柳井鹿目
| 氏名 | 柳井 鹿目 |
|---|---|
| ふりがな | やない かめ |
| 生年月日 | 4月12日 |
| 出生地 | (旧・大畠郡柳井村) |
| 没年月日 | 11月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 占術研究家、暦学者 |
| 活動期間 | 1896年 - 1937年 |
| 主な業績 | 『鹿目暦』全7巻の刊行、干支算盤術の普及 |
| 受賞歴 | 大正占暦学会賞(第2回、1919年) |
柳井鹿目(やない かめ、 - )は、の占術研究家。『鹿目暦』の編纂者として広く知られる[1]。
概要[編集]
柳井鹿目は、の占術研究家であり、暦と干支を「生活計算」として再編することにより、民間知の体系化を図った人物とされる。
鹿目はとくに、『鹿目暦』において“吉凶”を天文学・市井の慣習・家計簿の三層で説明する書式を導入したことで知られる。彼の方法は、占いが「願いを叶える儀礼」から「日程を設計する技術」へと変わる転換点として語られることが多い。ただし、後年の研究では一部が後付け編纂であった可能性も指摘されている[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
柳井は、の旧・大畠郡柳井村に生まれたとされる。父は藍染の帳付けを請け負う商家の出納係であり、鹿目は幼少期から「紙の繊維の向き」で日付を読み替える妙技を見せたと伝えられる。
頃、鹿目は村の共同納屋で保管されていた古暦の綴じ紐が、干潮時刻に合わせて自然に短くなることを観察し、「暦は理屈で結ばれているのではなく、潮の癖で結ばれている」と語ったとされる。この発言は後に彼の思想の原型になったと説明されることがある[3]。
青年期[編集]
青年期の鹿目は、に旧藩校の算術塾(厳密には“算術講習所”)へ通い、加えて測量用の簡易器具を自作した。伝記では、器具の試作が合計で「33回」、そのうち精度が目標値(角度誤差±2分)に達したのが「7回」であったと、いかにも細かい数字で記されている[4]。
この時期、鹿目はの出版仲買人を通じて『星図雛形集』を入手し、天文と占術を区別するのではなく“同じ紙の上で別の速度を持つ現象”として扱う見方を獲得したとされる。彼は師に「星は遠いが、計算は近い」と言い残したとされる。
活動期[編集]
鹿目はに上京し、の下町で暦の配達を手伝いながら、夜は蔵書の整理と“家事の吉日表”の作成に明け暮れたとされる。彼の手帳には、鍋を洗う回数と月齢の関係が「月齢×3日」ずれで相殺される、という趣旨の書き込みが残っているとされる。
、鹿目は《干支算盤術》と呼ぶ教育プログラムを開始した。これは算盤を使いながら干支の周期を暗記するのではなく、暗記の代わりに「生活の中で計算が起こる瞬間」を探す方式であったと説明される。のちに鹿目は、(大正8年)に大正占暦学会賞(第2回)を受賞した。表彰理由は「暦を経済実務に接続した功績」とされる[5]。
一方で、彼の『鹿目暦』が人気になるにつれ、同業者からは「計算と呼ぶには占いが濃すぎる」との批判が寄せられた。鹿目は反論として、暦の巻頭に“計算の手順”を30項目以上列挙し、読者に「見えるところは完全、見えないところは必要」と説いたとされる。
晩年と死去[編集]
晩年の鹿目は、若い門人に対して「暦は一年に一度作り直すのではない。毎日修正される」と教えたとされる。本人は前後、視力が衰えたにもかかわらず、点字器を改造して《吉凶の読み上げ》を実演したという逸話が残る。
に最終巻の増補を終えた後、鹿目は原稿整理のために自宅の蔵書を「412箱」数え上げたと記録されている。しかし、その箱のうち「12箱だけ重複していた」ため、本人が夜中に直し続けたという話がある[6]。
11月3日、鹿目は11月3日、65歳で死去したと伝えられる。死因は、伝記では“計算書類の紙粉による呼吸器不全”とされるが、別の証言では風邪が悪化しただけとされるなど、死去の事情は複数あるとされる。
人物[編集]
鹿目は、几帳面であると同時に妙に頑固だったと記されることが多い。本人は、暦の書体を決める際に「筆圧は一定、ただし季節でインクの粘りは変えるべき」と言い、門人の試作を“インクの落ち速度”で選別したとされる。
逸話としてよく知られるのが、訪問客に対して必ず「その人の次の買い物」を当てに行ったというものである。鹿目は、当てるのではなく“外したときにこそ修正が生まれる”として、来客の反応を記録したとされる。『鹿目暦』の改定理由が、売れ残りの豆の銘柄と結びついているのは、この癖の名残だと説明されることがある[7]。
また、鹿目は他人の占いを完全否定することは少なかった。彼は「他者の吉日表には温度がある。だから読むのだ」と語ったとされ、読むための“指の置き方”まで指導したという。
業績・作品[編集]
鹿目の最大の業績は、『鹿目暦』全7巻であるとされる。初版はに小部数で配布され、のちにから順次改訂された。『鹿目暦』は単なる吉凶ではなく、干支による縦の周期と、潮汐・季節の横の周期を重ねる「二重表現」を採用したと説明される。
『鹿目暦』には付録として、商家向けの《請求書用吉日》、農家向けの《播種直前の月齢確認》、学生向けの《読み書き開始の衛生時間》が含まれていたとされる。とくに《請求書用吉日》では、支払いの“遅れ日数”を平均化し、延滞の感情コストを軽減するための締め切り調整が提案されたとされる点が、当時の実務家に刺さったとされる[8]。
ほかに鹿目は、『干支算盤術入門(第1巻)』『紙鳴り天文計算法』『潮癖観測帳』などを著したとされるが、刊行年や構成は資料によって差異があるとされる。ただし、門人の回想では「紙鳴り天文計算法」は“叩く音”で方位を補正する方法を扱っていたらしいと語られている。
後世の評価[編集]
鹿目は、占術と実務の接続という点で一定の評価を受けた。とくに前後にかけて、暦が配布される社会のなかで『鹿目暦』の書式が転用されたという指摘がある。これは暦の“使い方”が変わったことを示すものとして、のちの民俗学者の関心を集めたとされる[9]。
ただし批判も存在する。『鹿目暦』が示す吉凶の説明が、後から整合するように見えるという点で、編纂の恣意性が疑われたのである。ある回想録では、鹿目が改訂のたびに「当たった事例を7割、外れた事例を3割だけ残す」と冗談めかして語ったとされるが、史料的裏付けは十分とはされていない。
一方で“細部の徹底”は評価され続けた。『鹿目暦』の余白に記された注釈が、後の手帳文化の先駆として言及されることがある。
系譜・家族[編集]
鹿目の家系は、当初は藍染の帳付けを担っていた商家系であるとされる。本人はで生家を継がずに上京したが、毎年正月だけは帰省し、父の帳簿を「整合の儀式」として読み直したという。
家族関係については複数の伝承がある。最も広く流通する系譜では、鹿目には妻のがいたとされ、佐保は“暦の印刷に使う紙の選定”を担当したとされる。紙の目(繊維方向)を読み、吉凶欄が滲まない位置に罫線を引かせたのが佐保であるという説明が残っている[10]。
子については、長男が“計算係”、長女が“暦の袋詰め係”として奉公先に入ったとされるが、史料の照合が難しいため断定は避けられている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 相馬皐月『鹿目暦の書式分析:生活計算としての暦』風見書房, 1921年.
- ^ 井川禎次『暦学と商家実務の接続』大森出版, 1928年.
- ^ Margaret A. Thornton『Calendrical Reasoning in Meiji-Era Japan』Oxford Frontier Press, 1933.
- ^ 佐伯貞雄『占術の数理化とその限界』春秋堂, 1936年.
- ^ 柳田潮鳴『潮癖観測帳の復元』山手研究社, 1952年.
- ^ K. Nakamura『The Dual-Table Tradition of “Yōsun” Calendars』Journal of Folklore Mathematics, Vol.12 No.3, 1961.
- ^ 田島里人『手帳文化の源流:注釈の余白に宿るもの』東京書房, 1978年.
- ^ 大正占暦学会編『第2回 大正占暦学会賞 記念講演録』大正学会館, 1920年.
- ^ (参考)阿部ミツ『紙の向きで未来は読む』虚構館, 1910年.
- ^ Hiroshi Kogane『Intersections of Astronomy and Folk Prognostics』Kyoto Academic Studies, 第4巻第2号, 1987.
外部リンク
- 鹿目暦アーカイブ
- 干支算盤術資料室
- 大正占暦学会デジタル講演集
- 柳井市郷土暦研究会
- 生活計算ノート(復刻版)