殺人我孫子
| 別名 | Abiko Murder Code |
|---|---|
| 起源 | 1968年頃 |
| 発祥地 | 千葉県我孫子市・手賀沼周辺 |
| 使用圏 | 首都圏の鉄道沿線、学生運動圏、深夜ラジオ圏 |
| 分類 | 警告文、擬似事件名、伝言ゲーム |
| 初出資料 | 『東葛地方民間語彙集』 |
| 関連機関 | 国立民俗資料館、関東私鉄文化研究会 |
| 特徴 | 地名を含むが、実在事件名ではなく語用論上の符号とされる |
殺人我孫子(さつじんあびこ)は、を中心に発達したとされる、架空の都市伝承および暗号化された警告文の一種である。もともとは後期の鉄道利用者の間で用いられた隠語で、後に・の周縁で研究対象となったとされる[1]。
概要[編集]
殺人我孫子は、実在の名を冠しながら、事件そのものを指すのではなく、「近づくな」「巻き込まれるな」といった回避命令を婉曲に表した表現であるとされる。とくに沿線の若者文化の中では、危険な出来事を直接言及せず、地名を組み合わせて不穏さだけを残す話法として流布したという。
この語が注目されたのは、1974年にが行った聞き取り調査で、同一表現が学生寮、深夜喫茶、工場の夜勤詰所の三系統からほぼ同時に報告されたためである。もっとも、報告書には「用例が多義的すぎる」との注記があり、研究者のあいだでは「事件名に見せかけた流行語」であったとする説が有力である[2]。
起源[編集]
手賀沼岸の録音カセット説[編集]
最も広く知られる説では、夏、沿いの釣具店で流れていた盗聴防止用の注意放送が、雑音混じりに「……殺人、我孫子……」と聞こえたことが起源とされる。これを聞いたの放送部員が、危険を意味する符牒として友人間で使い始めたという。
この逸話は一見すると荒唐無稽であるが、1981年にへ寄贈されたカセットテープのラベルに、赤鉛筆で「S・A = さつじんあびこ」と書かれていたことから、半ば裏付けられた形になった。ただし音声の中身は消失しており、いまなお「誰が何を録音したのか」は不明である。
鉄道事故回避用の隠語説[編集]
別の説では、の運転士や車掌が、非常停止や人身事故の恐れがある区間を示すために用いた内部表現が、一般客の耳に入り拡散したとされる。とくにの夜間改札では、巡回中の駅員同士が「今日は殺人我孫子か」と囁く慣行があったという証言が残る。
この説の根拠とされるのが、1984年にが公表した資料である。資料では、駅務日誌に「A地点、要注意」の代わりとして「SA」とのみ記す癖が見られ、後年の研究者がこれを「殺人我孫子」の略記と解釈した。しかし略記の真偽については議論が続いている[3]。
社会への浸透[編集]
1970年代後半になると、この語は北西部の高校生のあいだで、テスト勉強の断念や部活サボりの言い訳としても用いられた。たとえば「今夜は殺人我孫子だから帰る」と言えば、家庭の事情ではなく、外出そのものが危険であるという演出ができたのである。
また、の深夜ラジオ番組『ナイト・コモンズ』では、ハガキ職人が「殺人我孫子」という語を妙に気に入って連呼したことで、1982年の月間投稿数が通常の1.7倍に跳ね上がったとされる。番組側は当初これを禁止語に近い扱いにしたが、むしろ視聴者の好奇心を刺激し、意味を知らないまま使う若者が増えたと記録されている。
なお、やの一部では、これを実在の地名を含む呪文のように誤解し、「言ってはいけない駅名」として語られた例もある。結果として、地名自体の不気味さが独り歩きし、我孫子は一時期「降りると何かが始まる駅」として半ば観光資源化した。
研究と分類[編集]
語用論上の「擬似事件名」[編集]
の言語社会学ゼミでは、殺人我孫子は「擬似事件名」に分類されている。これは、実際の事件を指さずに事件らしさだけを纏わせる表現であり、昭和期の新聞見出し文化と、都市伝承の誇張表現が結びついて生じたと説明される。
ゼミの記録によれば、被験者37名のうち29名が、初見で「実際の殺人事件の通称」だと回答したという。ところが、意味説明後に再調査すると、18名が「むしろ駅名として怖い」と答え、研究者は「意味より響きが先行する語」であると結論づけた。
民俗学における位置づけ[編集]
では、殺人我孫子は「現代の口承呪術」に近いものと見る立場がある。とくに、具体的な加害対象を示さず、不穏な地名を添えるだけで集団の緊張を作る点が重視される。
1979年のシンポジウム『都市とこわさ』では、発表者の一人が「これは昭和のホラーではなく、通勤圏の防衛本能である」と述べたと伝えられる。この発言は後にしばしば引用されたが、議事録の該当ページには鉛筆書きで「やや言い過ぎ」とだけ残されている。
批判と論争[編集]
一部の研究者は、殺人我孫子の起源をめぐる諸説がいずれも後年の創作である可能性を指摘している。とくに、のカセットテープや駅務日誌の写しは、いずれも原本確認ができず、複写の複写が流通した痕跡しかないためである。
一方で、地元の聞き取りでは「確かにそう呼んでいた」とする高齢者が毎回一定数現れるため、完全な捏造とも言い切れない。なお、1993年の文化講演会では、講師が誤ってこの語を実在事件として紹介し、翌週の市報で「事実確認を要する」と訂正された。これが逆に語の知名度を押し上げたとされる。
現代における扱い[編集]
インターネット時代に入ると、殺人我孫子は怪談掲示板や鉄道趣味の古参サイトで再発見され、地域ネタと不可解語の境界にある素材として消費された。2008年頃には、検索結果の上位が「本当の事件ですか」という質問と「いや違う」という回答で埋まり、語そのものよりも否定の連鎖が注目された。
また、以降は短い不穏語としてSNSのミーム化が進み、実際には何も起きていないのに「殺人我孫子が発動した」などと書く用法が一部で流行した。これは、危機感をユーモアで処理する現代的な使い方とされるが、地元の広報担当者は「観光PRに使いづらい」とぼやいているという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯隆一『東葛地方民間語彙集』関東文化出版, 1983.
- ^ Margaret A. Thornton, “Pseudo-Event Names in Postwar Japanese Suburban Speech,” Journal of Urban Folklore, Vol. 12, No. 3, 1991, pp. 44-61.
- ^ 渡辺精一郎『昭和駅務隠語考』私家版研究会, 1978.
- ^ 松浦夏子『不穏語の地理学』筑摩書房, 1998.
- ^ Kenji Hoshino, “Abi-ko as Warning Signal: Oral Transmission on the Joban Line,” Railway Semantics Review, Vol. 5, No. 1, 1986, pp. 9-27.
- ^ 高橋和彦『都市伝承と駅名の恐怖』岩波現代選書, 2004.
- ^ 青山由紀『深夜放送と若者語の変容』NHK出版, 2011.
- ^ N. R. Feldman, “The Sound of Place Names: Fear, Rhythm, and Mishearing,” Comparative Paralogistics, Vol. 8, No. 2, 2002, pp. 101-119.
- ^ 『千葉県立文書館紀要』第14巻第2号, 「手賀沼周辺の口承資料再検討」, pp. 3-18, 1995.
- ^ 小笠原誠『殺人我孫子研究序説』ぎょうせい, 2007.
- ^ 『ナイト・コモンズ台本集 1982年度版』東都放送資料室, 1983.
外部リンク
- 国立民俗資料館デジタルアーカイブ
- 関東私鉄文化研究会
- 東葛地方語彙データベース
- 我孫子市郷土怪異史料室
- 深夜放送文化研究フォーラム