柄野友範
| 氏名 | 柄野 友範 |
|---|---|
| ふりがな | えの とものり |
| 生年月日 | 10月12日 |
| 出生地 | |
| 没年月日 | 4月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | “漂白インク工学”研究者、大学非常勤講師 |
| 活動期間 | 〜 |
| 主な業績 | 白色度の時間変化(退色カーブ)をモデル化し、印刷インクの再漂白工程を体系化した |
| 受賞歴 | 帝都色材賞()、明和科学奨励賞() |
柄野 友範(えの とものり、 - )は、の“漂白インク工学”研究者である。繊細な白色度制御の理論家として広く知られる[1]。
概要[編集]
柄野友範は、印刷業界で“白が戻る”現象を工学的に説明しようとした研究者である。とくに、紙面上の白色度が時間とともに崩れる原因を「繊維内の微視的酸化」とし、制御可能な指標として扱った点で評価された。
彼の名は、技術者向け雑誌のコラムや講習会で何度も引用され、戦前から戦後にかけてインク工場の工程表にまで影響したとされる[2]。一方で、彼のモデル化は“測るための理論”から“作るための理論”へ飛躍したとして、後年批判も受けた。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
柄野はにで生まれた。父は家業として和紙の下漬けを請け負っており、友範は幼少期から「白い紙が夕方だけ黄色くなる」現象を観察していたと伝えられる。
家には簡易分光計と自作の温湿度記録紙があり、彼は毎日同じ場所で“白色度の気配”を記録していた。記録の端には「昼13時07分、湿度72%、白色度指数は+3.2」といった細かなメモが残っているとされる[3]。もっとも、この数字の正確さについては同時代の証言が食い違っている。
青年期[編集]
、友範はの機械工養成所に入り、材料と計測の基礎を学んだ。のちに彼はの色彩化学講義に“聴講生”として通い、講師のに師事したとされる[4]。
彼は学生時代、「漂白液の効き目は濃度ではなく“撹拌のリズム”で決まる」という奇妙な仮説をノートに書き付けた。ノートには撹拌回数が「毎分84回、半径11.3cm」と書かれており、後年この数値は“柄野の癖”として語り継がれることになった。
活動期[編集]
卒業後、柄野はの印刷機材企業「山桜インキ工業(旧称:山桜商会)」に短期契約で招かれた。そこで彼は、工場が再漂白工程を導入し始めた矢先に、退色原因を説明する計測法を提示した。
には、白色度の時間変化を“退色カーブ係数K”で表す手法を公開し、インク工場が工程表を改訂するきっかけになったとされる[5]。彼の提案は理論だけでなく運用に落とし込まれ、「工程の切り替えはKが0.14を下回る瞬間に行う」といった、ほぼ儀式めいた運用基準まで作られた。
第二次世界大戦期には、紙不足により“白を薄くする”工程が増えた。柄野はそれに対し、いわゆる“戻し漂白”の簡易版を設計したとされるが、その詳細は戦後の資料整理で一部が欠落している。
晩年と死去[編集]
戦後の、柄野はの「色材研究連盟(通称・色連)」で非常勤講師を務めた。講義は難解だが人気があり、学生は「柄野は黒板に白色度のグラフだけを描いて黙る」と噂した。
に退職した後は、自宅で実験を続けた。死の直前には「白は“生き物”のように呼吸する」と語ったと記録されている[6]。
4月3日、時点で74歳(戸籍上は73歳とする説もある)で死去したとされる。なお、死因については「睡眠時の呼吸停止」とする資料と「実験室での転倒」とする証言があり、確定していない。
人物[編集]
柄野は、几帳面であると同時に他人の観察を“数値化の方向で”矯正しようとする傾向があったとされる。たとえば同僚が「なんとなく白い」と言うと、彼はすぐに「なんとなく」を「指数のどれに置き換えるか」と尋ねたと伝えられる。
逸話として、彼が初めて講習会を開いたとき、参加者に配った紙はすべて同じ型番のトレーシングペーパーだったという。ところが紙の白さが微妙に違い、彼は開講前に“最上段の紙だけを廃棄”したと記録される[7]。これは几帳面さというより、無駄を許さない合理性の表れだと説明された。
ただし人当たりは柔らかかったともされる。終戦直後、物資不足で測定器が欠けた学生に対し、柄野は「欠けた分だけ仮説を足せ」とだけ残したとされる。この言葉は、彼の著作のどこにも載っていないが、講義の伝聞として定着した。
業績・作品[編集]
柄野の業績は、退色の“原因”を化学に寄せつつ、工程として実装できる“手順”に変換した点にある。彼は退色を「酸化進行×繊維封止×光照射」の三要素で扱う枠組みを提示し、これを「AOFモデル」と名付けたとされる[8]。
代表的な著作として『白色度退色工学序説』が挙げられる。そこでは、白色度を測るための治具の寸法が驚くほど細かく、例えば試料は「縦50mm・横50mm、枠高1.2mm以内」と指定されている。さらに、測定時の照明は「色温度4300K、照射角30°」とされ、現場では“4300°じゃないのか”と冗談が出た。
また彼は工場向け小冊子『戻し漂白の実務 〜Kが示す夜明け〜』を刊行した。内容は理論よりも運用が中心で、「Kが0.14以下のロットだけ、再漂白槽を“3分17秒”だけ循環させる」と書かれている。なぜ“3分17秒”なのかは、彼自身が「17は不吉だから」と言ったとも「単に時計が壊れていた」と言ったとも伝わり、記述の揺れ自体が研究者仲間の笑い話になった。
後世の評価[編集]
柄野友範の評価は分かれている。支持派は、彼の指標化が現場に即したため実装が早かった点を重視し、退色カーブ係数Kがのちの自動制御装置の設計思想に影響したと主張する。
一方で批判派は、AOFモデルが測定条件への依存度を過小評価していたと指摘している。実際、同じインクでも照明や紙種でKが変動し、再現性が工程によって崩れたとする報告がある[9]。
それでも、彼の“白は時間で崩れる”という捉え方は広く普及し、学校の材料実習でも参照されるようになった。さらに、研究連盟の後継組織では、彼の手法を「白の衛生学」と呼び、講習のカリキュラムにまで組み込んだとされる。
系譜・家族[編集]
柄野家はの紙関連の請負を長く続けていたとされる。友範の妻は出身の染色技術者・で、婚姻後は家庭内で試料の保存方法を改善したという伝承がある。
子息は2人、長男は機械整備士、長女は製版会社の品質管理に進んだとされる。特に長女のは、白色度の測定記録を体系化して社内規程化し、「記録簿は感情を書かない」とするルールを作ったとされる[10]。
家系については、柄野の血縁に“漂白剤の配合職人”が多数いたという話があるが、系譜の裏取りは十分ではない。いずれにせよ、彼の家庭は実験と記録の文化に根ざしていたとみられている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 柄野 友範『白色度退色工学序説』山桜学芸社, 【1931年】.
- ^ 柄野 友範『戻し漂白の実務 〜Kが示す夜明け〜』帝都印刷研究所, 【1937年】.
- ^ 水野 誠之『色彩化学講義要録(聴講生メモ採録)』京都学術出版, 【1909年】.
- ^ 『印刷インク工程の標準化に関する報告(暫定版)』色材研究連盟, 第1部, Vol.3, pp.12-39, 【1950年】.
- ^ Eleanor W. Whitaker『On Temporal Whitening in Paper-Based Mixtures』Journal of Print Materials, Vol.18, No.4, pp.201-233, 【1947年】.
- ^ 佐々木 玄太『白色度指数の校正方法とその誤差要因』色材技術紀要, 第22巻第1号, pp.55-72, 【1958年】.
- ^ 戸田 祐介『退色カーブ係数Kの現場適用性』明和科学雑誌, 第9巻第3号, pp.88-104, 【1953年】.
- ^ 『帝都色材賞受賞者名簿』帝都色材協会, pp.1-16, 【1939年】.
- ^ 宮田 良江『家庭実験でできる保存則(紙の呼吸を読む)』岐阜染色文化館, 第2版, pp.7-19, 【1948年】.
- ^ M. R. Chen『Stability Metrics for Bleached Inks』Proceedings of the International Symposium on Color Engineering, Vol.5, No.2, pp.77-95, 【1960年】.
外部リンク
- 漂白インク工学資料庫
- 色連アーカイブ(工程表コレクション)
- 帝都色材賞データベース
- 退色カーブ係数K 検算室
- 柄野友範講義ノート公開ページ