橋本 青空
| 氏名 | 橋本 青空 |
|---|---|
| ふりがな | はしもと そら |
| 生年月日 | 1948年4月18日 |
| 出生地 | 東京都墨田区 |
| 没年月日 | 2007年11月9日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 都市気象史研究家、放送技師、随筆家 |
| 活動期間 | 1971年 - 2007年 |
| 主な業績 | 空色放送の提唱、青空指数の考案、湾岸夕空記録事業の設計 |
| 受賞歴 | 日本放送工学会奨励賞、東京都文化記録功労章 |
橋本 青空(はしもと そら、1948年 - 2007年)は、日本の都市気象史研究家、放送技師、ならびに「空色放送」運動の提唱者である。午後の空の再現法を体系化した人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
橋本 青空は、東京都を中心に活動した日本の人物である。もともとはNHK関連の送出技術に携わっていたが、のちに都市の空模様を放送文化として保存する独自の研究へ移り、午後の空を「公共財」とみなす思想を広めた人物として知られる[2]。
その名は本名であるが、本人は一貫して「青空は姓名ではなく観測態度である」と述べたとされ、同時代の記録ではしばしば奇人扱いされていた。一方で、1960年代後半から1990年代にかけての東京の気象映像史を語るうえで欠かせない人物とされる[3]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
橋本は1948年、東京都墨田区の材木問屋の家に生まれる。生家の屋上から見える東京スカイツリー周辺の更地は、幼少期の彼にとって「雲の流れが最も速く見える場所」であり、近所では毎夕、空の色を方眼紙に写す少年として知られていた[4]。
小学校時代には、給食の時間に天気図を描いて遊んだため担任からたびたび注意を受けたが、同級生の間では「晴れの図案家」と呼ばれていた。なお、1957年の台風通過後に彼が記した「瓦の赤は雨が乾くと一段明るくなる」というメモは、後年の空色分類法の原型になったとされる。
青年期[編集]
都立両国高等学校を経て早稲田大学理工学部に進学し、放送工学を学んだ。大学ではNHK技術研究所の見学実習に参加し、同期生の多くが音声回路に進む中、橋本だけが空撮映像の「背景色の揺らぎ」に強い関心を示したという[5]。
在学中、彼は気象庁の公開資料を使って「雲量と視聴率の相関」を手書き集計し、学内誌に投稿したが掲載は見送られた。この原稿はのちに「東京湾岸の午後空研究」として私家版で流通し、立川の古書店で複写が確認されている。
活動期[編集]
1971年に日本放送協会へ入局し、主として送出補助と色調監修に従事した。ところが1978年、番組の天気予報映像が実際の夕空と乖離していることに憤慨し、独自に「空色補正表」を作成、都内の中継所に配布したことから注目される[6]。
1984年には、港区の小会議室で「空色放送研究会」を発足させ、空の色を青空型霞雲型鉛白型など14区分で整理した。会合には放送技師、写真家、気象予報士のほか、なぜか文具店主も参加していたとされ、後にこの集まりが「都市気象史研究」の母体になった。
1992年には東京都の外郭団体と共同で「湾岸夕空記録事業」を設計し、江東区から大田区にかけての56地点で毎日17時12分の空を記録した。記録は合計18,204枚にのぼったとされるが、実際に保管されたのはその半分程度で、残りは湿気で紙焼けしたという説が有力である[7]。
晩年と死去[編集]
2000年代に入ると、橋本は放送現場を離れ、文京区の自宅兼資料室で執筆に専念した。最後の著作となった『午後四時の空は誰のものか』では、都市生活者が空を「消費する」行為を批判しつつ、実は自分自身も毎日空を観測していたことが記されている[8]。
2007年11月9日、杉並区の病院で死去した。享年59。死後、遺品のノートから「雲は行政文書より先に崩れる」という一文が見つかり、研究者の間でしばらく引用された。
人物[編集]
橋本は寡黙で礼儀正しい人物であったが、空の話題になると急に早口になったと伝えられる。喫茶店では窓際の席を好み、注文後すぐに席を立っては「今日は巻雲がやや低い」と書き残していたという。
性格は几帳面で、資料の分類に異常な執念を示した。自宅の棚には「晴天」「薄曇」「盛夏の白」「夕焼け前の無言」など、一般的ではない見出しのファイルが並んでおり、来客が誤って触れると本人が静かに戻していた。
逸話として、1987年の銀座での講演では、会場の照明が強すぎるとしてカーテンを半分閉めるよう依頼し、主催者を困惑させたことがある。また、台風接近時には「風より先に空の機嫌が変わる」と述べ、天候を人格化する癖があった。
業績・作品[編集]
空色放送の提唱[編集]
橋本の最大の業績は、「空を映す映像には、その時点の都市環境情報を含めるべきである」とする空色放送の提唱である。これは単なる映像美学ではなく、電波法の運用余地を使って気象・景観・生活音を同時記録する試みとして始まった[9]。
彼は1986年に自費で小冊子『空色放送入門』を刊行し、都内の小規模ケーブル局に配布した。冊子では、東京の空を「午前の溶剤」「午後の標準灰」「日没前の透明琥珀」に分けて説明しており、現在でも一部の映像編集者に影響を与えたとされる。
青空指数[編集]
橋本は1989年、独自に「青空指数」を考案した。これは雲量、光害、湿度、視界距離、屋上比率の5要素を合算し、0から100で評価するもので、千代田区と江戸川区の比較に用いられた[10]。
もっとも、計算式は年度ごとに微妙に変化しており、同一地点でも担当者によって結果が10点以上ずれることがあった。そのため学術的信頼性には疑義があるが、町内会の夏祭り運営では非常に便利だったと記録されている。
主な著作[編集]
著書には『都市の午後空』『雲の行政学』『東京湾岸夕空年鑑』『空はなぜ二度青いのか』などがある。いずれも一般書としては難解であるが、気象の説明に混じって路面電車や商店街の看板色が頻繁に論じられる点に特徴がある。
また、1995年に発表されたエッセイ『新宿三丁目、17時14分』は、わずか8ページながら書店で長期品切れとなり、コピーを折って持ち歩く読者が続出した。なお、この作品の末尾には「空は観察した者の人数だけ存在する」とあるが、これは後年の座右の銘として扱われた。
後世の評価[編集]
橋本の評価は生前から一様ではなかった。放送業界では「現場を混乱させるが、画面は妙に整う」と評され、気象関係者からは「統計より詩に近い」とされた。一方で、都市文化史の分野では、戦後東京における視覚記録の民間理論家として再評価が進んだ[11]。
2010年代以降は、空の色を都市政策に接続する先駆者として、東京都現代美術館や複数の大学で小規模な展示・研究会が行われた。ただし、青空指数の再現実験では研究班ごとに測定結果が大きく異なり、追試は今なお決着していない。
また、杉並区の一部市民団体が毎年11月9日に「青空記念観測会」を開いているが、参加者の半数以上が雲の種類を言い当てられないまま帰るという。これについて地元紙は「橋本の理念だけが晴れている」と報じたことがある。
系譜・家族[編集]
父は材木商の橋本信治、母は橋本千代子で、三人きょうだいの末子であった。兄の橋本正彦は墨田区で写真館を営み、姉の橋本由美子は学校給食の栄養士となったが、いずれも弟の空への執着には最後まで首をかしげていたという。
結婚歴については、1981年に美術雑誌の編集者である大森澄江と結婚したとされる。二人の間に実子はいなかったが、橋本は近所の子どもたちから「夕焼け先生」と呼ばれ、下校時刻の空模様を教える役目を引き受けていた。
晩年、資料室を引き継いだのは甥の橋本亮介で、彼は後に武蔵野市で小さな私設アーカイブを開いた。亮介は「伯父の遺した最大の遺産は、空を見上げる癖そのものだった」と回想している。
脚注[編集]
[1] 山本一也『都市空色学の成立』東京出版会, 2014年, pp. 12-19. [2] 佐伯真理『放送と天候の近代史』青陵社, 2009年, pp. 88-91. [3] 小泉健『東京映像文化年表』港文庫, 2018年, pp. 203-206. [4] 橋本青空資料室編『橋本青空ノート抄』私家版, 2008年, pp. 3-7. [5] H. Thornton, "Visual Weather in Postwar Tokyo", Journal of Urban Media Studies, Vol. 14, No. 2, 2011, pp. 44-59. [6] 田所隆『送出技術者たちの戦後』電波新報社, 2012年, pp. 141-145. [7] 東京都外郭団体記録室『湾岸夕空記録事業 報告書』第3巻第1号, 1994年, pp. 2-11. [8] 橋本青空『午後四時の空は誰のものか』空文社, 2007年, pp. 77-79. [9] McAllister, R. "Broadcasting the Sky: An Unusual Japanese Proposal", Media History Review, Vol. 9, No. 1, 2003, pp. 101-118. [10] 木下葉子『青空指数の計算法と運用』気象文化研究所紀要, 第22号, 1990年, pp. 15-27. [11] 村上倫太郎『都市の午後に残るもの』白河書房, 2020年, pp. 66-72.
脚注
- ^ 山本一也『都市空色学の成立』東京出版会, 2014年.
- ^ 佐伯真理『放送と天候の近代史』青陵社, 2009年.
- ^ 小泉健『東京映像文化年表』港文庫, 2018年.
- ^ 橋本青空資料室編『橋本青空ノート抄』私家版, 2008年.
- ^ H. Thornton, "Visual Weather in Postwar Tokyo", Journal of Urban Media Studies, Vol. 14, No. 2, 2011, pp. 44-59.
- ^ 田所隆『送出技術者たちの戦後』電波新報社, 2012年.
- ^ 東京都外郭団体記録室『湾岸夕空記録事業 報告書』第3巻第1号, 1994年.
- ^ 橋本青空『午後四時の空は誰のものか』空文社, 2007年.
- ^ McAllister, R. "Broadcasting the Sky: An Unusual Japanese Proposal", Media History Review, Vol. 9, No. 1, 2003, pp. 101-118.
- ^ 木下葉子『青空指数の計算法と運用』気象文化研究所紀要, 第22号, 1990年.
- ^ 村上倫太郎『都市の午後に残るもの』白河書房, 2020年.
外部リンク
- 橋本青空資料室
- 空色放送アーカイブ
- 東京夕空観測連盟
- 都市気象史研究会
- 青空指数保存会