栴檀会
| 名称 | 栴檀会 |
|---|---|
| 成立 | 1798年頃 |
| 本部 | 京都市中京区室町通の旧香材蔵 |
| 目的 | 栴檀材の流通統制、席次決定、香記録の管理 |
| 代表者 | 初代会頭・松浦文左衛門 |
| 活動地域 | 京都、大坂、江戸、近江一円 |
| 関連機関 | 京都所司代、山城香材問屋連合 |
| 最盛期 | 文化年間 |
| 解散 | 1874年 |
栴檀会(せんだんかい)は、後期に成立したとされる、香木の伐採、乾燥、配分、ならびに会席儀礼を統括した準公的なである。のちにを中心とする文人層の間で「香りをもって席次を定める」制度として知られるようになった[1]。
概要[編集]
栴檀会は、栴檀材の品質鑑定と取引調整を目的として成立したとされる組織である。表向きは香木の保全団体であったが、実際には会席における席順、発言順、茶の湯に用いる香の強度まで管理していたとされる。
同会はの寺社経済と町人金融のあいだに生じた空白を埋める存在として重宝された一方、帳簿の記載法が独特で、材木一本ごとに「朝香」「夕香」「雨香」などの等級を与えていた。この制度は後にの香具師やの文人に模倣され、会の内部文書はほぼ儀礼文集の体裁をとるようになった[2]。
成立の経緯[編集]
起源については諸説あるが、もっとも有力なのは10年の寒波で西日本の香材流通が滞った際、山城の材木商・松浦文左衛門が、腐敗防止のための共同乾燥庫を寺院境内に設けたことに始まるという説である。文左衛門は近くの土蔵を借り、栴檀材を竹簀の高さ三尺三寸で積み上げる規則を定めた。なお、この三尺三寸という数値は「香りが最も穏やかに落ち着く高さ」とされ、のちに会の象徴的寸法となった[3]。
創設当初は単なる在庫管理の寄り合いに過ぎなかったが、元年頃に香を嗅ぎ分ける能者・小早川蘭斎が加わったことで性格が変化した。蘭斎は、栴檀材を焼いた煙の立ち上り方をもとに「北風型」「雨後型」「灯火型」の三系統に分類し、これが会の正式な鑑定法として採用されたという。会員は毎月17日に近くの集会所へ集まり、香材の上に和紙をかざして判定印を押した[4]。
制度と運営[編集]
会階と役職[編集]
栴檀会には独自の会階があり、上から「聞香頭」「割香役」「帳香役」「運香番」「外香見習」の五段階に分かれていた。聞香頭は年に二度しか選ばれず、選任にはの御神木前で三度香を焚く儀式が必要であったとされる。帳香役は会計と香記録を兼務し、帳面の余白に「今日、香やや甘し」などの私記を残したため、後世の研究者を混乱させている[5]。
鑑定法[編集]
鑑定は極めて細密で、栴檀材を厚さ0.8寸に削り、の湿度との乾燥を比較して等級を決めた。上等材は「朱鷺香」、中等材は「白鷺香」、下等材は「渡り香」と呼ばれたが、記録上は同一の樹から採れた材でも季節によって等級が変わることが多く、実務上はかなり主観的であったとみられる。これは会の内部で「人の鼻もまた年輪を持つ」と説明されていた[6]。
財政[編集]
財源は会費、鑑定手数料、寺院からの預り金、および「香りの仲裁料」であった。仲裁料は、争いのあった二商家の店先に栴檀を一枚ずつ焚き、どちらの香が先に沈むかで勝敗を決める仕組みで、年間およそ312件の紛争処理があったとされる。なお、期には帳簿上の収入の14%が「雨により香が薄まったための減額」として計上されており、実務の煩雑さがうかがえる。
文化的影響[編集]
栴檀会は単なる流通組織にとどまらず、近世後期の会席文化そのものに影響を与えた。とくに、の茶人のあいだでは「上座は香の強い者から譲る」という作法が流行し、結果として会の会員が茶会の席順を半ば支配したとされる。
また、会の香記録は俳諧や随筆の題材にもなり、門下の末流に属する者が「栴檀の一息に春を知る」と詠んだ句が残る。ただし、この句の初出は32年の私人蔵本であり、真正性には疑義がある。これについては当時の編者が“句の香り”を重視したためともいわれる[7]。
批判と論争[編集]
栴檀会には、創設当初から「商売に仮託した香教団ではないか」との批判があった。とくにの改革派知識人の一部は、会の儀礼が過剰であるとして、栴檀材の等級付けは実質的に会員間の序列維持に過ぎないと論じた。
一方で、会の擁護者は「香りの秩序なくして市場の秩序なし」と反論した。1859年にはの港で輸入香木の混入事件が起こり、会が提出した鑑定書に「この材、南風に曝されし疑いあり」とだけ書かれていたことから、行政側がかえって対応に苦慮したという。なお、この鑑定書には朱印の代わりに香箋の押し跡が残っており、現在でも研究者のあいだで真贋が議論されている[8]。
衰退と終焉[編集]
近代化の圧力[編集]
維新後、香木流通はの木材管理制度に吸収され、栴檀会の帳簿様式は「旧式で判読困難」としてしばしば退けられた。特に、香材の保管に土蔵と漆喰壁を必須とする会の規定は、煉瓦倉庫を推進する新政府の方針と相容れなかった。会は一時、東京府下の香問屋に営業譲渡を試みたが、会員が移転先でも毎朝香を焚くことを条件にしたため、交渉は破談に終わった。
解散[編集]
1874年、会頭代理の山根作之助が「もはや香りで税を説明する時代ではない」として解散を宣言し、栴檀会は歴史上の役割を終えたとされる。もっとも、会員の一部はその後もやの寺院で非公式に活動を続け、年末になると集まって栴檀を一片ずつ焚き、前年の帳簿を朗読する習慣を保ったという。これが後の同人誌文化の原型になったと主張する研究者もいる[9]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 松浦文一郎『栴檀会記録抄』山城香材研究会, 1898.
- ^ 小早川蘭斎『聞香と配材の実際』京都香業出版社, 1911.
- ^ 田中雅也「近世京都における香材同業組織の形成」『史林』Vol. 52, No. 3, pp. 211-239, 1969.
- ^ Margaret A. Thornton, "Guilds of Scent and Silence in Late Tokugawa Kyoto", Journal of Imaginary Commerce, Vol. 14, No. 2, pp. 88-117, 1987.
- ^ 井上玄堂『香りの秩序と町人金融』思文閣出版, 2004.
- ^ 鈴木志保「栴檀会帳簿にみる季節等級の変動」『日本民俗経済論集』第18巻第1号, pp. 45-66, 2012.
- ^ Edward K. Morrow, "On the Three Heights of Fragrance", Asian Studies Quarterly, Vol. 29, No. 4, pp. 301-320, 1994.
- ^ 山根作之助『解散布告と残香』京都古文書社, 1875.
- ^ 藤原栄吉『香箋押印史』中央史料館叢書, 1936.
- ^ 中村澄子「会席作法における席次の香化」『風俗史研究』第9巻第2号, pp. 73-91, 1978.
- ^ 石田圭吾『栴檀会とその周辺』洛中歴史選書, 1999.
外部リンク
- 山城香材文化データベース
- 京都近世同業組合アーカイブ
- 聞香史料デジタルライブラリ
- 栴檀会研究会
- 旧香材蔵保存協議会