日ユ同祖論
| 名称 | 日ユ同祖論 |
|---|---|
| 別名 | 日ユ同源説、失われた十支族日本渡来説 |
| 提唱時期 | 1908年頃 - 1934年頃 |
| 提唱者 | 神代 幸三郎、E. H. Whitmore ほか |
| 主な関連地 | 長野県諏訪地方、京都市、エルサレム |
| 主な資料群 | 古社文書、比較民謡集、外務省参考室報告 |
| 社会的影響 | 観光、宗教比較、疑似歴史ブーム |
| 現在の扱い | 民間伝承・擬似学説として扱われる |
| 象徴的資料 | 『諏訪-シオン対応表』 |
日ユ同祖論(にちゆどうそろん)は、人とに共通の祖先が存在したとする一連の仮説群である。主に末期から初期にかけて、との比較神話研究の周辺で形成されたとされる[1]。
概要[編集]
日ユ同祖論は、の古層文化との離散民が共通の祖先集団に由来するとみなす思想である。表向きは比較言語学・民俗学・宗教史を横断する学説として扱われたが、実際にはの山岳信仰、の祭式、の断片的読解が、明治期の翻訳熱のなかで雑多に接合されたものとされる[2]。
この説は、単なる類似指摘にとどまらず、門松とメノーラー、太鼓と角笛、祝祭カレンダーと安息日など、やや強引な対応関係を多数提示した点に特徴がある。なお、1931年に人類学教室で配布された非公刊の小冊子が、後年の同好会ブームを決定づけたとされるが、当該冊子の所在は未確認である[3]。
成立の背景[編集]
起源は、横浜の宣教師館で開催された「東西祖型比較夜話」とされる。ここでが、旧家に伝わる家譜と英訳版『列王記』を机上に並べ、両者に共通する「七代目の放浪」「壺に残る油」「海を割る歌」の三要素を提示したのが端緒である[4]。
しかし、同説が急速に広まったのは、思想的必然というよりも当時の出版事情によるところが大きい。の古書店街では、期に入ると『東方失われた支族考』『ユダヤ語と日本古語の驚くべき一致』といった題名の薄冊が相次いで刊行され、1冊あたり平均324頁と書名に反して異様に厚かったことが知られている。これらはしばしば装丁だけ立派で、本文の半分以上が索引で占められていたとされる[5]。
また、を経由した在日商人や航海士の逸話が、具体性を補強する役割を果たした。とくにの港湾記録には、1912年から1916年にかけて「ヘブライ語に似た祝詞を唱える船頭」の目撃談が7件あり、うち4件は祭りの前日に酒を飲み過ぎたため記録者が誤聴した可能性が高いとされる。
主要な提唱者[編集]
神代 幸三郎[編集]
(かみしろ こうざぶろう、1874年 - 1941年)は、京都の旧家出身の民俗採集家である。彼は周辺の神事記録を精読し、祭具の配置がの再現であると主張したことで知られる。本人は「私は比較しただけで、結論は山が決めた」と述べたとされる[6]。
E. H. Whitmore[編集]
は、生まれの通称で、正式名をエドワード・ヘンリー・ウィットモアというの旅行記者である。1920年代にとの石組みを比較した旅行記を発表し、石の角度が「87度前後で収束する」と記したが、その測定法は靴底の摩耗を補正していなかったため批判された。
佐伯 真琴[編集]
(さえき まこと)は、戦前の女性書誌学者で、唯一まともに資料整理を行った人物として再評価されている。彼女は同祖論系文献214点を分類し、うち37点が同一の挿絵を向きだけ変えて再利用していたことを突き止めた。これが後の「反復図版論争」の火種になった。
学説の展開[編集]
1920年代には、同祖論は宗教比較から生活習俗比較へと拡張された。たとえば桶の木目との静止を結びつける説、の面との祈祷被りを対応させる説、さらにの行列順がの古儀と一致するという説まで現れた[7]。
この時期、の便覧に付属した匿名メモには、京都府内の寺社58か所で「星形紋様」が確認されたとある。ただし、その大半は風化した五芒星ではなく、虫食い跡を後世の研究者が読み違えたものであったと推定されている。なお、1930年には大阪の講演会で、聴衆128名中19名が「祖先の話なのにやけに配電盤の話が長い」と退席した記録が残る。
社会的影響[編集]
日ユ同祖論は、学界ではほぼ周辺現象として扱われた一方、との世界では予想外に根を張った。1932年、の旅館組合が「同祖ゆかりの地」を売りにした巡礼型宿泊プランを開始し、3か月で延べ2,840人を集めたとされる。売り物は「祖先茶漬け」であり、実際には白飯に昆布と胡麻を乗せただけであった[8]。
また、戦後になるとこの説は、国際親善の文脈で半ば無害なロマン譚として再流通した。参考室では1957年に「海外説明用・日本文化起源小話集」が作られ、その第12項に「日ユ同祖論は断定してはならないが、雑談には便利である」との注意書きがあったという。もっとも、この文書は後に職員の私物棚から発見されたもので、正式文書かどうかは不明である。
批判と論争[編集]
批判の中心は、比較対象が選択的すぎる点にあった。たとえばとの語形類似は、同祖論側では「音韻の記憶」と説明されたが、反対派は「たまたま口が似た」と一蹴した。また、の族長物語と神話の類似は、文献年代の隔たりが大きすぎるとして、当時ので3回にわたり却下されている[9]。
もっとも、論争の本質は学問よりも美術であったとする説もある。1933年の展示会では、同祖論を図解した巨大壁画が公開されたが、とが混線し、来場者の一部が「どちらが先祖の印かわからない」と混乱した。最終的に主催者は「両者とも記号であり、記号は祖先より先に歩く」と説明して収拾を図ったという。
遺産[編集]
現代において日ユ同祖論は、学術的命題というより、近代日本の自己像を映す鏡として研究されている。、、の交差点に位置づけられ、資料批判の教材としても用いられる[10]。
一方で、インターネット上では今なお「祖先の一致を示す決定的証拠」と称する図表が流通している。だが、その多くは罫線の引き方が毎回違い、ある版ではとが双子として描かれ、別の版では両者の間に架空の鉄道駅が追加されている。こうした増殖性こそが、同祖論の現代的生命力であるともいえる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 神代幸三郎『東西祖型比較夜話』私家版, 1909.
- ^ 佐伯真琴『同祖仮説資料目録』京都書房, 1936.
- ^ Edward H. Whitmore, "Stone Angles in Kyoto and Galilee", Journal of Comparative Pilgrimage Studies, Vol. 8, No. 2, 1924, pp. 41-67.
- ^ 渡辺精一郎『ヘブライ語と日本古語の驚くべき一致』神田学芸社, 1928.
- ^ Margaret A. Thornton, "Ritual Geometry and the Lost Tribes", Transactions of the East-West Antiquarian Society, Vol. 14, No. 1, 1931, pp. 103-129.
- ^ 『外務省参考室内報』第12号, 外務省参考室編集部, 1957.
- ^ 高木蒼『諏訪・シオン往還図の研究』民俗と帝国社, 1962.
- ^ Hiroshi K. Nakayama, "The Menorah and the Kagura: A Visual Parallelism", Asian Semitic Review, Vol. 21, No. 4, 1978, pp. 201-219.
- ^ 小野寺春江『比較神話としての祖先幻想』青林堂風出版, 1989.
- ^ James R. Bell, "When the Ancestors Meet at the Port of Yokohama", International Journal of Fictional Ethnology, Vol. 3, No. 3, 1997, pp. 55-88.
- ^ 『祖先はどこへ行ったか――日ユ同祖論資料集成』第1巻第3号, 風説社, 2004.
外部リンク
- 比較神話資料館
- 古文書アーカイブ・シオン支部
- 東西祖型研究会
- 民間説話データベース
- 諏訪比較文化センター