森安
| 名称 | 森安 |
|---|---|
| 読み | もりやす |
| 英語 | Moriyasu |
| 起源 | 大正末期の山林行政とされる |
| 提唱者 | 渡辺精一郎ほか |
| 主な用途 | 斜面保全、間伐設計、集落移転の補助 |
| 普及地域 | 中部地方・東北地方の山間自治体 |
| 関連機関 | 林野局森安調整班 |
| 異説 | 京都の寺院庭園が起源とする説 |
| 別名 | 森安式、M-system |
森安(もりやす)は、の保全と化を目的として発達したとされる日本発祥の総合概念である。現在では、、および地域計画の文脈で用いられることが多く、特に後期の山間部行政で普及したとされている[1]。
概要[編集]
森安は、山林の過伐採によって生じる土砂流出と集落の孤立を抑えるため、とを一体化して行う思想であると説明される。一般には単なる林業技術の一種とみなされがちであるが、実際には道路勾配、湧水量、寺社の風向観測、さらには村落の婚姻率までを加味する「総合安定法」として構想されたとされる[2]。
この概念は、13年にの山村で行われた試験的な斜面補強事業に由来するとされるが、一次資料の一部が文書の焼失で欠落しており、後世の研究者はしばしば推定に頼っている。なお、森安の普及過程には、当時の林業試験場だけでなく、地方鉄道の停車場設計に関わった技師が深く関与したとする説がある。
歴史[編集]
成立[編集]
森安の成立は、に吉城郡の斜面崩壊が相次いだことを受け、県庁嘱託の渡辺精一郎が作成した『山腹安定覚書』に求められることが多い。渡辺は、伐採後の裸地にを植えるだけでは不十分であり、谷筋の湿度を読む必要があるとして、斜面を「呼吸する棚田」に見立てたという。
当初、この方法は現場では半ば冗談として扱われたが、同年秋の豪雨で周辺の2集落がほぼ無傷で残ったため、県は急遽これを採用したとされる。もっとも、同時期に運搬用の木馬道が新設されていたことから、効果の大半は道路整備によるものだったのではないかという指摘もある[3]。
制度化[編集]
5年、は森安の手法を「山地安定標準要領」として半ば公式化し、全国の山間試験区に配布した。これにより、各地の役場では「森安係」と呼ばれる担当者が置かれ、植林の進捗だけでなく、盆踊りの開催位置や共同井戸の掃除日まで調整するようになった。
南佐久郡の記録では、森安係が月に4回、平均18.7キロメートルを徒歩で巡回し、斜面の割れ目を赤鉛筆で記録していたとされる。なお、この時期に用いられた測定帳票の一部には、なぜか「馬鈴薯の味覚評点」欄があり、後年の研究者を困惑させている。
戦後の再解釈[編集]
後、森安は主導の国土復興計画の中で再評価された。特にとでは、ダム建設に先立つ集落移転の説明資料として森安が用いられ、住民との合意形成を容易にしたとされる。
一方で、の豪雨災害以後、森安が「山を静かにさせる思想」へと過度に神秘化されたことに対し、実務家からは批判も出た。もっとも、当時の新聞には「森安の山は眠る」といった見出しが見られ、行政用語としてはむしろ成功した部類に入ると考えられている。
技術的特徴[編集]
森安の特徴は、単一の植林法ではなく、地形・風・水・人の移動を同時に扱う点にある。とりわけ有名なのは「三層帯配置」と呼ばれる方式で、斜面上部に深根性の樹木、中部に雑木帯、下部に水分調整用の草本帯を置く構成であった。
また、各帯の境界には石灰ではなく、焼き畑由来の灰を薄く撒くことで、昆虫相を変化させる工夫が行われたとされる。森安研究所の内部報告では、これにより土壌含水率が平均で7.4%改善し、落石の発生件数が年23件から11件に減少したとされるが、測定器の校正記録が残っていないため、数値の信頼性には疑義がある[4]。
人物[編集]
森安の普及には、渡辺精一郎のほか、林学者の、測量技師の、および地方行政官のが関わったとされる。とくにトーントン女史は、に来日した際、森安の帳票を見て「森林計画というより、村の気象日誌に近い」と評したという。
また、岐阜県下呂の旧家に残る書簡では、寺院の住職・善龍院了海が森安の導入に強く関わり、境内の裏山を実験林として提供したとされる。了海は、伐採木の運搬時に使う牛車の通行路まで指定し、のちに「森安は僧侶が作った」と誤認される一因となった[5]。
森安研究の周辺では、戦後になって女性技術者の参加も増え、には飯田市で初の「森安女性班」が組織された。班員は14名で、うち9名が役場の臨時職員、3名が小学校教員、2名が旅館の帳場出身であったと記録されている。
社会的影響[編集]
森安は、単なる山林保全技術を超えて、山村自治の象徴として扱われた。実際、のいくつかの自治体では、森安計画の成功を受けて共同作業の出席率が上昇し、毎年の春の土木普請における欠席率が12%前後低下したとされる。
一方で、森安を名目にした行政介入が過剰になり、私有地の植生選択にまで役場が口を出す事例も生じた。とあるの村では、柿の木の伐採をめぐって住民投票が行われ、賛成137票、反対136票、保留1票という僅差で森安案が可決されたという逸話が残る。
また、都市部では森安が「山の見え方を整える哲学」として紹介され、の公園設計や高架下緑化の議論にも転用された。ただし、都市計画への応用は多くが観念論に終わり、実際に残ったのは植木鉢の配置指針と週1回の散水当番表程度であった。
批判と論争[編集]
森安には、科学的根拠が不十分であるとの批判が古くから存在した。特にの林業技術者の一部は、森安が「現場の経験則を美化した総合語」にすぎないと指摘しており、1971年の『山地工学年報』では、森安を「行政が好むが、測量士が嫌う言葉」と評している[6]。
また、森安の創始者をめぐる争いも根強い。渡辺精一郎説のほか、京都の庭師・が先に原理を完成させたとする説、あるいはの山地調査班が先行していたとする説がある。もっとも、いずれの説でも核心となる図面がなぜかの古書店に集中して発見されるため、偽作説も根強い。
近年では、森安を文化遺産として保存すべきだとする立場と、不要な神話化を避けるべきだとする立場が対立している。なお、2018年にが行った公開講座では、参加者42名のうち11名が「森安は理念としては理解できるが、実務としては睡眠導入効果が高い」と回答したとされる。
脚注[編集]
[1] 森安の定義は、後年の行政文書を基に再構成されたものである。 [2] この説明は『山村安定学概論』に依拠するが、原典は所在不明である。 [3] 豪雨被害の減少要因をめぐっては諸説ある。 [4] 数値は森安研究所の内部報告による。 [5] 旧家文書の真偽については専門家の間でも意見が分かれている。 [6] 同年の別稿では、森安を「美しいが扱いづらい制度語」とも評している。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『山腹安定覚書』岐阜県山林試験場, 1924年.
- ^ 小林静雄「森安法における三層帯配置の実際」『林業試験場報告』Vol.18, 第3号, pp. 41-68, 1932年.
- ^ Margaret A. Thornton, “Slope Harmony and Village Mobility in Early Moriyasu Planning,” Journal of East Asian Environmental Studies, Vol. 7, No. 2, pp. 112-139, 1930.
- ^ 宮本栄作『森安係業務日誌』内務省地方改良局, 1935年.
- ^ 善龍院了海「山と人のあいだ」『寺院林通信』第2巻第1号, pp. 5-19, 1931年.
- ^ 渡辺精一郎・編『山村安定学概論』農林書院, 1941年.
- ^ 山地工学会『山地工学年報 1971』第12巻第4号, pp. 88-101, 1971年.
- ^ 石田玄斎『庭園勾配論』京都造園研究会, 1908年.
- ^ 農林省山地復興室『森安事例集第4輯』農林資料出版社, 1959年.
- ^ S. Kanda, “Administrative Quietness and Forest Settlement Design,” Review of Rural Planning, Vol. 11, No. 1, pp. 9-27, 1968.
- ^ 『森安と呼吸する斜面』林野調査叢書, 第5巻第2号, pp. 1-14, 1984年.
外部リンク
- 森安研究会
- 林野局アーカイブス
- 山村安定資料館
- 地方緑化史データベース
- 寺院林文化保存協会