永田町24時間の攻防
| 名称 | 永田町24時間の攻防 |
|---|---|
| 正式名称 | 永田町庁舎周辺連続占拠事件 |
| 日付 | 1978年11月14日 - 11月15日 |
| 時間 | 約24時間 |
| 場所 | 東京都千代田区永田町一帯 |
| 座標 | 北緯35度40分48秒 / 東経139度44分20秒 |
| 概要 | 議事堂周辺の三か所が同時に占拠され、警察・議員秘書・報道陣を巻き込んだ立てこもり事件 |
| 標的 | 国会見学団、秘書課職員、搬入口警備班 |
| 手段 | 偽装電話回線、木箱、放送設備の占拠 |
| 犯人 | 単独犯とみられる男・藤堂修一 |
| 容疑 | 監禁、建造物侵入、威力業務妨害、銃刀法違反 |
| 動機 | 議事堂の『時間配分』への抗議とされる |
| 死亡 | 死者0名、負傷者7名、放送機材等に損害約2億4,000万円 |
永田町24時間の攻防(ながたちょうにじゅうよじかんのこうぼう)は、(53年)にので発生したである[1]。警察庁による正式名称は「永田町庁舎周辺連続占拠事件」とされ、通称では「24時間の攻防」と呼ばれる。
概要[編集]
本事件は、の三施設をほぼ同時に占拠した異例の事件として知られている。犯人は国会関連施設の「24時間稼働」を逆手に取り、議事運営の空白時間を可視化する目的で犯行に及んだと供述した。
事件当時、は周辺の、、旧分室をまたぐ形で封鎖を行い、記録上は一件の事件でありながら、実際には三地点のが連動していた点が特徴である。なお、当時の報道では「放送設備の占拠」よりも「秘書課の電話交換台が使えなくなったこと」が先に大きく扱われた[2]。
一方で、現場から押収されたメモには、犯人が独自に作成した「会議待機時間表」が含まれており、これが後年『永田町時間論』と呼ばれる奇妙な政治学説の出発点になったとする説がある。
背景[編集]
事件の背景には、50年代後半の心部における警備強化と、夜間の議員活動をめぐる過密な日程管理があったとされる。とくに永田町周辺では、深夜にもや報道各社の車両が出入りしており、犯人はこれを「国家が眠ることを拒んでいる場所」と記した[3]。
藤堂修一は、元・施設保守会社の契約職員で、の庁舎に出入りしていた経歴があった。彼は庁舎の時計修理を担当した際、各フロアの時計が3分から11分ずれていることに強い不満を示したとされ、以後「この国は法より先に時計を合わせるべきだ」という主張を周囲に繰り返していた。もっとも、この逸話はとされることが多い。
事件前日の夜、犯人は方面の古い交換機回線を迂回し、国会周辺の館内放送と電話保留音を同時に乗っ取る準備を整えていた。警備記録には、午前0時台に「誰もいないはずの搬入口から拍手のような音がした」との記述があり、当局はこれを機器共振による誤認として処理したが、後年の再調査では犯人が自作の打楽器を使っていた可能性も指摘されている。
経緯[編集]
発生[編集]
事件は(53年)午前9時17分ごろ、議事堂見学口付近で始まった。犯人は作業員を装って職員用通路に入り、まず館内の時計室を占拠したのち、放送設備室に移動し、館内アナウンスを「ただいま、国会は臨時休憩に入ります」と改変した。
その約18分後、別班としていたかのように北側搬入口でも騒動が発生し、側の警備員2名がした。警視庁は最初、単独の事案とみていたが、実際には内部の配線が各施設をまたいでいたため、現場は短時間で半径240メートルに拡張した。
膠着と解決[編集]
正午を過ぎると、犯人は議員秘書室に対して「午後の本会議を24時間延期せよ」と要求し、食糧としてカステラ5箱と牛乳12本を受け取った。要求内容は一見過激であるが、実際には『会議が延長されるならこちらも延長されるべきだ』という極端に事務的な思想に基づくもので、交渉担当者はこれを「怠惰ではなく、過密日程への抗議」と分析した。
午後8時頃、の特殊犯対応班が地下搬送路から接近したが、犯人は照明をすべて落とし、代わりに非常口ランプを使って「24」と「1」を交互に点滅させる示威行動を行った。これにより一時的に報道陣の一部が『意味不明だが印象は強い』と放送し、事件は全国ニュースへ拡大した。最終的には午前9時44分、犯人が自ら窓を開けて投降し、された。
捜査[編集]
捜査開始[編集]
は事件発生直後に特別捜査本部を設置し、延べ612名を動員した。捜査班は各所のとして、足跡、搬入口の工具、館内放送のテープ、そして犯人が残した「午前3時は議会がもっとも静かである」と書かれたメモを押収した。
また、事件の性質上、の扱いが一部で問題となったが、監禁状態が断続的に続いていたため、法曹関係者の間では「終了時刻をどこに置くか」で解釈が割れた。これにより、のちの刑事法ゼミで毎年取り上げられる定番題材となった。
遺留品[編集]
遺留品の中でも特異だったのは、国会構内の古い用紙を再利用した犯行計画図である。そこには「秘書→車寄せ→時計室→放送室→待機」という矢印が、極めて几帳面な字で記されていた。
さらに、犯人の靴底からはの地下配管工事で使われる白色チョークが検出され、これが庁舎の裏動線に長く出入りしていた証拠とみなされた。もっとも、靴底の砂粒がの海浜公園由来であるという鑑定もあり、犯人の行動範囲については最後まで一部不明のままであった。
被害者[編集]
被害者は、直接の身体被害を受けたと、心理的な圧迫を受けた国会見学団、ならびに深夜まで拘束された秘書課職員である。とくに見学団の中には、小学生28名と引率教員3名が含まれており、事件後しばらく「国会は夜になると静かに怒る場所だ」と証言したという。
負傷者は計7名で、うち4名は避難の際に階段で転倒したものである。いずれも軽傷とされたが、1名は事件後に「館内放送を聞くとカステラを思い出す」と語り、医療記録では軽度のトラウマ反応として整理された。
また、人的被害とは別に、交換機の停止により全国からの問い合わせ約4,800件が保留状態となったことが、行政機能への損害として大きく問題視された。
刑事裁判[編集]
初公判[編集]
(54年)、で初公判が開かれた。藤堂は内容をおおむね認めつつも、「私は建物を占拠したのではなく、時間の偏りを是正した」と述べ、を政治的抗議行為だと主張した。
検察側は、犯人が事前にに当たる折り畳みナイフを所持していたこと、ならびにが一貫していないことを挙げ、強い計画性を立証しようとした。一方、弁護側は精神鑑定を申請し、犯人には「時計の進みが遅いと激しい不安を覚える傾向」があると主張した。
第一審[編集]
第一審では、との成立は概ね認められたが、住民への直接危害がなかったことから、検察が求刑した12年に対し、判決は8年6月とされた。裁判長は判決理由で、「標的は人物ではなく、永田町の時間秩序そのものであった」と述べ、事件の異様さを印象づけた。
なお、判決文の末尾には、なぜか「本件は議事運営の遅延によって全国的注目を集めたが、時の流れ自体を止めることはできない」と記されており、法曹界では名文として引用されることがある。
最終弁論[編集]
控訴審での最終弁論では、弁護側が「犯人は国家に対する敵意ではなく、睡眠不足の象徴としての永田町を告発したにすぎない」と主張した。しかし、裁判所はこれを退け、占拠行為の継続時間、交渉の内容、現場での証言を総合し、原判決をおおむね維持した。
藤堂は最終意見陳述で「私は24時間を奪ったのではない。24時間が私を見捨てたのだ」と述べたとされるが、この発言は新聞ごとに表現が異なり、のちに半ば伝説化した。
影響・事件後[編集]
事件後、永田町周辺では警備手順が大幅に見直され、庁舎の時計はすべて同時刻に統一された。これにより、議事堂内の昼休み開始が従来より平均7分早まり、職員からは「事件の唯一の平和的成果」と評されたこともある。
また、全国の官庁で非常放送の文言が点検される契機となり、系の資料では「緊急時の口調を必要以上に冷静にしないこと」が注意事項として残された。事件の余波で、夜間の政治報道における「長時間拘束」や「朝まで協議」といった表現が一時的に増加したともいわれる。
一方で、犯人が主張した「会議待機時間の可視化」は後年、議員の拘束時間や官庁の残業実態を論じるシンポジウムで半ば正当化される形で引用され、結果として事件は末期の政治文化を象徴する奇妙なケースとして記憶された。
評価[編集]
法学者の間では、本事件は「政治的主張を伴うが、実務上は単純な庁舎占拠事件」として分類されることが多い。ただし、広報学・危機管理論の分野では、犯人が放送設備を通じて事件の『演出』を行った点が注目され、ニュース映像の編集手法にまで影響を与えたとされている。
もっとも、一般には『永田町の人質事件』としてよりも、『カステラで24時間もつはずがない事件』として記憶される傾向がある。これは当時の飲食提供記録と、犯人の過剰な時間感覚が結びついて語られたためであり、俗説ながら現在でも雑誌記事に登場する。
事件をめぐっては、犯人が政治思想犯であったのか、単なる施設管理への怨恨であったのかが最後まで議論された。近年では、いずれでもなく「夜間の永田町に取り残されたことへの私怨」とする説が有力であるが、決定的な証拠はない。
関連事件・類似事件[編集]
類似事件としては、で発生したとされる『深夜二時の封鎖未遂事件』、の放送局における『原稿差し替え占拠騒動』、およびでの『電話交換台一斉停止事件』が挙げられる。いずれも「時間帯を武器化した事件」として比較されることがある。
また、同時代の政治系事件の中では、報道機関が「現場からの中継を24時間続けた最初期の事件」と位置づける向きもあり、後の長時間会見や深夜国会報道の原型になったとする見方もある。もっとも、この系譜は後世の編集者によるこじつけである可能性が高い。
関連作品[編集]
事件はその奇妙さから多くの創作に影響を与えた。では、瀬川一馬『永田町24時間の攻防――時計が止まった夜』が代表的である。映画では公開の『Night Shift Nagatachō』が知られ、放送設備をめぐるサスペンスとして脚色された。
テレビ番組では、のドキュメンタリー風再現番組『封鎖された議事堂』が放送され、再現映像の一部が当事者の証言と一致しないとして話題になった。さらに、深夜ワイド番組のコーナー「永田町の24分」は、本事件の犯人が残したメモを引用しており、現在でもカルト的人気がある。
なお、事件を題材にした漫画がで連載されたことがあるが、途中から主人公が「時報を操る男」に変わり、原案との関連はかなり薄い。
脚注[編集]
[1] 警視庁刑事資料編纂室『昭和53年特異事件録』第2巻第4号、pp. 118-127. [2] 竹内宏明「永田町周辺における放送設備妨害事案の検証」『警察学論集』Vol. 31, No. 6, pp. 44-59. [3] 高野由紀『議事堂の夜と時計修理工』新潮社、1987年、pp. 201-214. [4] 佐伯倫子「会議待機時間と政治的抗議の表象」『現代政治研究』第12巻第3号、pp. 77-95. [5] Robert H. Ellison, "Temporal Occupation and Civic Standoff in Postwar Japan," Journal of Urban Conflict Studies, Vol. 8, No. 2, pp. 133-149. [6] 渡辺精一郎『庁舎警備と夜間放送の実務』中央法規出版、1981年、pp. 55-68. [7] Margaret A. Thornton, "Clock Disruption as Protest Tactic," The Pacific Review of Public Order, Vol. 4, No. 1, pp. 19-33. [8] 藤森一郎『永田町事件の社会史』岩波書店、1992年、pp. 9-26. [9] 小宮山さおり「『24時間』という比喩の政治学」『言説と制度』第5巻第2号、pp. 101-118. [10] 北沢真也『ナガタチョウの夜に鳴るベル』文藝春秋、1995年、pp. 88-93.
関連項目[編集]
脚注
- ^ 警視庁刑事資料編纂室『昭和53年特異事件録』第2巻第4号, pp. 118-127.
- ^ 竹内宏明「永田町周辺における放送設備妨害事案の検証」『警察学論集』Vol. 31, No. 6, pp. 44-59.
- ^ 高野由紀『議事堂の夜と時計修理工』新潮社, 1987, pp. 201-214.
- ^ 佐伯倫子「会議待機時間と政治的抗議の表象」『現代政治研究』第12巻第3号, pp. 77-95.
- ^ Robert H. Ellison, "Temporal Occupation and Civic Standoff in Postwar Japan," Journal of Urban Conflict Studies, Vol. 8, No. 2, pp. 133-149.
- ^ 渡辺精一郎『庁舎警備と夜間放送の実務』中央法規出版, 1981, pp. 55-68.
- ^ Margaret A. Thornton, "Clock Disruption as Protest Tactic," The Pacific Review of Public Order, Vol. 4, No. 1, pp. 19-33.
- ^ 藤森一郎『永田町事件の社会史』岩波書店, 1992, pp. 9-26.
- ^ 小宮山さおり「『24時間』という比喩の政治学」『言説と制度』第5巻第2号, pp. 101-118.
- ^ 北沢真也『ナガタチョウの夜に鳴るベル』文藝春秋, 1995, pp. 88-93.
外部リンク
- 永田町事件史料アーカイブ
- 昭和特異事件データベース
- 警備実務と危機対応研究会
- 国会周辺騒擾事件年表
- 深夜政治報道ミュージアム