矢田沢田秦和刀
| 名称 | 矢田沢田秦和刀 |
|---|---|
| 別名 | 秦和模刀弓矢・和刀矢具 |
| 用途 | 儀礼用、狩猟儀式、奉納射礼 |
| 起源 | 明治37年ごろ |
| 流行地域 | 関東地方、東北地方南部、山陰地方の一部 |
| 材質 | 竹、鉄、漆、白木、鯨髭 |
| 特徴 | 刀身に似た外観の矢柄と、鍔状の矢羽押さえを備える |
| 関連制度 | 旧家礼法保存会の制定する射礼規程 |
| 現存数 | 約430挺 |
| 備考 | 一部資料では矢田沢系統と秦和系統で起源が異なる |
矢田沢田秦和刀(やたざわだしんわとう)は、の意匠を模して作られた、礼装用および儀礼用の長柄矢具である。主として末期から初期にかけて、旧藩士層の間で「武家の形見を空へ返す」ための道具として普及したとされる[1]。
概要[編集]
矢田沢田秦和刀は、の外形を矢具に移植した特殊な工芸品・儀礼具である。名称は一見して一族名の連結のように見えるが、実際には村の射礼職人と流の研磨師が共同で規格化したことに由来するとされる[2]。
本来は弓術の実用品ではなく、武家の再興を願う献納行事や、旧士族の婚礼で用いられた。もっとも、実際に用いた射手の多くは「見た目のわりに重心が悪い」と評しており、明治40年代の射礼記録には、的中率が通常の竹矢より平均で17.4パーセント低下したという数字が残る[3]。
成立史[編集]
矢田沢村の試作[編集]
起源は37年、北部の山間にあった村で、廃刀令後に余剰となった刀装具を再利用する試みから始まったとされる。村の鍛冶職人・は、刀身に似た細長い鉄板を矢柄に巻き付け、射るというより「振りかざして放つ」形状を考案したが、最初の試作12本のうち9本が飛翔中に回転しすぎ、的板ではなく隣家の納屋に刺さったという。
この失敗を受け、と名乗る元藩工が矢羽の角度を1.5度だけ外向きに補正し、さらに柄頭にの栓を入れて重心を後方へ寄せた。これにより、射手が「刀を抜く所作」と「矢を放つ所作」を同一動作で行えるようになり、礼法上の独自性が生まれたとされる。
秦和流との接続[編集]
41年ごろには、の旧公家系研磨集団であるがこれに注目した。秦和流はもともと刀剣の艶出しと拝礼用の模造刀を得意としていたが、当主のが「矢もまた刀の影である」とする独自の美学を提唱し、刀剣の鎬地を模した六角断面の矢柄を採用したのである。
この合流により、呼称は「矢田沢田秦和刀」と長大化した。なお、当時の資料では「矢田沢秦和刀」「和刀矢」など表記が一定せず、3年の『旧家礼法年鑑』で現在の表記にほぼ統一された[4]。ただし、一部の地域では今なお「やださわだしんわ」と略称され、正式名称を知る者が少ないことが逆に格式と見なされている。
構造と意匠[編集]
刀剣を模した外観[編集]
最大の特徴は、通常の矢に見られる羽根の存在感を抑え、全体を細身の刀身のように整えた点にある。矢羽は三枚ではなく二枚半とされる独特の切り詰め方が採用され、これは飛翔の安定よりも「刃の気配」を優先した結果であるという。鍔に相当する部分には真鍮製の円盤が嵌め込まれ、礼装時にはここへ家紋を刻むのが通例であった。
また、矢尻は実戦用としては鈍く、先端角度は約68度に保たれている。これは「刺さる」より「止まる」ことを重んじた設計で、奉納射礼では的の紙を破らずに貫通することが理想とされた。もっとも、記録上では貫通に失敗して的が横倒しになる事故が少なくなく、の射礼講習会では「矢ではなく礼法が先に倒れる」と揶揄された[5]。
素材の階層[編集]
上級品にはを芯材に用い、外装に黒漆を六層塗り重ねたものがある。中級品は竹芯に鉄帯を巻き、廉価版では桐材を圧縮した「半硬質矢柄」が使われた。価格差は大きく、末期の市場では上級品が1挺あたり18円40銭、中級品が6円前後、廉価版が1円70銭で取引されたという[6]。
なお、鯨髭を用いた高級仕様は湿度に極端に弱く、梅雨時には反りが生じた。これを防ぐため、の商人は矢を木箱に入れてを微量に同封する独自の保存法を広めたが、保管庫がやや甘い香りに満たされるため、利用者の間では「弔いの匂い」として知られた。
普及と社会的役割[編集]
矢田沢田秦和刀が広く知られるようになったのは、から初期にかけてである。とりわけ旧士族の子女教育において、「刀を持たずに武を学ぶ」象徴として採用され、やの一部女学校で礼射の教材となった[7]。
また、地方の神社では豊作祈願の奉納具として用いられ、的を射抜いた矢をそのまま神前に立てる慣習が生まれた。これにより、弓道の一種でありながら、刀剣鑑賞・祭礼・婚礼の三用途を兼ねる珍しい位置づけを持つことになった。なお、8年の調査では、全国の神社約214社が何らかの形で「矢田沢式奉納」を採用していたとされるが、数え方が曖昧であるため現在も議論がある[8]。
批判と論争[編集]
一方で、弓術家からは「刀の形を借りた結果、矢としての機能を自ら捨てた」と批判された。特に系の一部射手は、矢田沢田秦和刀を「礼儀のための過剰な演出」とみなし、実射ではなく展示に偏る傾向を問題視したのである。
また、初期には、軍需向けの意匠流用として誤解される事件もあった。1932年、の骨董商が軍刀の部品だと称して大量に転売し、実際には矢尻のない奉納用模造品が混入していたことから、購入者が「開封しても撃てない」と抗議した。この騒動は、のちに「矢が立たない贋作事件」として新聞の三面記事をにぎわせた[9]。
現存状況[編集]
保存団体[編集]
現存品の多くは、、および各地の神社宝物庫に分散保管されている。2018年の共同調査では、確認できた個体は全国で427挺、そのうち完全な形で残るものは138挺であった[10]。特にの某旧家に伝わる一挺は、鞘に相当する保護筒が失われたまま保存されており、「刀より矢の方が長生きした例」として紹介されることがある。
近年は文化財修復の対象となり、の研究者らが漆層の剥離と鉄帯の錆止め処理を研究している。なお、修復後の再射は原則禁止であるが、毎年一度だけ非公開で「試射確認」が行われるという。
海外流出と再評価[編集]
戦後には一部が欧米の博覧会へ流出し、の私設コレクションで「Japanese Sword-Arrow Hybrid」として展示された。英語圏では武器というよりデザイン工芸として受容され、刀の意匠を持つ“arrow-sabre”という誤訳が広まった。これにより、逆輸入的に国内で再評価が起こり、以降は美術工芸史の文脈で紹介されることが増えた。
ただし、再評価の過程で「本当に射たれたのか」という根本的疑義も生じている。2021年のシンポジウムでは、保存状態の良い個体を3D計測した結果、実際の飛翔性能は「美術的には優秀、工学的には困難」と結論づけられた[11]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 吉原喜兵衛『矢柄転用術と礼射の変遷』旧家礼法保存会, 1912年.
- ^ 秦和玄斎『鎬地に見立てた矢の研究』京都工藝学報 Vol.7, 第2号, 1914年, pp. 33-51.
- ^ 横山篤三『矢田沢式試製録』群馬県郷土史料刊行会, 1909年.
- ^ 島崎登美子・中島薫「漆層剥離を伴う長柄矢具の保存処置」『保存科学』Vol.58, 第4号, 2019年, pp. 112-129.
- ^ Harold B. Wainwright, “Sword Imagery in Rural Japanese Archery Implements,” Journal of East Asian Material Culture, Vol.12, No.1, 2008, pp. 44-63.
- ^ 田中鈴江『奉納射礼の地方差と矢具意匠』日本民俗工芸叢書, 1937年.
- ^ 河合善蔵『湿潤環境における鯨髭芯材の保存法』横浜商工研究, 第3巻第5号, 1926年, pp. 201-218.
- ^ 『旧家礼法年鑑 大正三年版』旧家礼法年鑑社, 1914年.
- ^ 名古屋商報編集部『矢が立たない贋作事件の顛末』名古屋商報社, 1932年.
- ^ 国立歴史民俗博物館編『刀と矢のあわいにあるもの』展示図録, 2021年.
- ^ Margaret A. Thornton, “On the Semi-Functional Arrow of the Shinwa School,” Transactions of the Far Eastern Antiquarian Society, Vol.19, 1976, pp. 7-26.
外部リンク
- 旧家礼法保存会デジタルアーカイブ
- 日本弓礼工芸協会資料室
- 国立歴史民俗博物館 企画展資料
- 群馬郷土工芸研究センター
- 和刀意匠コレクション索引