新行政学運動
| 分野 | 行政学・政策過程・市民参加 |
|---|---|
| 主唱とされる人物 | 黒羽田(くろはだ)一馬ほか |
| 起点とされる地域 | (霞が関周辺) |
| 活動時期(通説) | 1958年〜1966年 |
| 主な媒体 | 『行政ノート』ほか |
| 掲げた理念 | 監査・統計・現場往復 |
| 関連概念 | 三層フィードバック、遅延コスト会計 |
| 対立軸 | 手続き至上主義と実務裁量の衝突 |
(しんぎょうせいがくうんどう)は、行政組織の運用を「科学的に読む」ことを掲げた運動として知られている。特にの霞が関周辺で注目を集め、1950年代後半から1960年代にかけて市民運動・政策研究双方に影響を与えたとされる[1]。なお、運動の定義は時期や団体により揺れており、統一的な教義はなかったとされる[2]。
概要[編集]
は、行政を「書類」ではなく「観測対象」として扱うべきだと主張した運動である。1950年代後半、行政手続の増大により現場が疲弊しているという不満が蓄積し、そこに“読めば改善できる”という信念が結びついたとされる。
運動の中心的な方法論は、各部署の業務を一定の手順で分解し、とを使って説明責任を強制する、というものであった。さらに、机上で終わることなく、一定の距離を毎週往復する「現場往復規程」が流行し、参加者のあいだでは「往復が足りないほど机が強くなる」という皮肉が広まったとされる[3]。
ただし、運動は単一の組織ではなく、研究会・労働団体・学生サークルなどが寄り合う形で成立した。結果として、理念の表現や優先順位は、文献ごとに微妙に食い違っていると指摘されている[4]。
成立と背景[編集]
この運動が生まれた契機として、1950年代に実施された「霞が関・窓口集中計画」が挙げられることが多い。計画そのものは合理化を目的としていたが、実務側には「合理化は文章だけで完結する」という不満が残ったとされる。
そこで黒羽田一馬が提案したとされるのが、行政を“航海図”のように扱う方法である。具体的には、各課の業務を「起点・遅延・分岐・回収」の四要素に分け、さらに起点から回収までの平均日数をのように小数一桁まで表示する慣行が広まったとされる。小数点以下を出すこと自体が、当時は半ば学術的な儀式のように見られたという[5]。
また、運動は外部からも支えられた。たとえばは、審査待ちが生む身体負担を測定する「手続ストレス計」を開発し、新行政学運動側に貸し出したとされる。逆に、運動が“現場を数字で縛る”として警戒された背景には、この計測が想像以上に説得力を持ってしまったことがあるとされる[6]。
用語の発明:三層フィードバック[編集]
運動の用語集の中でも象徴的だったのがである。これは「現場(第一層)→監督(第二層)→市民(第三層)」の循環を、月次で必ず回すことを意味した。なお、参加者の間では第三層の市民が“最終的に証明する人”とされ、模擬会議がに開かれたこともあったとされる。
技術の核:遅延コスト会計[編集]
は、単なる時間測定ではなく「遅延が生む余計な支出」を科目に分ける発想として紹介された。たとえば、申請から認可までの遅れがや印刷差し替えに波及する経路が、架空の標準モデルで可視化されたとされる。ある小冊子では、遅延一日あたりの平均費用が(当時の物価で算出)とされ、数値の具体性が支持を集めた[7]。
主要な担い手とネットワーク[編集]
新行政学運動は研究者だけでなく、行政官の若手・労働組合・報道関係者を巻き込む形で拡大した。特に1959年にの小会議室で開かれた「標準化夜間ゼミ」は、運動の合言葉のように語られることが多い。
このゼミで、黒羽田一馬は“監査は罰ではなく会話である”と述べたと伝えられる。会話を成立させるには、相手の言葉を同じ定義で受け取る必要があるとして、参加者は各部署における用語のズレをに整理し、翌月には「ズレがゼロになるまで帰れない」規程を作ったとされる。もちろん、すべてのズレが消えたわけではないが、消えるまで帰れないという姿勢が“運動っぽさ”を強めたという評価がある[8]。
一方、外部の理解者としての内部取材班が関与したとされる。彼らは行政の様子を“ドラマのように編集し”、番組内で遅延コスト会計の図表を一枚ずつ提示した。この編集方針が、運動を「理屈の話」から「生活の話」に変えたとする指摘がある[9]。
黒羽田一馬と「机の弱体化」構想[編集]
黒羽田一馬は、行政学者でありながら現場の動線を歩くことを重視した人物とされる。彼の構想では、机の位置を毎四半期で変え、机が“同じ場所に居座るほど”現場から遠ざかるという逆説が語られた。実際に、彼の研究室では椅子の設置角度がまで測られていたと回想録に記されている。
自治体連携:大阪の「返答速度協定」[編集]
運動の波はにも届き、「返答速度協定」が自治体間で試みられたとされる。そこでは、他自治体からの照会に対してに一次回答することが掲げられ、遅延のたびに“回答の型”が改善される仕組みが導入されたという。
理念と実践:どのように行政を「動かした」とされたか[編集]
新行政学運動は、スローガンとしては「透明化」とまとめられることが多い。しかし当事者の言葉では、透明化とは“見える化”ではなく“理解させる化”であったとされる。
運動の実践は、月次のと四半期のに特徴があるとされる。標準業務観測では、参加者が各部署で業務の流れを観測し、観測結果を“役割”として書き起こす。たとえば「申請者の不安」「審査官の焦り」など感情変数まで列に入れることがあり、これが当時としてはかなり異色だったとされる[10]。
また監査劇は、紙の監査を舞台に移す試みである。舞台上で、手続書類がどこで停滞し、なぜ停滞したかを“演者”が説明する。台詞には遅延コストが盛り込まれ、観客が計算を当てる形式がとられたとされる。ある記録では、計算問題がで解かれたと報告され、これが次年度の予算折衝に活用されたというから、半分は冗談のようである[11]。
市民参加:公開照会のルール[編集]
市民参加の要として、公開照会のルールが整備された。市民が照会すると、一定の書式で回答が返るだけでなく、回答がなぜそうなるかを「根拠の三段階」で説明することが求められたとされる。根拠の三段階は、一次資料・解釈・政策判断に分けられた。
社会への影響[編集]
運動の影響は、政策研究の言葉遣いを変えたことにあるとされる。行政学の講義では、それまで“制度”中心だったのが、運用の“観測”へ比重が移ったとされる。とくに、が後年にまとめた教育カリキュラムでは、行政官研修の冒頭に「遅延コスト会計の導入演習」が置かれたという。
また、官僚文化にも波及したとされる。書類の取り回しに長けた者が評価されるだけでなく、遅延の発生源を特定し、改善案を短い報告書に落とす能力が重視された。もっとも、運動が目指したのは効率化だけではなく、説明の仕方そのものを統一することで職員の不安を減らすことだったとされる。
一方で、影響が良い面ばかりだったわけではない。数字による説明が強くなるほど、「数字でしか語られない行政」への不満が生まれたと指摘される。特に遅延コストの科目が“説明責任の札”として機能し、担当者の裁量が削られたという批判もあった。なお、これらの批判は運動を否定する材料にも、改革のための改善点にもなり、結果として運動は“終わったのに残った”と語られることが多い[12]。
教育界への遺産:三層フィードバック講義[編集]
大学の講義ではが“授業の型”として採用された。学生は実際の行政資料を読み、現場・監督・市民のどこでズレが生まれるかを記述する課題を課されたとされる。
批判と論争[編集]
新行政学運動は、精緻さのわりに政治的中立性が怪しいと見られる場面があった。たとえば、遅延コスト会計の算出モデルが、特定の政策思想に寄っていたのではないかという指摘が、1964年に行われた付帯委員会の質疑で取り上げられたとされる。
また、「現場往復規程」が過度な負担になったという異議もある。参加者が週に以上往復しなければならないとされる時期があり、通勤疲労が行政職員に逆流したとする回顧がある。さらに、往復回数の少ない部署が“行政の体温が低い”と噂されるなど、比喩が過熱したともいわれる[13]。
最大の論争は、運動が“監査を会話にする”と言いながら、会話の条件を数字で固定してしまった点である。会話が通じないとき、数字が足りないのか、数字の前提が間違っているのかを切り分ける必要があったが、当時の組織ではその余裕がなかったとされる。なお、ある匿名の投稿では「行政は演劇ではない」と書かれており、監査劇は“教育コストの仮面”であると揶揄されたという[14]。
要出典級の逸話:遅延コストの平均は学食で決まる[編集]
当時の一部では、遅延コスト会計の平均値(とされる)が学食のメニュー価格から逆算されたという噂もあったとされる。ただし、この点は資料が確認されていないとされ、後の研究では別の算出根拠が提示されているという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 黒羽田一馬『遅延コスト会計の作り方:霞が関観測の手引』朋成書房, 1962.
- ^ 佐伯篤人『三層フィードバック論:行政を循環させる設計』中央官庁大学出版部, 1961.
- ^ Margaret A. Thornton『Auditing as Conversation in Comparative Administration』Oxford Administrative Studies, Vol. 12 No. 3, 1965.
- ^ 井口良介『標準業務観測と行政の言語化』日本公共運用学会, 第4巻第2号, 1963.
- ^ Hiroshi Tanaka『The Delay Economy: Time, Paper, and Public Costs』Public Policy Quarterly, Vol. 7, Issue 1, 1964.
- ^ 国立公共経営研究センター編『行政官研修カリキュラム(試案)』国立公共経営研究センター, 1966.
- ^ 大阪返答速度協定事務局『48時間一次回答の運用記録』大阪市役所政策局, 1960.
- ^ 田村玲子『監査劇の社会心理:演技が生む理解』行政社会学研究, pp. 41-58, 1967.
- ^ 菅原順『霞が関夜間ゼミの思想史:標準化と反標準化』霞書房, 1965.
- ^ Klaus Richter『Field-Trip Requirements in Bureaucratic Reform』Journal of Comparative Administration, Vol. 9, No. 4, 1968.
外部リンク
- 嘘ペディア:行政観測アーカイブ
- 遅延コスト会計研究会(伝承サイト)
- 三層フィードバック講義ノート集
- 監査劇アーカイブ倉庫
- 霞が関標準業務観測メモ