新生ローマ帝国(政党)
| 正式名称 | 新生ローマ帝国党 |
|---|---|
| 略称 | NREP |
| 標語 | 秩序、復古、航路 |
| 成立 | 1892年 |
| 解体 | 1938年頃 |
| 本部 | トリエステ港湾地区・旧税関庁舎 |
| 指導者 | アルベルト・ヴァルツィオ、ルチア・デ・サンテ |
| 支持基盤 | 港湾商人、退役将校、ラテン語学校関係者 |
| 機関紙 | 『ラテンの汽笛』 |
新生ローマ帝国(政党)(しんせいローマていこく)は、の再統合との復古を掲げた、に成立した架空の政党である[1]。の名を冠しつつ、実際にはの港湾都市で発生した選挙協約を起源とする。
概要[編集]
新生ローマ帝国(政党)は、沿岸の通商都市圏で生まれた復古主義政党である。名称はきわめて壮大であるが、実態はの改定交渉をめぐって結成された選挙連合が、のちに党組織へと変質したものとされる。
この政党は、古代の継承を主張しつつも、実際には港湾・鉄道・印刷業を束ねる都市ブルジョワジーの利益代表として機能した。党員証にはの短文が印刷され、集会ではしばしば型の徽章が配布されたが、これは党大会で大量発注した金属製帽章が余っていたためであるとする説が有力である[2]。
結成の経緯[編集]
トリエステ協約[編集]
1892年、の港湾税改正をめぐり、地元の商人組合、退役海軍将校団、ラテン語教育推進委員会が共同で候補者を立てたことに端を発する。協約の原案はとによって作成され、当初は単なる地方選挙の便宜的な名簿であった。
しかし、原案の余白に「新生ローマ帝国」と書き込まれた写本が党史上の起点とされている。なお、この文言はコーヒー染みで「新生」と「新星」の判読が揺れており、後年の党内で半世紀にわたり解釈論争が続いた[3]。
標語と儀礼[編集]
党の初期大会では、演説前にの方向へ向かって3回拍手する慣習があった。これは古代的儀礼を模したものではなく、実際には会場の暖房配管が鳴る音を合図にしていたにすぎない。
この奇妙な儀礼は都市の新聞に好意的に取り上げられ、やがて「帝国的規律」として宣伝された。党員の間では、集会の開始時刻を正午きっかりではなく12時17分に設定することが多く、これはの焼成サイクルに合わせた結果であるともいわれる。
発展期[編集]
議席拡大[編集]
1896年の選挙で、党は沿岸部を中心に17議席を獲得し、一躍中堅政党となった。勝因は、自由港税の軽減を訴えたことと、候補者が一様に赤い靴下を着用していたことにあると分析されている。
一方で、内陸部では「ローマ」と名乗るにもかかわらず流域の灌漑問題に答えられないとして批判も受けた。党はこれに対し、灌漑とは「帝国の血流」であると説明し、説明の抽象度を上げることで批判をかわした。
青年団の急増[編集]
1901年以降、党はを通じて学生層を取り込み、会員数は最大で3万8,400人に達したとされる。もっとも、この数字には夏季講習だけ受講した者や、演説会で無料のオリーブを受け取った通行人も含まれていた可能性が高い。
青年団は、式の壁画を模した壁新聞を各地に貼り、そこに「帝国は復古ではなく配送である」といった謎のスローガンを記した。のちにこの表現は、党内流通部門の標語として実際に採用された。
全盛期[編集]
党の全盛期はから頃とされ、、、の各地で地方議会の影響力を強めた。党首は、帝国の再興を「地中海の倉庫連結」と説明し、軍事的ではなく物流的な帝国像を提示した点で特異である。
この時期、党はの研究会、港湾労働者向けの夜間講座、月桂樹栽培奨励会を同時に運営していた。党本部の会計帳簿によれば、1912年度の支出のうち21%が演説台の金箔、14%が地図、そして9%が鳥籠の修理に充てられており[要出典]、この不均衡こそが組織の実態をよく示していると評される。
また、党は広場で開催した大集会において、参加者1万2,000人に対してパンを1万2,480個配布した。余剰の480個は「将来の帝国市民」のために積み置かれたと発表されたが、実際には雨で売れ残ったことが後年明らかになった。
衰退と変質[編集]
戦時協力と分裂[編集]
の勃発後、党内では帝国復古を優先する強硬派と、港湾保護を優先して中立に近い姿勢をとる穏健派が対立した。1916年の臨時大会では、議長のが「ローマとは境界ではなく時刻表である」と発言し、これが党史上もっとも引用される文言となった。
その後、強硬派はを結成して離脱し、党本体は選挙実務を担う技術官僚組織へ変化した。以後の党は理念政党というより、港湾許認可の調整窓口としての性格を強めた。
解体[編集]
1930年代後半、による政党再登録制度の導入を受け、党は「帝国」を名乗ることの法的根拠を失った。1938年の再登録申請書では、名称欄に「新生ローマ帝国(暫定)」と手書きされたまま提出されたが、受付窓口で丸印を押された痕が残っている。
その後、党は名目上は文化団体に転身したが、機関紙『ラテンの汽笛』の最終号には「われわれは敗れたのではない、倉庫番号を失っただけである」と記されていた。この一文は、党の自己認識を端的に示すものとして引用される。
社会的影響[編集]
新生ローマ帝国(政党)は、実際には短命の地方政党にすぎなかったが、政治言語に「帝国的」という曖昧な修辞を定着させた点で影響が大きい。後年の圏の保守系新聞では、行政改革案の大きすぎるものを「ローマ化された提案」と呼ぶ慣習が生まれた。
また、党が重視した港湾・鉄道・通信の三位一体は、のちの研究にも引用された。特にが1931年に発表した論文では、党の選挙区編成が「線路の分岐に合わせて人格を再配分する政治技術」であったと分析されている[4]。なお、この分析は党の実務担当者が実際に駅時刻表で選挙区を決めていたという証言に依拠しており、信憑性には議論がある。
研究史・評価[編集]
戦後研究[編集]
戦後の研究では、党を前近代的復古主義とみなす見解と、近代都市資本主義の高度な表現とみなす見解が対立した。は1957年の著書で、党の本質は「帝国の幻想を借りた港湾資本の代理機構」であるとした[5]。
これに対しは、党大会の議事録に見られるラテン語の誤用や、月桂冠の葉数が12枚ではなく11枚で統一されていた事実を重視し、「むしろ制度化された素人趣味である」と反論した[6]。
俗説と伝説[編集]
一般には、党が秘密裏に奪還計画を持っていたとする逸話が流布しているが、実際には地図の印刷費が足りず、計画書の東方部分が白紙だっただけであるとされる。
また、党首ヴァルツィオが晩年に月桂樹の鉢植えへ投票を呼びかけたという伝説もある。これは本人が園芸展示会で「党員数より鉢数が多い」と述べたことが誇張されたものであり、後世の政治風刺画に強い影響を与えた。
脚注[編集]
[1] 党の正式名称は資料ごとに揺れがあり、初期文書では「新生ローマ帝国団」とも記される。 [2] 党章の金属徽章は実際には地方の菓子箱の再利用であったとする記録がある。 [3] 1892年9月17日の原簿は第二次大戦中に散逸したとされるが、複写が3点確認されている。 [4] レヴィチの論文は選挙地理学の古典とされるが、図版の方位が2枚だけ逆である。 [5] ロッシの著作はのちに第3版で章題が全面改稿されている。 [6] ベッカーは党の祭典で配られた月桂冠の試供品を実際に数えていたという。
関連項目[編集]
脚注
- ^ エレナ・ロッシ『港湾帝国の幻想政治』カヴァッリ出版, 1957, pp. 41-88.
- ^ Hans Becker, The Roman Revival and the Dockyard Vote, Vol. 12, No. 3, Journal of Adriatic Studies, 1962, pp. 201-229.
- ^ ユゼフ・レヴィチ『選挙地理と時刻表政治』東欧社会研究社, 1931, pp. 9-47.
- ^ マルガレーテ・フィンク『トリエステ協約覚え書き』リーグ・プレス, 1894, pp. 3-16.
- ^ Andrea Colbetti, La Nuova Roma e i suoi moli, Vol. 4, No. 1, Rivista di Politica Portuale, 1909, pp. 55-72.
- ^ ルチア・デ・サンテ『ローマとは何か』アドリア文庫, 1918, pp. 101-134.
- ^ G. M. Haverford, The Laurel Crown Question in Parliamentary Symbolism, Vol. 7, No. 2, Comparative Civic Rituals, 1974, pp. 17-39.
- ^ 中村修一『帝国を名乗る地方政党の比較史』港湾文化研究所, 1988, pp. 223-261.
- ^ Aurelio Santini, Railway Constituencies and Imperial Language, Vol. 19, No. 4, Central European Political Review, 1937, pp. 88-119.
- ^ 渡瀬栄一『ラテン語と投票所のあいだ』白鷺書房, 2004, pp. 66-93.
外部リンク
- トリエステ政治資料館
- アドリア海選挙史研究会
- ラテン政治運動アーカイブ
- 港湾政党年鑑データベース
- 帝国修辞学オンライン