植野裕司
| 氏名 | 植野 裕司 |
|---|---|
| ふりがな | うえの ゆうじ |
| 生年月日 | 6月18日 |
| 出生地 | |
| 没年月日 | 11月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗音響研究者(フィールド・レコーディング学) |
| 活動期間 | 1947年 - 1987年 |
| 主な業績 | 『環曲採音法』の体系化/自治体向け音景図の開発 |
| 受賞歴 | 文化財音響賞、学術振興金団賞 |
植野 裕司(うえの ゆうじ、 - )は、の民俗音響研究者である。音の記憶を“地図化”する手法で後半の文化政策に影響した人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
植野裕司は、生活音や儀礼の反響など、人が“聴いて覚える”現象を研究対象として整備しようとした人物である。特に、録音物を単なる証拠ではなく、地域の判断装置として扱う姿勢が評価され、文化財行政の現場にまで波及したとされる[2]。
植野はで生まれ、戦後の復興期に各地の工房・寺社・路地裏を巡って記録を進めた。のちに彼は「音景は地図と同じ精度で管理できる」と主張し、音響データに“方位と時間”を必ず付与する作法を広めたとされる[3]。この発想は、後にの文化政策で「保存するべき沈黙」まで含めて議論されるようになった背景として言及されることがある。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
植野はの造船下請け職の家庭に生まれ、幼少期から船着き場の反響に強い関心を持ったとされる[4]。家の裏には鉄板の小屋があり、雨が降ると音が“段差”のように折り返すのが不思議だったと、後年の回想で語っている。
小学校では、先生が算数の宿題を読む声を一定距離で録り、聞こえるズレを“分数”に直す遊びをしていたという。植野自身が残したノートには「距離1.8mで / 音の遅れは0.17秒」という書き込みがあり、当時としては異様に具体的であると評された[5]。
青年期[編集]
半ば、植野は進学のためにの寄宿舎へ移った。そこで彼は、隣室に届くラジオの周波数が夜間だけ変調する現象を観察し、「電波の気分」という表現で友人に説明したとされる[6]。
彼はの民間研究会で初めて“環曲”という概念に触れた。環曲とは、音が反射を繰り返して元の方向へ戻ってくる軌跡を、円弧の連なりとして扱う考え方である。植野は当時の文献として、実在する可能性のある架空のパンフレット『音の折り目(改訂版)』を引用したが、その所在は長らく不明だったとされる[7]。
活動期[編集]
植野の本格的活動はの野外採音から始まったとされる。彼は「半径500m以内の音を一晩で採り切る」という計画を立て、初回の記録には全録音時間として「8時間14分49秒」が刻まれている[8]。さらに、寺社の鐘については、打ち手の距離を7段階に分けて比較し、同じ“音色”でも身体の位置により減衰率が変わることを報告した。
また、彼は向けに“音景図(おとけいず)”と呼ばれる図面を試作した。そこでは、単に録音地点を示すのではなく、「住民が不安を覚える周波数帯」「子どもが遊びに使う反響点」「祭礼の前夜だけ増える無音領域」といった項目が色分けされていたと伝えられる[9]。この分類は、行政の担当者にとって理解しやすい一方で、学術側からは“主観の混入”が疑われた。
晩年と死去[編集]
晩年の植野は研究者というより編集者のような役割を担い、各地の音響資料を“再演できる形”に整える作業に取り組んだ。彼はとくに、テープの劣化による聴き違いを防ぐために「記録の翌年に必ず同条件で聞き直す」ルールを提案したとされる[10]。
に第一線から退き、その後は講演活動のみを続けた。植野は11月3日、で死去したと伝えられる[11]。死因については公表資料では触れられず、弟子の手記では「夜の港の静けさが急に重くなった」と比喩的に記されたという。
人物[編集]
植野は理系の几帳面さと、民俗への好奇心が同居した人物として描かれる。彼のノートは図が多く、周辺の環境音を“天気の変化”ではなく“感情の温度”として記述する癖があったとされる[12]。
逸話として有名なのは、彼が取材中に一度も怒鳴らず、代わりに「今の反響は角度が違う」とだけ言って録音機の位置を直した場面である。現場の人々は最初こそ不審がったが、正確な再採音ができると分かると、むしろ協力的になったという。
一方で、植野は自分の成果に対しても過剰に厳しかったとされる。彼は学会発表の前日に“元の録音が1回だけノイズを含む”ことを見つけ、発表用原稿を全文書き換えた。その際、変更箇所が「合計37か所」であったと記録されている[13]。
業績・作品[編集]
植野の代表的業績は、フィールド録音を分析用データへ変換する一連の手法「」の体系化である。環曲採音法では、録音の直後に必ず“身体座標”を記し、音を方位磁針のように扱うことが求められるとした[14]。
主要著作としては『音景の折り目:採音と再演の技術』()、『沈黙を保存する:自治体運用のための指針』()、そして『反響の倫理』()が挙げられる。とくに『沈黙を保存する』は、祭礼の開始前に存在する「無音が増える時間帯」を行政の保全対象に含める提案をしたとして話題になった[15]。
また、植野は「世界で初めて」などの宣伝文句を嫌ったとされるが、弟子の一人が冗談半分で『音景図:第0版』という冊子を作り、印刷部数が「173部」と記されていた。なぜその数なのかは不明であるが、植野が“音のサンプル数は偶数であるべき”と主張していたことから、17×3×2で概算したのではないか、という推測がある[16]。
後世の評価[編集]
植野は後年、「音を記録するのではなく、音を“運用”しようとした研究者」として評価されている。特にに対する音景図の導入は、文化財の保存計画における議論を“景観”から“音の時間構造”へ広げた点が注目されたとされる[17]。
一方で批判も存在する。研究者の中には、音景図が行政に適合しすぎた結果、研究の独自性が薄れたと見る者がいる。また、植野が提唱した“無音の保全”は、観測の再現性が難しいとして学術雑誌でも疑問が呈されたとされる[18]。
評価の揺れはあるものの、植野の方法論は現場の実務家にとって便利だったとされ、のちの音響アーカイブ手順の基礎になったという言及もある。さらに、死後に出版された弟子たちの編『植野音響集成:方位と時間の編集学』()では、環曲採音法の原資料がまとめ直されたとされる[19]。
系譜・家族[編集]
植野裕司の家族関係は記録が少ないとされるが、本人の履歴書には「実家はで船具の修理を継ぐ」とだけ書かれていたと伝えられる[20]。兄が一人いたとされるが、兄の名前は公的資料に残らず、弟子の手記でのみ“弘”の一文字が登場する。
植野は晩年、研究助手であった在住の「塚田真理子」との共同編集を続けたとされる。二人の関係は公式には同僚とされるが、ある追悼文では「植野が音に向かうとき、真理子は時間に向かっていた」と比喩されている[21]。
また、彼が死去した翌年のに、弟子の団体が「環曲採音法保存会」を立ち上げた。その会則には家族条項が含まれ、遺族の同意の形式が“録音テープへの署名”として定義されていたという。こうした細部は、植野の思想が研究と家族の境界すら曖昧にしたことを示すものとして語られることがある[22]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 植野裕司「環曲採音法の基礎:方位座標による再採音」『音響民俗研究』第12巻第3号, pp.21-48, 1970.
- ^ 植野裕司「沈黙を保存する:自治体運用のための指針」『文化政策レビュー』Vol.4 No.1, pp.1-33, 1978.
- ^ Margaret A. Thornton「Sound Cartography and Local Memory in Postwar Japan」『Journal of Ethnomusicological Methods』Vol.18 No.2, pp.77-112, 1986.
- ^ 佐世保市教育委員会「植野裕司関係資料目録(暫定)」『佐世保市文書綴』第9号, pp.3-59, 1991.
- ^ 塚田真理子「再演可能な録音の条件:環曲採音法の編集手順」『フィールド・レコーディング技術誌』第2巻第4号, pp.10-26, 1989.
- ^ 中村雅彦「音景図の行政導入とその限界」『地域文化行政論集』第7巻第1号, pp.45-68, 1982.
- ^ 『植野音響集成:方位と時間の編集学』編集委員会編, pp.1-510, 1994.
- ^ 岡田緑「反響の倫理と再採音頻度」『アーカイブ倫理研究』Vol.6 No.3, pp.201-230, 1998.
- ^ 角田信彦「無音領域の観測誤差:要出典問題」『計測民俗学』第3巻第2号, pp.88-94, 1979.
- ^ César L. Moreau「On the Geometry of Echo Paths」『Proceedings of the International Acoustics Society』Vol.33 No.1, pp.9-17, 1969.
外部リンク
- 音景図アーカイブセンター
- 環曲採音法保存会
- 佐世保市 旧港資料室
- 文化財音響賞 受賞者一覧
- フィールド録音研究フォーラム