横浜北部製鉄所
| 正式名称 | 横浜北部製鉄所 |
|---|---|
| 旧称 | 国有港北製鉄所 |
| 所在地 | 神奈川県横浜市港北丘陵工業地帯 |
| 操業開始 | 1912年 |
| 閉鎖 | 1987年 |
| 所有者 | 大蔵省国有工業局 |
| 主要製品 | 軌条、鋼板、橋梁用梁材 |
| 代表技術 | 湾岸熱風炉方式 |
| 敷地面積 | 約214ヘクタール |
| 従業員数 | 最盛期約8,600人 |
横浜北部製鉄所(よこはまほくぶせいてつしょ、英: Yokohama Northern Ironworks)は、北部に設けられたとされる官営の製鉄拠点であり、旧称はである[1]。港湾用鋼材と軌条の量産に加え、のちに「湾岸熱風炉方式」の発祥地として知られる。
概要[編集]
横浜北部製鉄所は、末期から後期にかけて存在したとされる国有製鉄所である。横浜港の外港化に伴い、の補助生産拠点として建設され、沿線の住宅地拡大と港湾荷役の近代化を同時に支えたとされる[2]。
同所は、一般にはやの大型製鉄所に比べて知名度が低いが、旧港北町域の地形を利用した「斜面高炉配置」で知られ、冬季の北風を炉前換気に転用したという奇妙な工夫が語り継がれている。なお、の設備拡張後に導入された「二重送風塔」は、当時の工業雑誌で“やけに静かな高炉”として評判になったとされる[3]。
歴史[編集]
建設の経緯[編集]
起源は、の港湾貨物鉄道計画に付随して立案された「鉄材自給化試験場」であるとされる。計画はへ移管され、のちに国有港北製鉄所として着工されたが、実際には用地買収の途中で周辺の湧水帯にぶつかり、基礎杭を1,420本追加したという記録が残る[4]。
建設主任のは、イギリス式高炉をそのまま導入する案に反対し、「海風を受けてこそ横浜の鉄は締まる」と主張した人物として知られる。彼の案により、炉体は通常より17度だけ港側へ傾けられたが、これが後年まで“港に頭を下げる高炉”と揶揄された。
最盛期[編集]
からにかけては、年間粗鋼生産量が82万トン前後に達し、経由で搬出される軌条が向けに優先配分されたとされる。この時期、夜勤交代の合図としてサイレンではなく汽笛の長短三連打が用いられ、近隣の学校ではそれをもとに「製鉄所時報」が時計代わりにされたという。
一方で、の省令改正により、鋼板の一部は防空壕の補強材へ転用され、工場内では“工場が地下へ沈むより先に街が沈む”という標語が掲げられたと伝わる。もっとも、これは後年の社史編集で誇張された可能性があると指摘されている[5]。
衰退と閉鎖[編集]
戦後はによる施設再編の影響で、以降は橋梁部材と小口径鋼管に限定して操業を続けたが、港湾の埋立進行と一帯の都市開発により、原料搬入路が慢性的に逼迫した。とくにの台風第12号では、コークス積出し用の桟橋が4.6メートル沈下し、復旧費だけで年間予算の3割を失ったとされる。
の閉鎖時、最終出荷されたのは「K-87型低反り鋼板」1,200枚で、うち12枚だけが記念刻印付きだった。これが地元の旧工員に配られた際、刻印の一部が逆向きであったため、現在でも“反転鋼板伝説”として半ば都市伝説化している。