杉花粉の変
| 時代 | 室町末期から戦国初期 |
|---|---|
| 場所 | 日本列島の山地、内海沿岸、京都周辺 |
| 原因 | 杉花粉の徴収権をめぐる利権争い |
| 結果 | 花粉管理権の分割と山林台帳制度の整備 |
| 主な関係者 | 伊勢原宗順、松浦玄白、紀州山守同盟 |
| 影響 | 春季通行税の創設、鼻薬札の流通 |
| 別名 | 花粉改易、春霧騒動 |
| 関連制度 | 杉林検断、粉札、山手徴発 |
杉花粉の変(すぎかふんのへん)は、末から初頭にかけての山間部と港湾都市を中心に拡大した、花粉徴発権をめぐる・・の対立である[1]。春先のから生じる微細な粉塵をめぐって封建的な課税制度が組み替えられた事件として知られる[2]。
概要[編集]
杉花粉の変は、の植林が各地で進んだ後半、春先に飛散する花粉を「山の息」とみなす古い信仰と、実際にそれを徴税資源として扱おうとした諸勢力の衝突から生じたとされる。とりわけの寺社勢力が、境内林に由来する花粉の通行札を発行し始めたことが、事態を一気に複雑化させた[3]。
事件の性格は一見すると宗教的対立に見えるが、実際には・・にまたがる木材流通、製粉業、薬種商の利権再編が中心であったとの指摘がある。なお、当時の文書では花粉を「白き細塵」「春の税粒」などと婉曲に記し、直接的な言及を避ける傾向がみられる[4]。
背景[編集]
杉林の拡大と粉札制度[編集]
末、系の山守組織が、伐採後の荒地回復を目的として杉を密植したことが起源とする説が有力である。杉は成長が早く、また海風に強かったため、沿岸の港町でも用材として広まったが、春の飛散粉が大量であったことから、やがて花粉を証紙化し徴収する「粉札」が考案された[5]。
粉札は最初、寺社の門前での咳払い回数を減らすための救済券として配られたが、やの商人がこれを転売しはじめたことで、実質的に季節税へ変質した。記録によればには一枚あたり米0.7升相当の価格で取引され、翌年には三倍近くに高騰したという[6]。
鼻薬札の流通[編集]
の薬種問屋・松浦玄白は、花粉を吸い込んだ際の苦痛を抑えるため、薄荷と焼塩を混ぜた小袋を「鼻薬札」と称して売り出した。これが現代でいう衛生用品に近い役割を持ったため、各地の領主は花粉対策を名目に独自の課税を始め、では鼻薬札の使用許可証が月額制になったとされる[7]。
一方で、鼻薬札は単なる薬効品ではなく、身分証としても使われた。札の色で通行可能な山道が異なり、白札は上山、藍札は港、朱札は寺内町に限定されたという。こうした制度は実務上きわめて煩雑で、記録上は「春の三度見直し」と呼ばれたが、実際には役人が咳き込みすぎて帳簿を読めなくなったことが背景にあるともいわれる[8]。
経緯[編集]
伊勢原宗順の檄文[編集]
、山城国の山守であった伊勢原宗順が「花の粉を私するは山の理に背く」とする檄文を配布し、からにかけて粉札台帳の没収を命じた。宗順は寺社奉行の出身であったが、若いころに杉木立の伐採権をめぐって鼻炎をこじらせ、以後、花粉の統制を政治課題として扱うようになったとされる[9]。
この檄文は、当初は地方の山守反乱にとどまると見られていたが、宗順の文言が「春霧をもって租を取る者は、やがて山を失う」と過激であったため、の写本職人が多数複製した。結果として、文面の一部だけが独り歩きし、商人たちの間では反課税運動の標語として流布した。
春霧騒動への発展[編集]
の春、南部で花粉飛散量が平年の約2.4倍に達したとする古記録があり、これを契機として寺社側が「特別花粉通行令」を発布した。これに対し、港湾都市の荷役組合が荷車1台ごとに粉札2枚を要求されることへ反発し、筋では小競り合いが頻発した[10]。
とくに有名なのが、の薬種蔵で起きた「白袋焼き」である。反乱側が鼻薬札の原料袋を焼却したところ、煙が花粉を巻き上げ、かえって周辺一帯の症状を悪化させた。これにより事態は「花粉を消すために花粉を撒く」という滑稽な様相を呈し、のちの年代記ではこの日を「最も理にかなわぬ勝利」と評している。
影響[編集]
杉花粉の変の直接的な帰結は、に成立した山林台帳制度である。これは各村が杉の本数だけでなく、開花の時刻と風向をも報告するという、極めて精密な制度であった。台帳作成にはの算術僧が動員され、誤差は一尺以内とされたが、実際には役人の咳で記録が途中欠落する例が多かった[11]。
また、春季の公的儀礼も変化した。以後、領主の入城式では杉枝を焚かず、代わりにヒノキを用いる慣行が広まり、これは「無花粉化の礼」と呼ばれた。さらにでは鼻薬札の再利用が進み、裏面に船荷証明を追記して使う商習慣が生まれ、これが後の帳合制度の基礎になったとされる。
研究史・評価[編集]
近代の研究では、杉花粉の変を「山林行政の技術革命」とみる立場と、「季節性アレルギーを巡る民衆史の先駆け」とみる立場が対立している。前者は史料編纂掛の東條彦三郎、後者はの石橋瑞穂が代表的である[12]。
ただし、刊の『春粉政略史稿』が「当時の人々は花粉を吸うと知恵が増すと信じた」と断定したことについては、一次史料の裏付けが薄いとして批判がある。一方で、の版本に「花粉を集めると眠気が減る」と記された断片が存在し、学会ではいまだ結論が出ていない[13]。
遺産と影響[編集]
杉花粉の変は、のちのにおける山林課税と季節対策の原型を形づくったと評価される。とくに地方の神社では、現在も春の社務所で薄い紙札が配られる慣行があり、これは粉札の名残とされる[14]。
また、事件に由来する言い回しとして「粉が立つ前に札を切れ」があり、これは商取引で相手の思惑を先に読むという意味で用いられた。なお、の市民団体の調査によれば、花粉対策をめぐる地方条例のうち、約17%が宗順の檄文に「文体上の影響」を受けているというが、算出方法には疑義がある。
脚注[編集]
史料の初出は『山城春粉記』とされるが、写本差が大きい。 ただし同書はの補筆が多い。 寺社側の関与を示す記録は、の蔵出し目録に見える。 花粉を直接名指しすると不作を招くという禁忌があったとされる。 この植林事業にが関わったとする説もある。 市価はの問屋帳による。 甲斐の制度は一時的なものに終わった。 伝承上の表現であり、比喩とみる研究者もいる。 宗順の出自については諸説ある。 飛散量の測定は後世の換算値に基づく。 役人の咳による欠落は誇張とみられる。 いずれも学界では周辺資料の扱いをめぐって議論がある。 版本の所在は旧蔵目録に記載がある。 もっとも、現代の実務との連続性は確認されていない。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 東條彦三郎『山林課税史における粉札制度』東京史学社, 1937, pp. 41-68.
- ^ 石橋瑞穂『春霧と民衆統制』京都府立文書館叢書, 1954, Vol. 12, pp. 102-149.
- ^ 松浦玄白『鼻薬札考』越前薬種協会出版部, 1499写本影印, pp. 3-27.
- ^ H. T. Mercer, "Cedar Pollen and Fiscal Rituals in Medieval Japan", Journal of Arboric Historical Studies, Vol. 8, No. 2, pp. 77-93.
- ^ 伊勢原宗順『花の粉を私するは山の理に背く』山城古文書刊行会, 1501, pp. 1-6.
- ^ Robert J. Elwood, "Taxation of Spring Dust in East Asian Temple Estates", Transactions of the Anglo-Japanese Antiquarian Society, Vol. 19, pp. 211-244.
- ^ 村瀬真一『春粉政略史稿』東方書院, 1937, 第2巻第4号, pp. 15-39.
- ^ Amina al-Khatib, "Pollen Rights and Market Access along the Inland Sea", Levantine Review of Comparative History, Vol. 4, No. 1, pp. 5-31.
- ^ 『山城春粉記』国文学研究資料館旧蔵写本, pp. 88-117.
- ^ 田島由紀『無花粉化の礼と中世儀礼の変質』中世儀礼研究, 第7巻第1号, pp. 61-84.
外部リンク
- 架空史料データベース 山城粉札集成
- 古花粉経済研究所
- 東アジア山林税制アーカイブ
- 春霧騒動ミュージアム
- 中世鼻薬札保存会