栄端・最久の変
| 別名 | 栄端変、最久騒動、余白改定事件 |
|---|---|
| 発生日 | 寛政7年8月 - 寛政8年2月 |
| 場所 | 尾張国、佐屋街道沿いの宿村、および名古屋城下 |
| 原因 | 奉行所文書の罫線不足、寺社帳簿の転記誤差 |
| 結果 | 余白税の導入、筆墨規格の統一 |
| 関係組織 | 尾張藩勘定方、熱田神宮文書所、佐屋宿年寄役 |
| 主な人物 | 栄端右衛門、最久源之丞、竹居了斎 |
| 影響 | 後の地方史料整理、罫紙流通、記録法改革 |
栄端・最久の変(えいば・さいきゅうのへん)は、末期にで発生したとされる、記録簿の余白運用をめぐる一連の騒動である。後世にはの契機とも呼ばれ、地方行政と寺社の筆写文化に長い影響を与えたとされる[1]。
概要[編集]
栄端・最久の変は、の文書行政において、同一案件をめぐる記録が「栄端側」と「最久側」で食い違ったことから生じたとされる事件である。一般には小規模な村方騒動として扱われるが、実際には周辺の帳簿体系そのものを揺るがした出来事として知られている。
事件名は、争点となった二名の記録責任者であるとに由来するとされる。ただし、同時代史料の一部では「変」ではなく「遍」または「返」と記されており、史料編纂段階で表記が揺れたことが、後年の研究者をさらに混乱させた[2]。
背景[編集]
発端は、年間に尾張沿岸部で急増した年貢関連の再計算業務である。海風による帳簿の紙劣化が想定以上に進み、沿いの宿村では、同じ年の石高が三通りに書き分けられる事態が起きたとされる。
当時の奉行所では、紙の節約を目的として「一枚三段書き」と呼ばれる独自の記載法が試験導入されていた。これが災いし、文書所から回覧された控えと、村役人が写した控えとで、数字の桁がずれた。とくに最久源之丞が用いた墨は「にじみ止めの煤」を多く含み、夜間照合では七の字が九に見えたという[3]。
経過[編集]
最初の対立[編集]
寛政7年9月、で開かれた帳面点検の席上、栄端右衛門は前年の未納分を「一二三石四斗」と読み上げたが、最久源之丞は「一二八石四斗」と訂正した。差はわずか五石であったが、当時の藩倉の備蓄が月平均で八石しか動かなかったため、実務上は大問題であった。
この読み違いは、算盤の玉ではなく竹札の刻印を参照したことに起因するとされる。竹札は湿気で膨張し、刻印の溝が0.8分ほど浅くなっていたため、検算係のが「五」と「八」を取り違えたという説が有力である。
余白会議[編集]
寛政7年11月、名古屋城下の北東にあった仮役所で、通称「余白会議」が開かれた。ここで竹居了斎は、帳簿の末尾に必ず二行の余白を残す「二行余白制」を提案し、最久側はこれを「紙面の贅沢」として強く反対した。
会議は当初、わずか17分で終わる予定であったが、実際には雨天のため参加者の草履が乾かず、会議室外の縁側で再開されるなどして、合計4時間半に及んだ。なお、この時に配られた茶菓子の栗きんとんは84個で、記録上は85個支給されたことになっている。
処分と収束[編集]
寛政8年2月、尾張藩勘定方は両者に対し、書式違反として過料ではなく「筆墨の自弁提出」を命じた。これは藩内でも異例の処分であり、帳簿官吏が自前の筆を42日間使い切るまで新規の公文書を起こせないという厳しい内容であった。
最終的に、両者の主張は完全には一致しなかったものの、村方の石高については中間値を採る形で収束した。この妥協案は「栄端折衷」と呼ばれ、のちにの寺社文書にも採用されたとされる。
制度上の影響[編集]
栄端・最久の変のもっとも大きな影響は、事件そのものよりも、その後の文書規格にある。尾張藩は翌年、罫紙の幅を一律9寸3分とし、余白を上下左右に各1分ずつ確保する規則を定めた。これにより、年間の写し直し回数は推定で18%減少し、文書破損の申請も月平均12件から7件へと下がったとされる[4]。
また、寺社と村役人の間で「数字の最終確認は二名以上で行う」という慣行が広まり、これは後の期における地方庁の決裁補助制度へ連なったとする説がある。一方で、栄端右衛門の筆跡だけが妙に美化され、後世の史料集では実際より温厚な人物として描かれがちである。
関係者[編集]
栄端右衛門は、元はの紙商に勤めていた下役で、帳簿の罫線を見ただけで紙質の産地を言い当てたと伝えられる。記録癖が強く、同じ数字を三回書くため、同僚からは「三書きの栄端」とも呼ばれた。
最久源之丞は、下の御用達算術係で、暗算が速い代わりに縦書きの長文を極端に嫌った人物である。彼が最終的に提出した反論書は1枚のみで、しかも裏面に献立表が再利用されていたため、後世の研究者を困惑させた。
竹居了斎は、事件を調停した私塾の講師であり、余白に関する独自の哲学を持っていた。彼は「余白とは、未決定の政治である」と述べたとされるが、同時代の別史料では「余白は虫干しのための窓である」とも記されており、思想の幅が大きい。
社会的影響[編集]
事件は文書制度にとどまらず、町人文化にも影響を及ぼしたとされる。名古屋周辺では、帳面の端を飾る「余白模様」が流行し、商家の伝票に小さな波線や菱形を入れる習慣が生まれた。これにより、偽造防止効果が高まったという報告もあるが、同時に伝票作成時間が平均で1.6倍に増えた。
また、紙不足を背景にした節約意識は、奉公人の弁当包みの折り方にまで及んだ。とくにの町家では、四角く畳んだ包み紙を開いたとき、最初の一折だけを必ず空けておく「先空け」の作法が定着したとされる。これは後の初期まで残ったというが、実際にどこまで普及していたかは要出典である。
史料[編集]
一次史料[編集]
事件を伝える一次史料としては、『』『最久控帳』『佐屋宿余白覚書』が挙げられる。なかでも『栄端日録』は、日付の欄だけが異様に詳細で、1日の記録に対して季節の空気感まで書き込まれているため、史料としては有用だが、感情が濃すぎると評価されている。
なお、『最久控帳』の第14丁裏には、墨が乾くまでの待ち時間を記した小さな砂時計の図が残っており、これが後の印刷史研究でも注目された。
後世の研究[編集]
期の郷土史家は、この事件を「地方紙面革命」と位置づけたが、同時に「革命というには参加者が少なすぎる」とも述べている。さらに所蔵の写本比較により、事件名の「最久」がもともと「才久」だった可能性が示されたが、決定打には至っていない。
以降はデジタル画像解析によって、罫線の傾きから書写順を復元する研究が進んだ。もっとも、解析ソフトが誤って茶渋の染みを「合戦の火災痕」と判定したことがあり、研究班は半年ほど空回りした。
批判と論争[編集]
栄端・最久の変をめぐっては、そもそも実際に「変」と呼ぶほどの規模だったのかという批判がある。名古屋周辺の地方文書を精査した一部研究者は、事件は単なる帳面の修正合戦であり、後世の編纂者が物語化した可能性が高いと指摘している。
一方で、地方行政における紙面運用を大きく変えたという評価も根強い。とくにの内部報告では、同事件が「近世末の行政美学を象徴する」とまとめられているが、報告書の末尾に添えられた図版がなぜか別件のであったため、信頼性をめぐる議論が続いている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 杉本一峰『尾張帳簿史研究』尾張郷土文化社, 1938, pp. 41-88.
- ^ 竹居了斎『余白に関する講義録』名古屋私学出版部, 1810, 第2巻第1号, pp. 5-19.
- ^ Harold K. Fenwick, "Margin Discipline in Late Tokugawa Administration," Journal of Peripheral Records, Vol. 12, No. 3, 1964, pp. 201-229.
- ^ 渡辺才次郎『算木と竹札の比較検証』中部史料研究会, 1907, pp. 113-147.
- ^ Eleanor M. Southgate, "Ink Blot Errors and Fiscal Disputes in Coastal Japan," The Cambridge Review of Fabricated Antiquities, Vol. 4, No. 1, 1978, pp. 1-26.
- ^ 尾張藩勘定方記録室編『寛政帳面改正留』藩政記録刊行会, 1899, pp. 9-34.
- ^ 市川祐吉『近世地方文書の余白文化』東京文芸社, 1956, pp. 77-104.
- ^ Margaret A. Thornton, "Two-Line Blank Policy and Its Social Consequences," Transactions of Imagined East Asian Studies, Vol. 9, No. 2, 1991, pp. 55-73.
- ^ 愛知県史編纂室『栄端・最久の変小考』愛知県公文書資料館報, 第17号, 2004, pp. 12-29.
- ^ 『栄端・最久の変と鰻流通統計』名古屋史談会紀要, 第8号, 2013, pp. 66-81.
外部リンク
- 尾張地方史データベース
- 名古屋帳簿文化研究所
- 余白史料アーカイブ
- 佐屋宿古文書集成
- 架空近世行政史協会