怨恨と失業救済策への反発 |
| 死亡/損害 | 死者0名、軽傷4名、門扉損壊2か所 |
怨恨昭和天皇殺害事件(えんこんしょうわてんのうさつがいじけん)は、1936年(昭和11年)7月18日に日本の東京都千代田区で発生した要人襲撃事件である[1]。警察庁による正式名称は「皇室周辺怨恨要人殺害未遂事件」とされ、通称では「昭和天皇殺害事件」とも呼ばれる[1]。
概要[編集]
怨恨昭和天皇殺害事件は、昭和初期の東京において、皇居外郭の警備線を突破しようとした小集団が起こしたとされる要人襲撃事件である。一般には未遂に終わった事件として扱われるが、当時の新聞では「宮城外苑の夜半騒擾」とも報じられ、後年になってから事件性が再整理された経緯がある[2]。
事件名の「怨恨」は、首謀者とみなされた木下栄蔵が、関東大震災後の失職と郊外移転をめぐる恨みを言い残したことに由来するとされる。ただし、実際には彼の供述調書の筆跡が複数人分混在していたとの指摘もあり、事件像は長く揺れてきた[3]。
背景・経緯[編集]
捜査[編集]
捜査開始[編集]
警視庁は事件発生の約40分後に現場封鎖を行い、翌日早朝には内務省警保局の応援班が投入された。捜査本部は「昭和宮城周辺暴行事件特別班」と呼ばれ、最初の24時間で延べ138人の聞き込みを実施したとされる[6]。
ただし、当初は単なる不審火として処理されかけたため、現場保存が不十分であったとの批判がある。現場の砂利からは靴跡が11点採取されたが、後にそのうち7点が鑑識の人為的再配置であったことが判明し、資料価値をめぐって論争になった。
遺留品[編集]
遺留品としては、焼け焦げた布片2点、折れた金具1本、そして東京駅近くの切符売り場で用いられたとみられる硬貨数枚が押収された。特に布片からは松脂と機械油の混合成分が検出され、これが犯行手段の一部を示す証拠とされた[7]。
一方で、木下の右手から検出された油脂は、近隣の屋台で販売されていた鰻串のタレに近い組成であったため、弁護側は「現場の科学鑑定は過度に政治化されている」と主張した。この主張は一部の新聞で面白おかしく扱われ、事件の異様さを広める結果となった。
被害者[編集]
本事件の被害者は、直接的には宮城外郭の警備に当たっていた巡査2名、宮内省嘱託1名、および見物人1名であるとされる。いずれも重傷には至らなかったが、宮内省嘱託の高木末吉は、襲撃の際に帽子を失い、その後10年にわたって同じ型の帽子しか被らなくなったという逸話が残る[8]。
なお、事件名に昭和天皇の名が含まれるものの、実際に直接接触した者はおらず、天皇本人は宮中で報告を受けただけであったとされる。それでも当時の官報では「御安泰」が強調され、以後しばらく宮内省周辺の夜間巡察が倍増した。
刑事裁判[編集]
初公判[編集]
木下栄蔵ほか2名は東京地方裁判所に起訴され、1937年2月の初公判では、検察側が殺人未遂の動機を「皇室への怨恨のほか、都市再編に対する逆恨み」と整理した。傍聴席には新聞記者が42名入り、うち11名が事件の印象記録にのみ終始したという[9]。
初公判では、木下が「天皇を狙ったのではなく、門を狙った」と述べたため、裁判長が一時休廷を宣言したと伝えられている。
第一審[編集]
第一審では、主犯格の木下に懲役18年、共犯2名に懲役8年および6年の判決が言い渡された。だが、判決文では一部の事実認定が「供述の整合性に欠ける」とされ、量刑の根拠がむしろ書記官の筆記速度に左右されたのではないかと後年の研究者に指摘されている[10]。
また、証拠として提出された布片の一部が、実は宮内省の予備倉庫で保管されていたカーテン端布と同一織りであった疑いが残り、事件全体の証拠評価は現在も完全には一致していない。
影響・事件後[編集]
事件後、警視庁は宮城周辺の巡回路を再設計し、夜間の外郭点検を従来の2倍、月18回に増やした。これにより麹町界隈では「門を見ると職質される」という俗説が生まれ、数か月間、夜店の売上が約17%下落したと商工会が報告している[11]。
また、陸軍省と内務省は共同で「怨恨思想対策講習」を実施し、全国の警察署に木製の模擬門扉を配布した。もっとも、その講習の半分以上は門扉の開閉訓練で終わっており、実効性は低かったとする回想録が残る。
評価[編集]
この事件は、昭和初期の都市不安と皇室神聖化の緊張が、半ば滑稽なかたちで噴出した事例として評価されている。特に、犯人側の思想が明確な政治綱領ではなく、怨恨・失業・誤配された請願書の三層から成っていた点が、同時代の事件としては珍しいとされる[12]。
一方で、事件記録の一部には後年の脚色が多く、実際には「殺害」よりも「威嚇」に重心があったとの研究もある。なお、1980年代に刊行された地方史資料の中には、現場の巡査が全員同じ人物だったとする明らかな誤植があり、研究者を困惑させた。
関連事件・類似事件[編集]
類似事件としては、昭和前期の宮城周辺騒擾、各地の要人脅迫事件、ならびに戦前の無産者運動に伴う放火未遂事件が挙げられる。また、大阪府で起きた「中之島夜警襲撃未遂事件」とは、動機の曖昧さと犯行準備の杜撰さがしばしば比較される[13]。
ただし、本事件のように、標的が天皇であるにもかかわらず、実際の現場では門扉や警備線の損壊が主たる被害となった例は少なく、刑法学上は「象徴的未遂事件」として扱われることがある。
関連作品[編集]
本事件を題材とする作品として、小説『夜の外郭にて』、映画『麹町九時七分』、テレビ番組『戦前事件簿 昭和の門前』が挙げられる。いずれも史実再現をうたっているが、実際には木下がヴァイオリンを携えていたり、巡査が三輪車で追跡したりするなど、史料上確認できない場面が多い[14]。
また、NHKの特集番組では「事件現場に残された布片の繊維」を1時間近くかけて検証した結果、結論が「当時の東京には布が多かった」に落ち着き、視聴者から大きな反響を呼んだ。
脚注[編集]
[1] 宮内警察史編纂室『昭和宮城周辺騒擾記録集成』宮内警察史料刊行会, 1974年. [2] 田所義信『戦前東京の夜間警備と不審火』中央治安研究所, 1981年. [3] 斎藤久雄『供述調書の筆跡学』青嵐出版, 1969年. [4] 山岸信夫『宮城怨恨会と失業青年層』東京地方史研究, Vol.12, 第3号, pp. 44-71, 1992年. [5] Margaret L. Thornton, "Iron Merchants and Night Patrols in 1930s Tokyo", Journal of Imperial Urban Studies, Vol. 8, No. 2, pp. 113-129, 2004. [6] 警視庁史料課『昭和十一年警備実務報告書』警視庁資料室, 1938年. [7] 鈴木一郎『油脂成分分析と治安鑑識』法政鑑識学報, 第7巻第1号, pp. 5-22, 1955年. [8] 木村末広『帽子を失った男たち』麹町文化社, 1972年. [9] Robert J. Hargrove, "Theatre of the Courthouse: Media and Trials in Prewar Japan", Pacific Historical Review, Vol. 61, No. 4, pp. 401-428, 1998. [10] 中村光平『昭和前期刑事判決の書記的偏向』日本法制史雑誌, 第19巻第2号, pp. 201-233, 1987年. [11] 麹町商工会『昭和十一年夜間売上統計』内部資料, 1937年. [12] Elizabeth H. Vale, "Resentment, Monarchy, and Improvised Violence", Asian Legal History Quarterly, Vol. 14, No. 1, pp. 9-31, 2011. [13] 近藤雅彦『中之島夜警襲撃未遂事件小考』地方事件史叢書, 2003年. [14] 『麹町九時七分』制作委員会『資料協力一覧』東都映像, 1996年.
脚注
- ^ 宮内警察史編纂室『昭和宮城周辺騒擾記録集成』宮内警察史料刊行会, 1974年.
- ^ 田所義信『戦前東京の夜間警備と不審火』中央治安研究所, 1981年.
- ^ 斎藤久雄『供述調書の筆跡学』青嵐出版, 1969年.
- ^ 山岸信夫『宮城怨恨会と失業青年層』東京地方史研究, Vol.12, 第3号, pp. 44-71, 1992年.
- ^ Margaret L. Thornton, "Iron Merchants and Night Patrols in 1930s Tokyo", Journal of Imperial Urban Studies, Vol. 8, No. 2, pp. 113-129, 2004.
- ^ 警視庁史料課『昭和十一年警備実務報告書』警視庁資料室, 1938年.
- ^ 鈴木一郎『油脂成分分析と治安鑑識』法政鑑識学報, 第7巻第1号, pp. 5-22, 1955年.
- ^ 木村末広『帽子を失った男たち』麹町文化社, 1972年.
- ^ Robert J. Hargrove, "Theatre of the Courthouse: Media and Trials in Prewar Japan", Pacific Historical Review, Vol. 61, No. 4, pp. 401-428, 1998.
- ^ 中村光平『昭和前期刑事判決の書記的偏向』日本法制史雑誌, 第19巻第2号, pp. 201-233, 1987年.
外部リンク
- 帝都事件史アーカイブ
- 皇室周辺警備年報データベース
- 昭和前期裁判記録閲覧室
- 東京治安史研究会
- 麹町地方史電子館