日本造園組合連合会
| 正式名称 | 日本造園組合連合会 |
|---|---|
| 略称 | 日造連 |
| 設立 | 1949年(通説) |
| 設立地 | 東京都千代田区神田錦町 |
| 本部 | 東京都港区芝公園二丁目の旧植木問屋倉庫 |
| 加盟団体数 | 47都道府県・312組合(2023年時点) |
| 主な活動 | 庭園設計基準の策定、剪定技能検定、苔の保護 |
| 機関誌 | 『造園と土塊』 |
| 標語 | 一木一石、千景一律 |
| 公認の起源 | 空襲後の焼け跡で発見された竹札 |
(にほんぞうえんくみあいれんごうかい)は、業者の相互扶助、技術規格の統一、ならびに庭園施工における「季節感の誤差」を調整するために設立された全国組織である。戦後ので始まったとされるが、初期資料の一部はの裏に刻まれていたため、成立経緯には諸説がある[1]。
概要[編集]
日本造園組合連合会は、・植栽・石組み・池泉管理などを扱う地域組合の全国連合であるとされ、業界内では「庭の」に近い性格を持つものとして知られている。もっとも、同会の実態は単純な職能団体にとどまらず、戦後復興期における都市景観の標準化、さらにはの開花予測を巡る自治体間の競争にまで影響を与えたとされる。
同連合会が特異なのは、設立当初から「職人の勘」を数値化しようとしていた点にある。たとえば剪定角度を7度単位で規格化した「七分刈り方式」や、玉砂利の音圧をではなく「気品指数」で表す独自基準が導入され、これが各地のに半ば慣習として浸透した[2]。
成立の経緯[編集]
戦後復興と「庭の復旧委員会」[編集]
通説によれば、同会の前身はに発足した「庭の復旧委員会」であり、の焼け跡に残った石灯籠を再配置するため、の旧御用職人や民間の植木職人が集められたのが始まりとされる。委員会は当初、瓦礫の中から再利用可能なを見分ける訓練を行っていたが、やがて各地で方法論がばらつき始めたため、全国組織化の必要が生じたという。
1949年夏、の印刷所地下室で「日本造園組合連合会準備総会」が開かれ、参加者は48名であったと記録される。ただし議事録は3ページしか残っておらず、残りは湿気で波打ったの裏面に記されたため、後年の研究者を悩ませた[3]。
初代会長・北原松三郎[編集]
初代会長とされるは、出身の庭師で、若いころの参道整備に従事していた人物である。彼は「庭は静止した建築ではなく、毎朝少しずつ移動する気象装置である」と述べ、期の造園理念に強い影響を与えた。
北原は会長就任後、加盟組合に対して毎月17日の「石の日点検」を義務づけたが、これは石組みの崩れを点検するだけでなく、職人同士の口論を抑えるための儀礼でもあったとされる。なお、会議の最後に必ず配られたが不評で、1940年代後半の離脱組合増加の一因になったという説もある。
事業と制度[編集]
技能検定と「三層剪定法」[編集]
同連合会が最も広く知られるのは、1950年代に整備された技能検定制度である。検定は初級・中級・「風待ち級」の三段階からなり、特に風待ち級では受験者がから吹く風を読んで松の葉量を決定する課題が課された。
この制度から生まれたのが三層剪定法である。これは樹冠を「見上げ層」「目線層」「足元層」に分け、それぞれに異なる刃物を用いる方法で、の一部の公園では現在でも行われているとされる。もっとも、実際には職人の腕よりも脚立の安定性が合否を左右したという指摘がある。
機関誌『造園と土塊』[編集]
機関誌『』は1952年創刊で、創刊号の特集は「苔はなぜ北側に偏るのか」であった。誌面は学術誌風でありながら、広告欄に「雨の日も溶けない」や「夜間でも光る踏み石」が並ぶなど、妙な実用主義が特徴であった。
1968年には同誌に掲載された「庭園の沈黙率」という論文が物議を醸した。これは来訪者が1分間に発する平均発話数を測定し、庭の完成度を評価するというもので、の寺院関係者からは「静かすぎる庭はかえって落ち着かない」との反論が寄せられた[4]。
社会的影響[編集]
日造連は、単なる職能団体としてではなく、都市の景観行政に半ば非公式な影響力を持つ存在として扱われてきた。特に期には、駅前ロータリーの植栽密度や街路樹の「見通し率」を巡っての前身組織と折衝し、結果として全国の歩道に「根鉢から1.2メートル以内は看板禁止」という不文律を広めたとされる。
また、1970年代には団体が推奨した「都市の四季化」運動が自治体のイベント政策に波及し、からまで同じ種類の花を時差で咲かせる試みが行われた。これは見栄えこそ良かったものの、輸送中に開花したがトラック荷台で一斉に倒れる事故が多発し、業界では「花の関越自動車道事件」と呼ばれている。
批判と論争[編集]
一方で、同連合会は保守的すぎるとの批判も受けてきた。1980年代には「コンクリート舗装下の根の呼吸権」をめぐる議論が起こり、若手会員が透水性ブロックの導入を求めたのに対し、古参職人は「石は乾いてこそ石である」と反発した。
また、1993年に導入された会員認証章が、実際には片に焼き印を押しただけの簡素なものであったため、外部からは「格式のわりに手作り感が強い」と評された。さらに、年1回の全国大会で行われる「最優秀苔賞」の選定基準が毎年変わることから、審査の透明性を問う声も根強い。もっとも、同連合会はこれを「苔は環境変化に敏感であるため、基準もまた揺らぐべきである」と説明している。
組織構造[編集]
組織は本部、地方支部、専門委員会から成る。専門委員会には「池泉委員会」「石組委員会」「落葉処理委員会」のほか、なぜか「鳩対策特別班」が存在し、やの案件を横断的に担当しているとされる。
会員数は2023年時点で約1万8,600人とされ、そのうち約3割が「剪定よりも草取りが好き」と回答した内部調査がある。なお、この調査は回収率が62%にとどまり、回答者のほとんどが雨天時に参加したため、統計の偏りが強いという指摘もある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 北原松三郎『庭は動く—戦後造園再編史—』造景社, 1958.
- ^ 斎藤光雄『都市景観と石の倫理』日本造園研究会, 1964.
- ^ Margaret A. Thornton, "Guild Systems in Postwar Japanese Landscaping", Journal of Urban Horticulture, Vol. 12, No. 3, pp. 41-68, 1971.
- ^ 田宮一枝『造園と土塊 第1巻第1号 総目次復刻版』日造連出版部, 1982.
- ^ Hiroshi Watanabe, "The Seven-Beat Pruning Method and Its Social Acceptance", Proceedings of the Eastern Green Forum, Vol. 8, pp. 119-137, 1987.
- ^ 小野寺清『庭園の沈黙率に関する考察』造景評論, 第5巻第2号, pp. 7-19, 1968.
- ^ Eleanor P. Mills, "Moss Preference and Shade Governance in Tokyo", Landscape Institutions Quarterly, Vol. 19, No. 1, pp. 3-24, 1994.
- ^ 高橋弥生『透水性ブロック論争の周辺』都市緑化史料, 第14巻第4号, pp. 88-101, 2001.
- ^ Jean-Pierre Kuroda, "The Scent Index of Japanese Gardens", Revue de Jardin Comparé, Vol. 6, No. 2, pp. 55-73, 2008.
- ^ 『会員章と焼き印—日造連装束史料集—』日本造園組合連合会資料室, 2016.
- ^ 佐伯直人『花の関越自動車道事件とその後』緑風書房, 2019.
外部リンク
- 日本造園組合連合会 史料室
- 造園技能検定協議会
- 都市景観標準化研究所
- 日造連機関誌アーカイブ
- 全国苔保護推進ネットワーク