民議院
| 名称 | 民議院 |
|---|---|
| 通称 | 民院、輪番院 |
| 成立 | 1897年ごろ |
| 提唱者 | エミール・レーマン |
| 主な機能 | 条例案の公開審議、予算の公開修正、住民請願の採否 |
| 選出方法 | 抽選、職能別名簿、地域輪番 |
| 管轄例 | 都市区、港湾区、炭鉱町、学園都市 |
| 関連法制 | 共同自治章典、輪番議事規則 |
(みんぎいん、英: Min-Giin)は、が抽選と輪番制によって選ばれ、地域の条例案や予算案を審議するとされた機関である。ので、都市衛生の失敗を受けて構想されたのが起源とされる[1]。
概要[編集]
は、議員を選挙で争わせるのではなく、一定年齢以上の住民から無作為抽出し、さらに職能団体と町内組織の推薦を組み合わせて構成する制度である。発足当初はの小都市で試験導入されたとされるが、実際にはの衛生委員会に付属する討議室が原型であったとする説が有力である[2]。
この制度は、道路、上下水道、学区再編など、専門家だけでは決め切れないが、住民の不満が大きい政策を扱う場として発展した。なお、初期の民議院では発言回数が「一人三回まで」に制限され、四回目の発言を試みた者は議長席の脇に置かれた砂時計を裏返されて黙らされたと伝えられる[3]。
成立の経緯[編集]
衛生危機と抽選委員会[編集]
民議院の直接の契機は、からにかけて一帯で発生したコレラ流行であるとされる。とりわけ近郊の工業地区では、浄水場の配置をめぐり市議会が18か月にわたって紛糾し、記録上は47回の会合が開かれたが、決定は一つも出なかったという[4]。
これに業を煮やした公衆衛生学者は、議員を固定職業として扱うのではなく、一定期間だけ「臨時の共同代表」として招集すべきだと主張した。レーマンは、の図書館裏にあった市民講堂で「抽選された者こそが、最も説明を求める権利を持つ」と演説し、後年この文句が民議院の標語になったとされる[5]。
制度化と拡散[編集]
、で開かれた都市改良会議において、は正式な審議モデルとして採択された。ここで注目されたのは、議員数を奇数にしておくと採決が割れにくいという単純な工夫であり、当初は13人制、のちに27人制、さらに港湾都市では41人制が試された。
の流域では、倉庫火災対策をめぐる対立の調停に使われ、では港湾労働者と商工会議所の間の賃金調整に用いられた。制度の輸出先では、しばしば「議会より速いが、裁判より遅い」と評され、これは民議院の性格を端的に示す格言として定着した[6]。
制度設計[編集]
抽選と輪番の二重構造[編集]
民議院の最大の特徴は、完全な抽選でも完全な選挙でもない、二重構造にある。まず各地区の住民台帳から候補者を1,200人単位で抽出し、その後、年齢、職能、居住年数の3条件で再配列して、最終的に24人前後が選ばれる仕組みであった。制度設計者たちは、これを「偶然の偏りを行政が整える技術」と呼んだ。
一方で、抽選に当たった者が辞退する率は初年度で38.4%に達し、特に、、の辞退が多かったと記録されている。理由は、会期中に市内の同業組合から「発言の際に職能の代表として話すように」と暗黙の圧力がかかるためであり、この点は制度初期からの弱点として指摘されていた[7]。
議事規則と沈黙税[編集]
民議院では、発言時間を管理するために「沈黙税」と呼ばれる独特の罰則が導入された。これは遅延発言一回につき2シュタールを徴収する仕組みで、集められた資金は議場の換気装置の整備に充てられたという。
また、議案は原則として3回の修正を経て採決に付されるが、同じ議案が4回目に差し戻された場合、議長は木槌ではなく青いベルを鳴らす慣例があった。これはの造船所で使われていた信号器具を模したもので、議場の空気を「港の作業場に近づける」ためであったとされる。なお、この慣習は後に「ベルの政治」と揶揄された[8]。
各地の民議院[編集]
都市型民議院[編集]
、、などの都市では、民議院は主に生活インフラの配分機関として機能した。特にの民議院は、路面電車の終電時刻をめぐる論争を7晩連続で扱い、最終日に一人の靴職人が「時計を止めるより、人間が先に帰るべきだ」と述べて採択がまとまったとされる。
都市型では、発言能力よりも会議への継続出席が重視され、欠席が3回続くと自動的に補欠へ回される。これにより、議論が長引いても一定の新陳代謝が保たれたが、逆に同じ顔ぶれが2年で4度も戻ってくる例もあったため、住民の間では「回転扉のような議会」と皮肉られた[9]。
港湾型民議院[編集]
港湾都市では、輸出入の遅延と労働争議を調停する役割が強かった。では、燻製ニシンの検疫基準をめぐって民議院が特別会期を開き、議長が魚市場の匂いに耐えかねて換気装置の増設を即日決裁したという逸話が残る。
に導入されたとされる港湾型では、外国船籍の入港順位を決めるために、議員が潮位表を見ながら審議した。もっとも、台風接近時には採決より避難誘導が優先され、実際のところ議場より岸壁のほうが政治的意味を持つ日が多かったと評される[10]。
学園都市と民議院[編集]
やのような学園都市では、学生・教員・商店主を混在させた「三層民議院」が試験された。ここでは学費、下宿料、冬季暖房費が主題となり、若年層の過半数が初回会期で眠ってしまうことから、椅子に薄い木板を敷いて姿勢を保たせる工夫が考案された。
この学園都市型が後年の住民討議会の原型になったとされる一方、講義の空き時間に議員経験者が増殖してしまい、結果として「討議に強いが現実に弱い人材」が大量に育ったという批判もある[11]。
社会的影響[編集]
民議院は、選挙の勝敗ではなく熟議の記録を重視する政治文化を広めたとされる。これにより、前半の一部都市では、街灯の増設率が12%上昇し、下水管の交換周期が平均4.6年短縮されたという統計が残るが、同時に会議の長文化で市役所職員の残業時間も急増した[12]。
また、民議院は「自分の意見が通らなくても、経過を読めば納得できる」ことを政治の技術として可視化した点で評価された。しかし、抽選で選ばれた住民が翌年に地域の顔役として扱われるようになり、結局は別種の名士制を再生産しているだけではないか、との批判も根強い。とくにの会期では、同一議員が3日連続で同じフランス語の慣用句を言い間違え、その訂正に12分を費やしたことが新聞で大きく取り上げられた。
批判と論争[編集]
民議院に対しては、初期から「無作為性の幻想」にすぎないという批判があった。抽選の母集団自体が住民台帳の整備度に左右されるため、移民労働者、賃貸居住者、季節労働者が構造的に過少代表になることが指摘されている[13]。
また、の会議では、議員の一人が審議中に記録係へ私的なパン屋の注文書を渡していたことが発覚し、これが「民議院買収事件」と呼ばれた。実害は小さかったが、以後、議場への持ち込み紙片が厳しく管理され、折りたたみメモの大きさまで規格化された。なお、規格外のメモは「政治的に危険な長さ」として没収されたという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ Émile Lehmann『Die Bürgerlotterie und ihre Ausschüsse』Keller Verlag, 1898.
- ^ Margaret A. Thornton, “Rotating Assemblies in Continental Municipal Reform,” Journal of Civic Studies, Vol. 12, No. 3, 1906, pp. 211-247.
- ^ 渡辺精一郎『都市衛生と民議院の成立』青潮社, 1911年.
- ^ H. R. Voss, “The Bell Rule in Public Deliberation,” Proceedings of the Royal Institute of Municipal Affairs, Vol. 4, No. 1, 1914, pp. 33-58.
- ^ アルベール・ドゥフール『港湾都市の合意形成』ミネルヴァ書房, 1922年.
- ^ C. M. Ellison『Civic Rotation and the Problem of Silence』Northbridge Press, 1927.
- ^ 佐伯冬馬『輪番議会の社会学』東欧堂, 1933年.
- ^ “Minutes of the Aachen Civic Hygiene Congress, 1897” in Municipal Records Quarterly, 第8巻第2号, pp. 90-119.
- ^ ジャンヌ・モレ『ブリュッセル会議録と民議院の実務』コルドバ出版, 1932年.
- ^ P. Legrand, “On the Representation of Absentees in Lottery Chambers,” Revue des Institutions Locales, Vol. 9, No. 4, 1935, pp. 401-430.
外部リンク
- 国際民議院研究協会
- 欧州共同自治アーカイブ
- 輪番議事規則デジタル館
- ブリュッセル市民討議史料庫
- 港湾自治研究ネットワーク