法政大学マンドリンクラブ集団失踪事件
| 名称 | 法政大学マンドリンクラブ集団失踪事件 |
|---|---|
| 発生時期 | 1968年10月下旬 |
| 発生地 | 東京都千代田区富士見 |
| 原因 | 弦鳴現象、学内録音装置の共鳴暴走説など |
| 関係組織 | 法政大学、学生自治会、東京楽器保存協会 |
| 行方不明者 | 部員34名、外部協力者2名 |
| 再発見 | 1971年春に一部が群馬県で確認 |
| 通称 | マンドリン三日月消失 |
| 影響 | 学内サークル安全基準の改定、共鳴室の設置 |
法政大学マンドリンクラブ集団失踪事件(ほうせいだいがくマンドリンクラブしゅうだんしっそうじけん)は、千代田区ので発生したとされる、マンドリン演奏研究会の構成員が一斉に姿を消した事件である。校内の音楽文化史と学園伝承の境界に位置する出来事として知られ、のちにの初例とされるようになった[1]。
概要[編集]
法政大学マンドリンクラブ集団失踪事件は、の秋にの学生音楽団体であるマンドリンクラブの主要メンバーが集団で所在不明となったとされる事件である。後年の調査では、単なる失踪ではなく、校舎地下の旧蓄音機室における長時間練習が引き金となった可能性が指摘されている[2]。
事件当時、学内では系の集会と文化サークルの再編が重なっており、クラブの活動記録の一部が自治会文書に吸収されたことから、公式記録と口伝がねじれたまま残された。これにより、事実関係は年を追うごとに複雑化し、現在では「後期の学生文化を象徴する半伝承的事件」として扱われている。
発端[編集]
発端は、側の部室で行われた定例合奏会とされる。部員たちは12挺、4挺、9挺を用いて《秋の序曲》第3稿を試演していたが、夜9時を過ぎたころから、近隣の方面に向けて音が異様に吸い込まれたという証言が残る[3]。
当日の立会人であった用務員のは、部室の壁面に「薄い拍子木のような振動」が走り、譜面台の影が半拍遅れて動いたと証言している。なお、この証言は後に『』の取材で初めて公表されたが、掲載号の紙面にはなぜかピッチパイプの広告が異常に多かったため、編集部の意図を疑う声もある。
失踪の経過[編集]
第一夜[編集]
午前0時15分ごろ、最後に残っていた4名が「譜面の余白から音が出る」と言い残して部室を出たのを最後に、連絡が途絶えたとされる。翌朝、机上にはの和音を書き付けたノートと、未使用の弦がちょうど34本並べられていた[4]。
学内では当初、単なる無断外泊と見なされたが、昼過ぎにクラブの合奏旗がの古書店街で発見され、しかも旗竿に古い蓄音機の針が刺さっていたことから、事態は一気に変質した。
第二夜[編集]
には、部員の一部が方面で目撃されたとの通報が3件入り、いずれも「皆が同じ歩幅で歩き、右手だけで拍を取っていた」と一致していた。これが後の研究において、集団同期行動の初期兆候として引用されることになる。
ただし、目撃者のひとりであるタクシー運転手のは、証言の最後に「後席でチューニングを始めた」と述べており、警察記録ではメモ欄に「要確認:運転手が絶対音感を主張」と書かれている。
再発見[編集]
春、群馬県郊外の農協倉庫で、元部員7名が“仮設アンサンブル班”として発見されたとされる。彼らは当時、地元青年会の行事に参加していたが、全員が自分の名前より先に担当パート名を名乗ったという[5]。
この再発見により、事件は「失踪」から「移動型合奏儀礼」へと再解釈されることになった。一方で、残る27名については今日に至るまで所在不明であり、法政大学の一部では毎年10月に空席へ譜面を置く追悼儀礼が続いている。
背景[編集]
事件の背景には、後半の大学文化運動と、弦楽器愛好会に特有の密閉的な練習環境があったとされる。とりわけマンドリンクラブは、旧制学校由来の厳格な合奏規範を受け継いでおり、音程の乱れを理由に部室の窓を紙で塞ぐ慣行があったという。
また、法政大学では当時、旧講堂地下の防音室に未整理の録音機材が保管されており、事件前月からその一部がクラブに貸与されていた。この機材が練習音と干渉し、いわゆる「共鳴暴走」を生んだとする説がもっとも有名であるが、理学部音響学教室の報告書では「再現実験で七割ほどしか鳴らなかった」と記されている。
調査[編集]
大学当局の初動[編集]
学内の対策会議はに開かれ、当初は「就職活動との混同による一時離脱」と説明する案まで検討された。だが、学生課が提出した在籍簿には34名分の印が同じ角度で押されており、書記が「これは出席ではなく、退場の痕跡ではないか」と注記したため、当局は記録の公表を見送った[6]。
その後、の捜査協力が行われたが、現場写真に楽器ケースが写っているのに中身がほとんど反射していないことから、報告書の信頼性は一部で疑われた。
民間研究者の介入[編集]
の会員であったは、失踪の原因を「音の保存に失敗したために演奏者が保存対象に転化した」とする独自説を唱えた。彼は事件後、学内で拾得されたピックを48本分類し、そのうち17本が“湿度により意思を持つようになった”と報告したが、これは学会では採用されていない。
また、民俗学者のは、同事件を関東の“道具隠し”伝承と比較し、楽器が演奏者を呼び戻す逆転現象が起きたと結論づけた。彼女の論文は現在でも引用されるが、結論の最後に「なお、私はマンドリンの音が苦手である」と書かれている。
影響[編集]
事件は内の大学サークル運営に大きな影響を与え、以後、合奏団体には夜間練習の届出と地下室使用時の「帰還確認表」が義務づけられるようになった。とりわけに制定された『学生文化施設共鳴防止要綱』は、楽器ケースの数を記録する珍しい規定を含んでいた[7]。
文化的には、この事件を題材にした創作が後半から急増し、映画『消えた34本の弦』や舞台『九段下カデンツァ』などが上演された。もっとも、いずれも内容が似すぎており、批評家の間では「同じ譜面を編曲しただけではないか」との指摘がある。
批判と論争[編集]
一部の元関係者は、失踪事件そのものが当時の学生運動への関心を逸らすための宣伝であったと主張している。これに対し、大学史研究者のは、事件の時系列が細部で食い違うものの、部室から譜面が一冊も残らなかった点は逆に信憑性を高めると述べた[8]。
また、の再発見以降、群馬側で見つかった7名が本当に元部員であったかをめぐって論争が続いている。本人確認の決め手とされたのは集合写真の左端に写るの鉛筆書きであったが、後年の分析でそれが「ファ」の記号なのか、単に記名途中なのか判別できないことが判明した。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 松岡茂樹『共鳴する部室――昭和学生文化と弦楽器の失踪』白凰社, 1981年.
- ^ 久世玲子『関東の道具隠し伝承と学生合奏儀礼』民俗芸能研究会, 1976年.
- ^ 田島弘道『大学史資料にみる1968年後期の不在化現象』法政史料叢書第4巻, 1992年.
- ^ 東京都学生文化協議会 編『学生文化施設共鳴防止要綱 解説集』都政出版, 1973年.
- ^ A. Thornton, 'The Acoustic Vanishing of Collegiate Mandolin Clubs,' Journal of Urban Folklore, Vol. 12, No. 3, pp. 144-169, 1984.
- ^ M. S. Hargrove, 'String Instruments and Collective Dissociation in Postwar Japan,' East Asian Sound Studies, Vol. 8, No. 1, pp. 22-51, 1991.
- ^ 法政大学音楽史編纂室『富士見校地音響記録集』内部資料, 1969年.
- ^ 東京楽器保存協会 編『失われた演奏者たちのための楽器学ノート』協会紀要第7号, 1978年.
- ^ 高橋庄三『夜半の拍子木――用務員回想録』富士見書房, 1980年.
- ^ 林一夫『タクシー運転日誌 1968年10月版』関東交通出版, 1970年.
外部リンク
- 法政大学史料アーカイブ
- 東京楽器保存協会デジタル年報
- 関東都市伝承研究所
- 学生文化事件年表データベース
- 弦鳴現象資料室