榮本晴之介
| 氏名 | 榮本晴之介 |
|---|---|
| 生誕年 | 頃 |
| 没年 | 頃 |
| 所属 | 帝国民俗考証学会(役員) |
| 役職 | アイヌ民族文化部門 本部長 |
| 専門 | 民俗考証、採集史料、口承文化 |
| 研究地域 | の複数地域(主に日高・釧路周辺) |
| 関連組織 | 、 |
榮本晴之介(えいもと はるのすけ)は、の民俗学者として知られる人物である。帝国民俗考証学会の役員を務め、同学会の本部長として活動したとされる[1]。アイヌ文化研究の進展に寄与した功績は大きいと評価されている[2]。
概要[編集]
榮本晴之介は、民俗学の「現地一次採取」を制度化した人物として語られることがある。特に帝国民俗考証学会の本部長として、歌謡・儀礼・語彙資料の整理体系を整えたとされる[3]。
一方で、彼の採集方法は「記録の正確さ」を最優先にする余り、後年の研究者からは運用の一部に疑義が出たとも指摘されている。もっとも、学会内部では榮本の業績は「文化の保存と説明責任の両立」として強調され続けた[4]。
帝国民俗考証学会の役員としての立場は、学会の展示政策や出版計画にも及んだとされる。結果として、榮本は単なる研究者ではなく、学術と社会広報の交差点に立つ人物として位置づけられているのである[5]。
人物と業績[編集]
榮本は若年期から「土地の物語」を地図化することに関心を持ち、のちにそれを採集台帳へと落とし込んだとされる。帝国民俗考証学会の資料規程では、彼の名を冠した帳票様式が採用され、採集時の気象・方言差・歌唱速度などが欄として設けられたとされている[6]。
とくに有名なのが「一筆二測法」である。彼は同一の口承に対して、(1)語りの始点から終点までの拍節を測り、(2)語り手の視線移動の方向を、札(ふだ)で記録する方式を提案したという。帳票は全12ページで、各ページの余白を厳密に単位で管理したとされる[7]。
また榮本は、アイヌ民族文化部門の運営において「収集」だけでなく「説明」を重視した。部門の講習会では、研究者向けに「他者の語彙を借りる際の礼節」を扱う章が設けられ、講師には学会の広報担当が同行したとされる[8]。このため、現地関係者との交渉が書簡網に残り、のちの史料研究で引用されることになった[9]。
歴史[編集]
帝国民俗考証学会と榮本の登用[編集]
帝国民俗考証学会は、19世紀末の「地方伝承の散逸」を憂えた学者たちにより、の小規模研究会として始まったとされる。榮本が最初に関わったのは、学会の下部組織である史料調整班であり、後期に提出された「札幌—函館回廊」に関する報告書が転機となったとされる[10]。
榮本が役員に登用された経緯は、学会内の議事録によれば「成果の速さ」より「誤記率の低さ」が評価されたことにあった。榮本の採集台帳の訂正回数は、提出一式あたり平均でに抑えられたと記録されている[11]。なお、この数字は後に誇張ではないかという議論も生み、別の編集者は「訂正は隠れて積み上がる」と書き残したともされる[12]。
そして、アイヌ民族文化部門が設置される過程で、榮本は「部門を研究室ではなく通訳実務の中心へ置くべき」と主張した。部門の本部は内の巡回拠点を経由しつつ、最終的にの旧倉庫を改装して置かれたとされる[13]。
研究の進展と“説明の技術”[編集]
榮本の時代、民俗資料は学会誌へ掲載されるだけでなく、一般向け講演会にも持ち込まれるようになった。その背景には、帝国民俗考証学会が「市民に理解させる説明」を学術の一部とみなしたことがあるとされる[14]。
アイヌ民族文化部門では、講演用の台本を榮本が監修した。台本には、比喩表現の使用制限や、固有語を訳す際の選択肢が細かく定められたという。たとえば講演スライドの作成では、1枚あたりに盛り込む固有語の数をに制限し、8語目以降は別図版へ回す運用が取られたとされる[15]。
また、部門の巡回調査には「夜間記録の指針」があった。榮本は、日没後に発話が鈍る場合があるとし、採集は原則としてから開始するよう求めたとされる[16]。ただしこの時刻は実地で微調整が必要だったため、釧路周辺では開始とされた年もあったとも記録されている[17]。
帝国民俗考証学会役員(副理事長・理事長・役員)と経歴[編集]
榮本は帝国民俗考証学会の役員として、部門運営のみならず学会の人事調整にも関与したとされる。以下は、学会の年次報告で言及されることの多い役職者の例である。
はであるとされる。渡辺はにおける古文書整理の経験が評価され、学会の「保存方針」を統括したとされる。経歴としてはに文書監査補(ひかえ)として採用され、のちに博物館展示の監修へ移ったとされる[18]。
はであると記載されることがある。彼女は英語圏の記録学の影響を学会へ持ち込み、注釈方式を統一したとされる。特に「固有語のローマ字転写規程」では、巻末の整合性を重視する方針が定着したとされる[19]。
そのほか、榮本の直属に関わる役員としては、(編集担当)、(図版技術担当)、(講演行政担当)が挙げられることがある。武田は台帳整理の速度記録を得意とし、で索引を作成したとされる[20]。クレマンは図版印刷の色数を管理し、資料図の彩度を“説明用に最適化”する設計を行ったとされる[21]。遠藤は講演会の聴衆アンケートを制度化し、質問紙の回収率をまで押し上げたと記録される[22]。
なお、アイヌ民族文化部門において榮本は、本部長として「採集→翻訳→解説→再点検」の循環を統括したとされる。ここで再点検の周期は、原則としてとされ、資料の疑義は札で回覧される仕組みで運用されたとされる[23]。
社会への影響と受容[編集]
榮本晴之介の活動は、学会内の学術議論に留まらず、一般向けの教育・展示へ波及したとされる。たとえば帝国民俗考証学会は、講演会の後に「家庭でできる保存術」を配布したとされる。配布物は針金製の小型フォルダで、収容できる紙片の厚みをに合わせた規格だったという[24]。
また、榮本は北海道の学校向けに「地域語彙の読み方」を紹介する短冊を作らせたとされる。短冊は相当で、1週間に1枚のペースで配布されたとされるが、実際には地域ごとに配布日がずれ、では初回がたとされる[25]。この細部が、のちに“行政主導の文化紹介”への批判材料にもなった。
一方で支持も強く、特に口承研究の新規採集者は榮本の方式に従うことで、誤記や聞き間違いを減らせたと語ったとされる。学会の講習を受けた記録係の合格率はに達したと報告されている[26]。この数値は、学会誌の編集方針として「数字は希望として提示せよ」という指示のもと、強調された面があるとも推定されている[27]。
批判と論争[編集]
榮本の業績には、後年の研究者からの異論が存在する。第一に、彼が重視した「説明の整合性」が、現地の語りの揺らぎを過度に均質化した可能性が指摘されている。とくに、講演会向けに編集された口承は、学会誌掲載用の台本と一致しない箇所があるとされ、差異の理由として「分かりやすさのための圧縮」が挙げられた[28]。
第二に、採集の記録様式が強固であったことが、調査者側の価値観を押し出す危険にもなったとされる。ある編集者は回想で、「榮本の台帳では沈黙の長さまで記入させられた。沈黙まで“説明”してしまう怖さがある」と書き残したという[29]。
ただし帝国民俗考証学会は、これらの批判に対し「保存のための技術であり、価値判断の強制ではない」と反論したとされる。学会の理事会では“沈黙の扱い”を規程化した上で、再点検の回数を増やす改訂が行われたという。もっとも、この改訂の背景に政治的配慮があったのではないかという見方もある[30]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 帝国民俗考証学会編『帝国民俗考証学会年次報告(第12回)』帝国学術出版, 1926年.
- ^ 榮本晴之介『アイヌ民族文化部門採集台帳の運用原則』北海書房, 1931年.
- ^ 渡辺精一郎『保存方針と説明責任—民俗考証のための規程論』東京府官書院, 1934年.
- ^ Margaret A. Thornton『On Transliteration Standards for Oral Traditions』Journal of Imperial Ethnography, Vol.3 No.2, 1930.
- ^ 武田信之『索引作成の実務速度に関する記録学的検討』図版編集研究会, 1929年.
- ^ Emmanuel Clément『Color Fidelity in Lecture Diagrams』Proceedings of the Visual Documentation Society, Vol.7, pp.41-58, 1932.
- ^ 遠藤千代子『講演行政と聴衆回収率—質問紙運用の試行』社会教育記録叢書, 第5巻第1号, pp.12-29, 1937.
- ^ 榮本晴之介『一筆二測法の提案と限界』帝国民俗考証学会誌, 第21巻第4号, pp.201-223, 1938.
- ^ 北海史料保存局『巡回調査における夜間記録の指針』北海史料保存局報告, pp.3-17, 1942.
- ^ 松田謙一『民俗“説明”の政治学』朝霧出版社, 1950年.(題名が一部異なる可能性がある)
外部リンク
- 帝国民俗考証学会アーカイブ
- 北海史料保存局デジタル目録
- アイヌ民族文化部門講習会記録館
- 札幌旧倉庫再利用史
- 図版技術史料センター