東京熊本直通幹線
| 正式名称 | 東京熊本直通幹線 |
|---|---|
| 通称 | 東熊幹線、TKDライン |
| 種別 | 国土交通政策上の直通幹線構想 |
| 起点 | 東京都千代田区(仮定上) |
| 終点 | 熊本県熊本市(仮定上) |
| 計画距離 | 約1,083 km |
| 想定開業 | 1997年(未成) |
| 主要推進団体 | 内閣総理府直通交通準備室 |
| 技術方式 | 複合軌道・地下導管併用 |
| 愛称由来 | 東京と熊本を1本の「幹線」で直結するという建前 |
東京熊本直通幹線(とうきょうくまもとちょくつうかんせん、英: Tokyo-Kumamoto Direct Trunk Line)は、とを結ぶとされた高速直通輸送構想である。主として末期の交通政策のなかで提唱され、のちに「九州の胃袋をへ直接つなぐ路線」として一部の官僚と鉄道趣味家の間で知られるようになった[1]。
概要[編集]
東京熊本直通幹線は、の都心部からの県央部までを、乗換えを最小限に抑えて結ぶことを目的に構想された直通輸送路線である。公式文書上は「幹線」とされたが、実際には鉄道・地下送電路・速達貨物レーンを一体化した、きわめて曖昧な施設群として定義されていた。
この構想はに内の若手技官グループがまとめた「南北直結型地方活性化案」に端を発するとされる。もっとも、当時の会議録には路線名が一切記されておらず、後年になって系の匿名寄稿が「東京熊本直通幹線」という呼称を定着させたとする説が有力である[2]。
成立の背景[編集]
構想の背景には、への一極集中と、側の物流遅延を同時に解消したいという政治的思惑があったとされる。特に周辺では、農産物の出荷が早朝便に依存し、晴天時には「東京着は昼、熊本の出荷は夜」という奇妙な逆転現象が問題視されていた。
このため、当時のOBを中心とする研究会は、貨客混合で24時間運行可能な直通幹線を提案した。なお、研究会の議事録によれば、最初の案では終点がに設定されていたが、「さすがに遠すぎる」として熊本で折り返す形に修正されたという[3]。
歴史[編集]
構想の始まり[編集]
秋、の地下会議室で開かれた非公開検討会において、都市交通学者のが「幹線は人を運ぶのではなく、県民の気分を運ぶべきだ」と発言したことが発端とされる。これに対し、出身の政策秘書が、弁当箱に描かれた直線を示しながら「東京と熊本の間に、まだ線が足りない」と応じた逸話が残る。
同年末には、の技術子会社が試作した「直通幹線第1号試験台車」が内で走行試験を行ったが、最高速度よりも車内の味噌汁保持性能のほうが議論になった。これが後の「温食輸送規格」導入につながったとされる。
計画の拡大[編集]
には、路線を単なる鉄道ではなく、地中トンネル・冷蔵貨物管・行政連絡網を束ねた「複合幹線」に改める案が採用された。とくにからにかけての区間では、地形の都合上、実際の線路よりも先に「時刻表だけが完成した」と記録されている[4]。
この時期、発足直後の社内資料では、東京熊本直通幹線の略称を「TKD」とする案と、「東熊」を採る案が対立した。最終的には、熊本県内の反発を避けるため「直通」を強調した命名が選ばれたが、略称だけが先に流通し、沿線の土産物店では「TKD饅頭」が試験販売されたという。
停滞と再評価[編集]
に入ると、建設費の試算が当初の約3倍に膨らみ、総額はに達したとされる。これにより、中央省庁では「東京熊本直通幹線は実在する計画ではなく、予算書の脚注である」と揶揄された。
一方で、後の復興議論において、災害時の広域補給路として再評価されたとの見方もある。ただし、再評価委員会の最終報告書はなぜか路線図ではなくの配置図を添付しており、現在でも要出典扱いのままである[5]。
路線構想[編集]
東京熊本直通幹線の基本構造は、東京側の都心地下駅から東海道・中部・近畿・中国・九州の各地域を貫き、熊本市の外縁にある「白川終端区」に至るものであった。資料によっては、とに中核停車駅を置く案や、を完全通過する「影の特急方式」も提案されている。
また、同構想では貨客分離が徹底されておらず、朝は通勤客、昼は野菜、夕方は県議会資料、深夜は観光客の寝袋を運ぶという運用が想定されていた。これにより、駅ごとに匂いが変わることから、沿線自治体は独自に「駅空調条例」を制定したとされる。
技術的にはに似た高規格軌道を採用しつつも、電力は一部区間での潮流発電を併用する計画であった。なお、この潮流発電は当時の技術では実用性が低かったため、試験区間では「満潮のときだけ時刻表が早くなる」という運用説明が配られた。
社会的影響[編集]
構想は未成に終わったものの、沿線自治体における「直通」という言葉の流行を生んだ。たとえばでは直通給食計画、では直通観光バス構想、では直通温泉送湯管が相次いで検討され、いずれも東京熊本直通幹線の亜種として報道された。
また、の地方博覧会では、幹線の模型が全長48メートルで展示され、来場者は模型の途中に置かれた型のトンネル断面を通って入場したという。これが「通過すること自体が観光である」という新しい発想を生み、後の体験型交通展示の先駆けになったとされる。
一方で、沿線の地価が先に上昇し、存在しない駅前に不動産広告が出る事態も起きた。特にでは、「開業予定地から徒歩3分」をうたうマンションが2棟建設され、うち1棟は完成前に広告塔だけが残った。
批判と論争[編集]
批判の中心は、費用対効果の不透明さと、東京と熊本を直結する必然性への疑義であった。経済学者のは「この幹線は輸送インフラではなく、地方に配布された長大な慰めである」と評したとされる[6]。
また、工学者の一部からは、1,083km級の路線を一気通貫で建設すること自体が非現実的であるとの指摘があった。これに対し推進派は、「東京から熊本までの直線距離ではなく、役所を通るとこれくらいになる」と反論したが、当然ながら説得力は乏しかった。
なお、の内部メモには、幹線の終点が熊本城天守ではなく、近くの地下に変更された痕跡がある。これが「城下町の文化財保護を逸脱している」とする批判を呼び、最終的に計画は凍結された。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 久我山俊彦『南北直結型地方活性化案の研究』都市交通政策研究所, 1985, pp. 14-39.
- ^ 古閑百合子『県都と中央省庁を結ぶ直通幹線構想』熊本行政資料出版, 1987, pp. 88-121.
- ^ 佐伯隆一『鉄道複合幹線の制度設計』運輸経済評論 Vol.12, No.3, 1988, pp. 201-223.
- ^ Margaret A. Thornton, “The Tokyo-Kumamoto Direct Trunk Line and the Politics of Through Service,” Journal of Asian Infrastructure Studies, Vol.7, No.2, 1991, pp. 55-79.
- ^ 三浦雅臣『長大直通路線の費用便益分析』政策工学叢書 第4巻第2号, 1993, pp. 6-28.
- ^ 田島和彦『幹線は気分を運ぶか』交通文化月報 第18号, 1994, pp. 3-11.
- ^ 熊本県直通交通史編纂委員会『東京熊本直通幹線資料集』第1集, 1996, pp. 101-164.
- ^ Edward J. Feldman, “Why Cities Want Impossible Rail,” Comparative Transit Review, Vol.19, No.4, 1998, pp. 310-334.
- ^ 国土交通省直通幹線検討室『広域直結型幹線の再評価に関する覚書』内部資料, 2006, pp. 1-17.
- ^ 渡辺精一郎『駅前地価の先行上昇現象と未成インフラ』日本都市計画学会誌 第41巻第6号, 2011, pp. 412-430.
外部リンク
- 東京熊本直通幹線資料アーカイブ
- 直通幹線研究会デジタル年報
- 熊本県未成交通博物館
- 首都圏広域輸送史センター
- 架空交通政策ラボ