森浩之介
| 生誕 | 1912年4月18日 |
|---|---|
| 死没 | 1984年11月2日 |
| 出身地 | 長野県下伊那郡阿智村 |
| 職業 | 民間気象学者、測量家、設計者 |
| 活動期間 | 1930年代 - 1970年代 |
| 代表的業績 | 林縁観測法、霧鐘、山腹式方位盤の改良 |
| 所属 | 信州山地総合研究会、中央高地通信器材同人 |
| 影響を受けた人物 | 渡辺精一郎、青木トメ、ラウル・シモンズ |
| 主な活動地 | 長野県、岐阜県、 |
森浩之介(もり ひろのすけ、 - )は、の民間気象学者、測量家、ならびに山間通信機器の設計者である。特に初期に確立されたとされる「林縁観測法」の提唱者として知られる[1]。
概要[編集]
森浩之介は、山地における霧・風向・積雪の変化を、肉眼観測と簡易装置の併用によって記録した人物である。とくにに発表したとされる『林縁観測法要義』は、の正式採用には至らなかったものの、戦前の山間部で広く模倣された。
一方で、森は学術研究者というより、役場・林業組合・学校の備品を横断的に改造していた半ば在野の技術者であったとされる。資料によっては、彼が製作した霧鐘の音が谷を越えて先まで届いたという証言もあるが、これは弟子筋の回想にのみ見える記述であり、要出典とされることが多い。
生涯[編集]
幼少期と阿智村での経験[編集]
森は下伊那郡阿智村の林業家の家に生まれたとされる。少年期にはの稜線で雲の切れ目を観察する癖があり、近隣では「天気を嗅ぐ子」と呼ばれていたという。
『阿智村誌』によれば、森はごろから薪割りの合間に竹筒へ水を入れ、気圧変化を目視で測る装置を試作していたとされる。なお、この装置は後に「森式簡易雲瓶」と呼ばれたが、同名の器具が別人によって先行していた可能性も指摘されている。
東京での修業と同人活動[編集]
、森はへ出て、の古道具店で測量器具の修理を請け負いながら、夜はの聴講生らと交流したとされる。ここで彼は、方位盤の針を磁石ではなく湿度で微調整するという奇妙な方法を試み、周囲から半ば嘲笑されながらも一定の支持を得た。
当時の同人誌『山腹と電波』には、森の文章が毎号1ページだけ掲載されていたとされる。もっとも、その掲載位置は最終ページの広告欄の裏であったため、実質的には読者の半数以上が見落としていたという。
林縁観測法の提唱[編集]
森の名を決定的にしたのが、の「林縁観測法」である。これは森林の端で霧の流入角度、鳥の沈黙時間、苔の反射率を同時記録し、24時間を等分して天候を予測する方式であった。
森は飛騨地方の山村で、観測記録をもとに翌朝の霜害をの精度で予測したとされる。もっとも、この数値は村役場の控え帳と森自身のノートで一致しておらず、後年の研究では「的中した事例のみが記録された可能性」があるとされた。
林縁観測法[編集]
理論[編集]
林縁観測法は、山林内部よりも林縁部のほうが微気象の変化を早く拾えるという発想に立つ。森は、風が木々を抜ける際に生じる「遅れ」を可視化するため、杉の枝先に赤い糸と鈴を結び、音の間隔を単位で記録した。
彼によれば、霧は単なる水蒸気ではなく、地形に沿って「癖」を持って流れるため、谷底で観測するより林縁で観測したほうが予報に有利であったという。この考え方は一部の林業技師に受け入れられ、の営林署で試験導入が行われた。
装置と実験[編集]
森は観測用に、木製の風向板、ガラス管温度計、煤を塗った紙片からなる簡易装置を製作した。とりわけ有名なのが霧鐘であり、これは湿度がを超えると内部の真鍮球が自動で鳴る仕掛けであった。
の冬、で行われた実験では、霧鐘が1晩で鳴り、宿直員が睡眠不足になったため翌日の記録が大幅に乱れたという。森はこれを「装置が正確すぎた結果」と説明したが、当時の記録係は「単に鳴りすぎた」と日誌に書いている。
弟子と継承[編集]
戦後、森の方法はを中心に伝承された。弟子としては、元林務官の、電気職人の、および後年に測候所へ転じたが知られる。
彼らは森の理論を整理し、観測項目をからへ拡張したが、同時に「鈴の音で天気を判断する」といった説明が独り歩きし、半ば民間信仰のような扱いも受けた。これにより、森の学説は学術界よりもむしろ山岳観光業で生き残ったとされる。
社会的影響[編集]
森浩之介の方法は、戦前から戦後にかけて山村の天候判断に小さくない影響を与えたとされる。とくに、林道工事・炭焼き・桑畑の防霜対策において、経験則を数値化する態度が評価され、にはが「山間部簡易予報参考書」に森式の図表を転載した。
また、後半には、観測器具が観光土産として売られ始めた。阿智村の売店では、霧鐘の小型模型が1個で販売され、底面に「鳴りすぎ注意」と刻印されていたという。これにより、森の名は専門家よりも旅行者の間で知られるようになった。
一方で、森の方法は「天候を人為的に読める」と誤解され、ダム建設の現場で過信された例もある。ある工事記録では、森式予報を根拠にコンクリート打設を進めた結果、午後3時に霧が急変して作業員が足止めとなったと記されるが、責任の所在は現在も曖昧である。
人物像[編集]
森は寡黙で頑固、しかし器具の調整については異様に饒舌であったと伝えられる。酒席ではほとんど話さないが、湯飲みの湯気の立ち方だけで翌日の天気を断定するため、周囲からは「無口な占い師」と呼ばれた。
写真資料では、森は必ず懐中時計を胸ポケットではなく腰紐に結んでおり、これは「時間を上に置くと雨に気づくのが遅れる」という独自の理屈によるものだったとされる。なお、この習慣は後年の弟子たちにも模倣されたが、実用性はほぼなかった。
森の私生活については資料が少ないが、晩年にへ移り住み、ベランダで竹製の風向計を回していたという証言がある。近所では、夕方になると必ず北の空を見てから郵便受けを開ける人物として記憶されていた。
批判と論争[編集]
森浩之介に対する批判の中心は、観測結果の再現性が低いことであった。特にの講演「林の端における風の躊躇」では、同一地点での記録が3日ごとに微妙に異なり、聴衆から「理論ではなく機嫌ではないか」との質問が出たとされる。
また、森の支持者の一部が霧鐘を宗教的護符のように扱ったため、にはが「鈴音による予報の過信」を戒める通達を出した。これに対し森本人は「鈴は予報するのではなく、耳を整えるのだ」と反論したと伝えられるが、真意は不明である。
近年では、森のノートの一部がの旧旅館から発見されたと報じられたものの、ページの半分が天気図、残り半分が晩酌の献立だったため、研究資料としての扱いには慎重論がある。
晩年[編集]
に入ると、森は実地観測から退き、若い技術者に助言を与える立場へ移った。最後の公開講義は、の公民館で行われ、聴衆の前で「山は昼より夜のほうが正直である」と語ったという。
死後、遺品の中から木箱入りの霧鐘、手製の方位盤、そして未完成の原稿『雪解け前夜の測候論』が見つかった。原稿には「第4章まであるが、天候が気に入らなかったので中止」と書かれていたとされ、森らしい逸話として引用されることが多い。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『山地微気象と林縁観測』信州出版会, 1941, pp. 12-49.
- ^ 青木トメ『霧鐘実験記録第一冊』中央高地通信器材同人, 1944, pp. 3-88.
- ^ 島田清司「戦後山村における簡易予報の普及」『日本測候学雑誌』Vol. 18, No. 4, 1957, pp. 201-219.
- ^ Margaret A. Thornton, 'Borderline Meteorology in Rural Japan', Journal of Alpine Instruments, Vol. 7, No. 2, 1962, pp. 55-73.
- ^ 小島勇三『山腹式方位盤の設計と誤差』山村技術叢書, 1965, pp. 101-164.
- ^ 長野県教育委員会『阿智村の近代民間技術者』長野県資料室, 1972, pp. 23-40.
- ^ Raul Simmons, 'A Study on Bell-Based Forecasting Devices', Proceedings of the East Asian Weather Folklore Society, Vol. 3, No. 1, 1974, pp. 9-31.
- ^ 『林縁観測法要義』復刻編集委員会『林縁観測法要義 復刻版』山村科学社, 1981, pp. 1-96.
- ^ 高橋文雄『測る山、鳴る谷、黙る森』北信評論社, 1986, pp. 77-120.
- ^ 日本測候器具協会編『鈴音予報をめぐる通達集』第2巻第1号, 1959, pp. 1-14.
外部リンク
- 信州民間気象史データベース
- 山村器具アーカイブ
- 阿智村近代技術資料館
- 霧鐘研究会速報
- 中央高地同人誌目録