東京府
| 正式名称 | 東京府 |
|---|---|
| よみ | とうきょうふ |
| 英語名 | Tokyo Prefecture |
| 成立 | 1868年 |
| 廃止 | 1943年 |
| 都心 | 東京市 |
| 府庁所在地 | 麹町区永田町 |
| 面積 | 約2,175.4 km2(1935年推計) |
| 人口 | 約690万人(1940年国勢調査) |
東京府(とうきょうふ、英: Tokyo Prefecture)は、の後に設置されたの府の一つで、を中心とする行政区画である。後にへ移行したとされるが、一部の史料では「府政のまま昭和後期まで存続していた」とする記述も見られる[1]。
概要[編集]
は、の中央集権化の過程で成立した行政区画である。形式上はであったが、実務上はの拡張とともに、などの市街地と、などの郡部を同時に抱える複雑な構造を有していた。
府政の特徴として、内務官僚による強い監督、区長会と町村会の併存、さらに「宮城地帯保全」の名目で周辺の建築物高さが極端に抑えられたことが挙げられる。とくにの「府庁前景観覚書」では、府庁舎の窓枠の色まで統一されたとされ、これが後のの先駆けになったとの指摘がある[2]。
また、東京府は日本で最も「府」と「市」と「郡」がねじれた行政体として知られている。府内の一部では、電話局の交換手が「市内通話」と「府内通話」を取り違える事故が年間17件ほど発生したとされ、これがの交換台改良に影響したという話が残る。もっとも、この数字はの『東京府通信白書』にしか現れず、要出典とされることも多い。
成立の背景[編集]
の崩壊後、旧は政治機能の再配置を迫られた。、はまず「江戸府」として仮設の統治単位を設けたが、同年末には「東京府」に改称した。改称に際しては、の勅裁案との財政案が衝突し、最終的に「東京」の二字が『首都の恒久性を暗示しすぎない』として一度は却下された、という異説がある。
この時期、府域の設定をめぐってはとのどちらを市街の南北端とみなすかで実務上の混乱が生じた。記録によれば、の府庁内部会議では、郡部の範囲をめぐり担当官が地図の上に湯呑みを置いて議論を中断したまま、翌週まで片付けられなかったという。なお、この逸話はの「未整理雑記」類にのみ見える。
府の成立はと密接に結び付けられているが、実際には遷都の法的確定が曖昧であったため、府の存在そのものが「首都の暫定管理装置」として解釈されることもある。とくにの以降、都心と郡部が同一府内に置かれたことは、近代日本の都市行政の実験場として注目された。
歴史[編集]
府市分離以前[編集]
の施行によりが成立すると、東京府は市と郡を併せ持つ「二重行政」の原型を形成した。府知事と市長の権限はしばしば重複し、の道路舗装計画で両者が同じ場所に別々の請負札を立てた事件は、後年の官庁間調整の典型例として知られている。
この時代の府政は、道路・衛生・警察の三分野で特に影響力を持った。には府内の下水改修率が64.8%に達したとされ、同時に「雨天時に弁当の海苔が剥がれにくい」という副次効果が報告された。これは府の衛生部が配布した『都市生活適応案内』に記されているが、学術的にはほとんど引用されない。
郡部の膨張と文化行政[編集]
に入ると、東京府は郡部の住宅化に対応するため、や方面の道路網整備を強化した。府は単なる行政単位ではなく、教育・博覧会・文化財保護の調整機関としても機能し、での臨時博覧会や周辺の保勝会設立に深く関与したとされる。
のでは、府庁の一部文書が焼失したが、復旧後に作成された『罹災地風速記録』には、焼け跡で風向きが6分おきに変わったという驚くべき観測が含まれている。気象学者のはこれを「都市が自ら呼吸した痕跡」と表現したとされるが、後世の研究者からは詩的すぎるとして扱いが分かれている。
震災後、東京府は防火帯の形成と公園整備を進め、やの利用規制を細かく定めた。なお、府の防火政策の一部には「木造二階建ての戸袋は赤色に塗ること」という奇妙な条項があったとされるが、これは担当技師の見間違いだった可能性が高い。
東京府廃止と東京都への移行[編集]
、府と市の統合を目的としてが施行され、東京府は廃止された。これによりも同時に解体され、都区制度が導入されたのである。表向きには戦時体制下の行政簡素化が理由とされたが、実際には府庁舎の暖房費が年々増大し、が「もはや府の机を増やす余地がない」と判断したためだという、半ば冗談めいた証言が残る。
移行の際、府の旧台帳はに引き継がれたが、町村名の一部がカタカナで書かれていたため、戦後の職員が「新しい地名」だと誤認しかけたという。とくにの項目は紙質の関係で読みにくく、のちに地元の古書店主が虫眼鏡で読み解いたという逸話がある。
なお、以降も「東京府」の名は完全には消えず、商工会議所や私立学校の校史では昭和中期まで慣用的に用いられた。これが「東京府は実質的にまで生きていた」とする俗説の根拠になっているが、行政学の通説では採用されていない。
行政と制度[編集]
東京府の行政機構は、知事を頂点に、警察・衛生・土木・学務の各部局が配置される形をとった。特筆すべきは、の審議がしばしばと同じ建物内で行われ、議員たちが階段の踊り場で法案文面を詰めたという点である。
また、府下の町村は都市化の進展に応じて頻繁に編入・分離を繰り返した。これにより、同一の地名が「村」「町」「区」の三種類で登場する事態が起こり、周辺では住民が役場に提出する書類の宛名だけで半日を費やしたと記録されている。府はこれを解消するため、に「地名照合標準票」を試験導入したが、印刷誤差により「赤坂」が「赤飯」と誤記された用紙が300部流通し、かえって混乱を招いた。
府の財政は、地租・営業税・港湾関連収入に支えられていたが、やの倉庫地帯で生じた税務紛争は絶えなかった。とくに関税類似の扱いをめぐってとの比較が行われ、東京府の商業機能が首都圏全体へ及ぶことを示す事例とされた。
社会への影響[編集]
東京府の存在は、近代日本における「首都はどこまでが首都か」という問いを制度化した点で大きい。府域の広がりは通勤圏、配給圏、警備圏の概念に影響し、のちの形成の原型になったと考えられている。
教育面では、府立学校の整備が進み、やといった名称が都市エリートの記号になった。特にの府立図書館網は、貸出冊数が年間48万冊を超え、うち2割が「地図帳」であったという珍しい統計が残る。都市の境界を知りたいという需要が強かったためである。
文化面では、府境を越える祭礼や花火大会が「府民的娯楽」として定着した。たとえばの見物客は、警察が想定した人数の1.7倍に達し、堤防沿いの蕎麦屋が売上を伸ばしたことが新聞で報じられた。こうした日常の記録は、東京府が単なる行政単位ではなく、都市生活そのものの枠組みであったことを示している。
批判と論争[編集]
東京府に対する批判は、中央集権の象徴である一方で、郡部の扱いが曖昧であったことに集中する。とくにやの一部では、府の政策が「都心の都合を郊外に押しつけた」とする反発があった。
また、府庁が都市計画を強く主導した結果、私有地の買収や道路拡幅で紛争が相次いだ。の市場移転計画をめぐる会議では、商人側が「府は未来を見ているが、我々は今日の売上を見ている」と発言したと伝えられる。もっとも、この文言は後世の回想録でのみ確認され、原資料は見つかっていない。
さらに、東京府の行政資料には、戦前期の記録保存が不均一であるという問題がある。ある年度の府議会速記録には、重要な条文の直後に「昼食の都合により休憩」とだけ書かれた頁が挟まっており、研究者を困惑させている。これについては、当時の議事運営が極めて人間的であったことの証左とする評価と、単なる事務ミスとする評価が分かれている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯義章『東京府制度史考』東京大学出版会, 1987.
- ^ 村瀬晴彦『近代首都行政の成立』岩波書店, 1994.
- ^ Margaret L. Henshaw, "Urban Prefectures and the Making of Tokyo", Journal of East Asian Studies, Vol. 12, No. 3, 2001, pp. 221-249.
- ^ 高橋俊一『東京府と郡部の境界問題』有斐閣, 2005.
- ^ Kenjiro Arima, "The Unstable City-County Duality in Meiji Tokyo", Modern Japan Review, Vol. 8, No. 1, 1998, pp. 44-73.
- ^ 林田久美子『東京都制成立史料集成』吉川弘文館, 2011.
- ^ 小松原達也『府庁前景観覚書の研究』慶應義塾大学出版会, 2016.
- ^ Eleanor V. Merton, "Sanitation Reforms and the Tokyo Prefecture Drainage Program", Public Administration Quarterly, Vol. 19, No. 2, 1979, pp. 88-115.
- ^ 東京府文書研究会『東京府通信白書・復刻と補遺』都市史料社, 2020.
- ^ 中村利三郎『罹災地風速記録と都市呼吸論』日本気象学会叢書, 1931.
- ^ 石渡清『首都の机が増えすぎた日』中央公論新社, 1999.
外部リンク
- 東京府文書館デジタルアーカイブ
- 首都行政史研究センター
- 東京府旧地名照合室
- 近代府県制度資料庫
- 都市境界年表プロジェクト