明照殿
| 名称 | 明照殿 |
|---|---|
| 別名 | 反照殿、白光殿 |
| 起源 | 平安末期の寺院修復伝承 |
| 主な用途 | 礼拝殿、講堂、接待所 |
| 特徴 | 白漆喰壁、天窓、偏光格子 |
| 成立地 | 京都盆地北縁 |
| 流行期 | 1898年 - 1934年 |
| 関連機関 | 内務省営繕局、帝国建築協会 |
明照殿(めいしょうでん、英: Meishō-den)は、北部の寺院建築に由来するとされる、光の反射と儀礼動線を両立させるための殿舎様式である。末期に再発見されたとされ、のちにの官庁建築にも影響を与えたとされる[1]。
概要[編集]
明照殿は、建物内部に外光を深く取り込み、壁面の白さを儀礼的な「明るさ」として演出する殿舎様式である。通常の殿舎が権威や防御を優先したのに対し、明照殿は光の拡散と視線の制御を同時に満たす点に特徴があるとされる[2]。
この様式は、の古寺で行われていた法会の記録に見える「朝日が仏前に二度落ちる」現象を手がかりに、工学部の建築史家たちが理論化したとされる。ただし、現存遺構の多くは初期の復元であり、原型については今なお議論が多い[3]。
起源[編集]
伝承上の成立[編集]
伝承によれば、明照殿の原型は末、麓の僧・空道円淵が、冬季の読経で蝋燭の煤が問題になったことから考案したとされる。円淵は白土を三層に塗り、床板の角度を1.5度だけ内側へ振ることで、朝の光を堂内中央に集めたという[4]。
この工法は当初「白返し」と呼ばれたが、の武家がこれを接待空間に転用し、「殿」と呼ぶ習慣が広がったという。なお、円淵の名を記した木札はの修理で発見されたとされるが、筆跡が期の書風に似ているとして、早くから疑義も出ていた。
再発見と命名[編集]
、の嘱託研究員であった渡会誠一郎は、の古民家移築調査の際、梁裏に残る反射実験の墨書を見つけ、これを「明照殿式反照構法」と命名した[5]。以後、建築雑誌『光と殿』誌上で数回にわたり紹介され、建築界で半ば流行語のように扱われた。
命名に際して渡会は、単なる採光ではなく「照り返しが礼法を形成する」点を強調したとされる。この発想は、の若手技師・杉浦兼光らに受け継がれ、には官庁用の応接棟に「明照殿型」が試験導入された。
建築的特徴[編集]
明照殿の外観は一見すると簡素であるが、実際には軒裏の白色率、障子紙の透過率、床反射角の三要素が厳密に調整される。特に有名なのが「七十一枚格子」と呼ばれる連窓構成で、1日あたりの直射日光を午前11時台にのみ最大化するよう設計されたという[6]。
内部には「照導廊」と呼ばれる細い回廊があり、来訪者は正面からではなく、いったん左へ8歩、右へ3歩進んでから座に着く。これは視線の緊張を解きつつ、反射光が顔面の下半分だけを照らすための工夫とされる。現代の照明設計の観点から見ると不合理に見えるが、当時は「敬意のある眩しさ」として高く評価された[7]。
また、明照殿では雨天時に床の反射率が急上昇するため、しばしば「晴れの日よりも格が上がる」とまで言われた。これは実測上の再現率が極めて低い一方で、地方紙の見出しに取り上げられやすく、普及に拍車をかけたとされる。
社会的影響[編集]
明照殿は寺院建築にとどまらず、学校講堂、県庁の迎賓室、さらには百貨店の特別応接間にまで応用された。とりわけでは、商家が客に「座る位置で格が変わる」ことを示すため、明照殿風の白壁と低い天井を競って採用したという[8]。
からにかけては、建築関連の講習会で「明照殿を使わないと都市の品格が下がる」とする半ば啓蒙的な宣伝が行われた。これに対し、通風を犠牲にする、清掃が難しい、眩しすぎて来客が逆に疲れるなどの批判もあったが、むしろそれが「高級感の証拠」と解釈されることもあった[9]。
特ににで行われた商業建築展では、明照殿の小型模型が初日に17,400人を集めたとされる。来場者の多くが「写真では平凡だが、実物は妙に神々しい」と感想を残し、以後、光を用いた演出建築の原点として引用されるようになった。
主な遺構と事例[編集]
現存するとされる代表例[編集]
最も有名なのは北区の旧蓮明院にある「第一明照殿」である。ここはの火災後に復元された建物で、内部の天窓が本来よりも17センチ高いという指摘があるが、管理側は「むしろ当時の補修痕を忠実に再現した結果」と説明している。
またの某寺院には「半明照殿」と呼ばれる簡略版が残る。これは財政難のため格子数を71枚から49枚へ減らしたものだが、地元では「こちらのほうが落ち着く」として愛好家が多い。
失われた例[編集]
後に失われたとされる・麹町の「霞見明照殿」は、政治家の会合専用施設だった。会議中に日差しが強すぎて議論が白熱しすぎるため、午前10時の15分だけしか使用できなかったという逸話がある。
さらにの瀬戸内沿岸には、船から見えるよう海側の壁だけを異様に白く塗った「海照式明照殿」が存在したとされる。夜間は灯台と誤認され、漁師が数回寄港した記録があるが、いずれも正式な台帳には残っていない。
批判と論争[編集]
明照殿をめぐる最大の論争は、これが本当に中世の建築思想に連なるものか、それとも期の建築家による「古典趣味の発明」なのかという点である。とくにの機関誌には、同一の図面が三つの異なる年代で掲載されており、編集過程でかなり意図的に整えられた可能性が指摘されている[10]。
また、採光を重視するあまり室内温度が上がりやすく、夏季には「儀礼のために来たのか、乾燥のために来たのか分からない」との苦情も多かった。あるの講演記録では、聴衆のうち12名が眩しさでメモを誤記したと報告されており、これをもって「明照殿は記録媒体としての建築に過ぎない」と批判する学者もいた。
一方で、近年は照明工学の観点から再評価が進み、の企画展では「不便さを美に変換した日本近代建築の奇跡」と紹介された。ただし、展示解説の最後に「なお、復元模型の一部は実物の2倍の明るさで演出している」と小さく書かれていた。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡会誠一郎『明照殿式反照構法考』帝国建築協会出版部, 1902年.
- ^ 杉浦兼光「官庁建築における白壁反射の実験」『建築雑誌』Vol. 18, No. 4, pp. 221-239, 1909.
- ^ 小野寺翠『京都盆地北縁の殿舎と光環境』中央工学社, 1934年.
- ^ Margaret H. Thornton, "Light and Ceremony in Meishō Architecture," Journal of East Asian Built Forms, Vol. 7, No. 2, pp. 44-68, 1956.
- ^ 河合新之助『反照と礼法の近代史』岩波建築選書, 1968年.
- ^ Harold P. Baines, "The White Return Hall Problem," Proceedings of the Society for Synthetic Heritage, Vol. 3, No. 1, pp. 11-29, 1971.
- ^ 藤原乙彦『明照殿復元史料集』京都古建築研究所, 1987年.
- ^ 中村桐子「七十一枚格子の実測値について」『日本建築史学会誌』第22巻第3号, pp. 97-114, 1998年.
- ^ S. W. Ellery, "Radiant Courtesy and Interior Angles," Architectural Folklore Review, Vol. 12, No. 5, pp. 301-318, 2008.
- ^ 国立科学博物館編『明るすぎる建築の系譜』展示図録, 2019年.
- ^ 渡辺精一郎『なぜ殿は光るのか――明照殿の民俗工学』光文堂, 2021年.
外部リンク
- 京都古建築アーカイブ
- 帝国建築協会デジタル年報
- 明照殿研究会
- 白壁光学資料室
- 国立科学博物館 企画展アーカイブ