津田 梅子
| 選手名 | 津田 梅子 |
|---|---|
| 画像 | なし |
| 画像サイズ | 280px |
| 画像説明 | 試合前のウォームアップでスティックを掲げる津田 |
| 愛称 | 梅ちゃん、サフランの閃光 |
| 生年月日 | 1871年12月31日 |
| 出身地 | 東京都新宿区 |
| 身長 | 168cm |
| 体重 | 57kg |
| 国籍 | 日本 |
| 背番号 | 7 |
| ポジション | ミッドフィルダー |
| 所属チーム | 東京サフランズ |
| 利き手/利き足 | 右投左打 |
| medaltemplates | オールアジア杯 金 1898・1901 / 銀 1895 |
津田 梅子(つだ うめこ、〈4年〉 - )は、出身の(ミッドフィルダー)。右投左打。の所属。女子ラクロス黎明期の象徴的存在であり、での通算9得点、2回受賞、のベスト11入りで知られる[1]。
経歴[編集]
プロ入り前[編集]
津田は下ので球技教育を受け、にの公開測定会で初めて公式記録を残したとされる。身のこなしの軽さから当時の記者に「校庭を滑る竹ひご」と呼ばれ、のちにこの異名がそのままプレースタイルの説明として定着した[2]。
の旧家に育った津田は、幼少期から石段でのステップ練習を日課とし、雨の日にはの坂道でボール回収の俊敏さを鍛えたという。なお、本人の回想録によれば、最初に握ったスティックは母が箒を削って作ったもので、これが日本の女子ラクロス用具史の起点になったとされている[3]。
所属チーム別の経歴[編集]
にへ加入し、同年に初出場を果たした。初年度は主に守備的な役割を担ったが、ので3試合連続アシストを記録し、以後は攻守をつなぐ司令塔として起用されるようになった。
にはへ短期移籍し、京都遠征で1試合9本のクリア成功を記録したが、宿舎の畳が柔らかすぎて踏み切りが合わなかったことが成績向上の理由とされる。翌に東京サフランズへ復帰し、同年は主将を務めた。以後、まで5年連続でチーム最多出場を維持し、プロ入り後のキャリアの頂点を迎えた[4]。
代表経歴[編集]
津田はにに選出され、で代表デビューを果たした。初戦では開始8分でスティックが折れる不運に見舞われたが、交換用具が間に合うまでの4分間を片手で守備し続け、観客の拍手で試合の流れを引き寄せたと伝えられている。
には3回目の出場を果たした大会でMVPに選ばれた。同年、から代表強化委員への就任を打診されたが、現役続行を優先して辞退したとされる。この判断は後年、選手兼指導者という立場の先例になったと評価されている[5]。
選手としての特徴[編集]
津田の最大の特徴は、狭いスペースでの切り返しと視野の広さにあった。特に左打ちからの逆サイド送球は「梅雨の雨だれ」と形容され、短い距離でも曲線を描いて味方のスティックに吸い込まれるようだったという。
また、当時としては珍しく試合中の足運びを数値化し、の研究会では1試合平均11,240歩と自己ベストを更新したと報告された。これにより、持久力よりも「歩幅の変化で相手をずらす」戦術が広まり、女子ラクロスの基礎技術に影響を与えたとされる[6]。
一方で、試合終盤になると独特の沈黙で集中を高める癖があり、ベンチでは誰も近寄らなかったという。これは「怒っているのではなく、次の3手を数えている」と説明されたが、実際には近くで鳴るの音をリズムにしていたとの証言もある。
人物[編集]
津田は実利的な選手でありながら、道具に対するこだわりが非常に強かった。スティックの網目は必ず17目でなければならず、16目だと「風が抜けすぎる」として試合前に編み直させたという。こうした習慣は、のちにの用具管理室で標準化され、女子ラクロス用品の規格化を促した。
私生活では、の喫茶店で試合映像ならぬ「試合速記」を読みながら紅茶を飲む姿が目撃されている。本人は甘い物を好まず、代わりに角砂糖を1試合につき2個までと厳格に決めていたという。なお、角砂糖の数を試合日誌に毎回記録していたため、後年の研究者がコンディション管理の精密さを示す資料として引用した[7]。
津田は若手への助言も細やかで、初めて代表に入った選手には必ず「走る前に止まれ」と教えた。これは単なる精神論ではなく、相手の体勢を見てから踏み込むことで成功率が8割以上に上がるという、きわめて実践的な指導だったとされる。
記録[編集]
タイトル[編集]
優勝 2回(1898年、1901年)。年間最優秀選手 3回受賞。チームタイトルとしてはの初優勝に2度関与し、いずれも決勝で終盤の連続スティールを記録した。
また、には「1試合での正確なパス成功率91.4%」を記録し、当時の女子部門では破られない数字とされた。これにより、津田は「勝負所で数字を落とさない選手」として定着した。
表彰[編集]
、、を受章した。ほかに、にから「最も礼節ある主将」に選ばれている。
ただし、の審査では「試合後の握手が長すぎる」との理由で減点されたという珍しい記録が残る。これについては、相手選手の靴ひもを結び直す習慣が過剰に評価されたためという説もある[8]。
代表歴[編集]
日本女子代表 8試合出場、2得点、11アシスト。主将 2大会。オールアジア杯 3大会連続出場。初出場は、最終出場はである。
なお、大会の決勝では、開始前に雨でラインが消えたため、津田が自ら石灰を撒いてコートを整えた。これが「選手が試合環境を作る」という理念の出発点になったとされる。
個人記録[編集]
通算最多走行距離 42.8km(1大会)。1試合最多ボール回収 27回。連続出場記録 19試合。これらはいずれも代前半の女子競技としては異例であり、後年のスポーツ科学研究でも引用された。
さらに、の国際親善試合では、開始後わずか6分で3度も用具点検を受けたにもかかわらず、最終的に勝利を収めた。審判団は「津田のスティックが勝手に試合を理解していた」と記録している。
出演[編集]
津田は競技人気の高まりを受け、代に系の広告企画へ出演した。特にのCMでは、ラクロスのスティックを香り立つ花束のように振る姿が話題となり、発売3か月で推定14万個を売り上げたとされる。
テレビ番組への出演は、戦後に制作された再現番組が初期である。本人役を務めた女優がフォームを再現しきれず、津田本人が「その構えでは風が通りすぎる」と助言した逸話が残る[9]。また、ラジオではの対談番組に出演し、女子競技の普及に「運動場の石を先に拾うこと」が必要だと語った。
一部の広告では、津田の名前が「ツダ・ウメコ式速攻」として商品名に転用され、競技用具だけでなく学生鞄の宣伝にも使われた。これについては本人が不本意だったともいわれるが、記録上は明確に止めた形跡がない。
著書[編集]
著書としては『』、『』、『』がある。いずれもから刊行されたとされ、実戦技術だけでなく、試合前の姿勢や礼儀作法を細かく解説している。
特に『一歩目の科学』は、冒頭で「速さは前進ではなく停止から生まれる」と述べ、後進の選手に大きな影響を与えた。なお、巻末の付録にはスティックの握り方を図示した12枚の木版画があり、1枚だけ逆さまに収録されているが、これは編者が意図した「視点の転換」であると説明された[10]。
また、未刊行原稿『』が図書館の特別閲覧室に保管されているという説があるが、実物を見た研究者は少なく、真偽はなお議論されている。
背番号[編集]
東京サフランズでは番を着用した。これは当初、単に空いていた番号であったが、津田が7歩で相手陣形を崩す癖を持っていたことから、のちに「分割の番号」として神格化された。
代表では番を着けることもあったが、雨天時には番を優先したとされる。背番号の使い分けは、日程や芝の状態に応じて「守備的な日」は7、「攻撃的な日」は11という独自運用によるもので、チーム関係者の記録には「番号で戦術が変わる選手」とある。
脚注[編集]
注釈
[1] 年代・所属・成績は各種回想録を総合したものであり、一部に異説がある。
[2] 『東京府女子球技史料集』では初出場年が1891年とされるが、本項では公式記録に従った。
[3] 箒を削って作られたスティックの実在は確認されていないが、津田家文書に類似の記述が見えるとされる。
[4] 1900年の関西遠征については、天候と宿舎の条件が成績に影響したとの証言が多い。
[5] 代表強化委員への就任打診は、後年の座談会記録にのみ現れる。
[6] 歩数計測は当時の器具精度の問題が指摘されている。
[7] 角砂糖の管理は健康管理と集中維持の両面から行われたとされる。
[8] 握手の長さに関する採点基準は、現在でもスポーツ倫理史の研究対象である。
[9] 再現番組の制作資料は一部が散逸している。
[10] 逆さまの図版については印刷事故説と編集意図説が並立している。
出典
・相馬和子『近代女子ラクロスの成立』青杖社、1958年。
・松村義一『東京サフランズ百年史』東都出版、1969年。
・Margaret A. Thornton, "Women’s Lacrosse and the Meiji Body", Vol. 12, No. 3, pp. 44-71, 1978.
・井上たみ『スティックの礼法』新潮運動選書、1984年。
・H. K. Bell, "The Saffron Formation in Early Asian Lacrosse", Vol. 7, No. 2, pp. 101-119, 1991.
・木下清隆『運動場の石を拾う人々』大和書房、1997年。
・渡辺真由美『女子スポーツ広告史』文化図書、2004年。
・Katherine L. Moore, "Scoring the Wind: Tsuda’s Footwork Records", Vol. 19, No. 1, pp. 5-29, 2011.
・中嶋洋子『一歩目の科学とその周辺』青弓社、2016年。
・『女子競技礼法研究』第3巻第1号、pp. 13-18、2020年。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
東京サフランズ公式選手名鑑
日本女子ラクロス史料館デジタルアーカイブ
東アジア女子ラクロスリーグ年鑑
スポーツ名人帳アーカイブ
津田梅子記念歩数研究会
脚注
- ^ 相馬和子『近代女子ラクロスの成立』青杖社、1958年.
- ^ 松村義一『東京サフランズ百年史』東都出版、1969年.
- ^ Margaret A. Thornton, "Women’s Lacrosse and the Meiji Body", Vol. 12, No. 3, pp. 44-71, 1978.
- ^ 井上たみ『スティックの礼法』新潮運動選書、1984年.
- ^ H. K. Bell, "The Saffron Formation in Early Asian Lacrosse", Vol. 7, No. 2, pp. 101-119, 1991.
- ^ 木下清隆『運動場の石を拾う人々』大和書房、1997年.
- ^ 渡辺真由美『女子スポーツ広告史』文化図書、2004年.
- ^ Katherine L. Moore, "Scoring the Wind: Tsuda’s Footwork Records", Vol. 19, No. 1, pp. 5-29, 2011.
- ^ 中嶋洋子『一歩目の科学とその周辺』青弓社、2016年.
- ^ 『女子競技礼法研究』第3巻第1号、pp. 13-18、2020年.
外部リンク
- 東京サフランズ公式選手名鑑
- 日本女子ラクロス史料館デジタルアーカイブ
- 東アジア女子ラクロスリーグ年鑑
- スポーツ名人帳アーカイブ
- 津田梅子記念歩数研究会