浅野琢郎
| 氏名 | 浅野 琢郎 |
|---|---|
| ふりがな | あさの たくろう |
| 生年月日 | 1897年4月18日 |
| 出生地 | 兵庫県神戸市兵庫区相生町 |
| 没年月日 | 1964年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民間技術史家、記録工学者、索引編集者 |
| 活動期間 | 1919年 - 1962年 |
| 主な業績 | 「浅野式記録配列法」の考案、港湾資料の再分類、口述記録の目録化 |
| 受賞歴 | 日本記録学会特別功労章(1958年)、神戸文化記録賞(没後追贈) |
浅野 琢郎(あさの たくろう、 - )は、の民間技術史家、記録工学者である。後に系の研究者らが「索引的人物」として再評価した人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
浅野琢郎は、昭和前期から戦後にかけて活動したの民間技術史家であり、記録の分類と再配列を専門とした人物である。とくに、散逸した港湾資料を「再読可能な形」に組み替える手法を提唱したことで知られる[1]。
彼の名は長らく地方の資料整理係としてのみ記憶されていたが、にの学術誌がその業績を取り上げたことで再評価が進んだ。もっとも、本人は生前から「資料は保存するものではなく、次の誤読のために整えるものだ」と述べていたとされ、この発言が彼の異様なまでの整理哲学を象徴している[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
浅野は、の兵庫区相生町に、回漕問屋に勤める父・浅野嘉市と、貸本屋の娘であった母・すみの長男として生まれる。幼少期から帳簿、荷札、海図の断片を集める癖があり、近所では「紙屑を拾う子」と呼ばれていたという。
頃には沿いの倉庫で捨てられた伝票を並べ替える遊びをしていたとされ、これが後年の配列法の原型になったと本人は記している。ただし、この回想は晩年にまとめられた自筆年譜にのみ見られ、史料批判の対象となっている。
青年期[編集]
、浅野はの聴講生として簿記と統計を学び、同時にの古書肆に出入りして近代印刷物の目録法を独学した。翌にはの公開講座での講義を聴いたとされ、この体験が民俗資料の分類へ向かう契機になったという。
、系の資料整理補助として採用され、以後、港湾関係の書簡、通関台帳、船舶修繕記録を扱うようになった。彼はこの時期に「一件の資料は一件の出来事ではなく、十七の周辺を連れてくる」と述べたとされ、実務家の間で奇妙な名言として広まった。
活動期[編集]
、浅野は神戸港周辺の倉庫群で行われた資料救出作業に関わり、濡れた帳簿を乾燥させずにそのまま並べ、紙の重みで原秩序を再現する独自法を用いた。これが後に「浅野式記録配列法」と呼ばれるようになり、にはの前身組織で紹介された[3]。
からにかけては、内の工場記録の焼失を防ぐため、移動式の索引箱を設計した。箱は一見すると机の引き出しであるが、内部が七層に分かれ、各層が月・便・差出人・潮位・紙質で分類されるという異常な構造を持っていた。なお、この箱の試作品は戦時中にの倉庫で一度だけ公開され、見学者の大半が「使い方がわからない」と言って帰ったと記録されている。
晩年と死去[編集]
戦後は内の小さな資料室にこもり、に私家版『配列学小史』を刊行した。これは三十七部しか刷られなかったが、余白の多さと注記の長さで知られ、現在では「日本の余白文学」と並べて論じられることがある。
、浅野はの親類宅を訪れていた際に脳出血で倒れ、同年11月2日、67歳で死去した。葬儀では棺の中に彼自作の索引札が一束納められたとされるが、これは参列者の一人による回想であり、確証はない。
人物[編集]
浅野は寡黙で几帳面な人物として語られる一方、奇妙な社交性を持っていた。来客に対しては必ず名刺を三回見返し、表裏を合わせてから会話を始めたという。
性格面では、秩序を愛するよりも「乱れたものがどの程度まで意味を保つか」に興味を持っていたとされる。彼は若い研究者に対し、「整頓とは結論ではなく、仮の断念である」と言ったとされるが、真偽は定かでない。
逸話としては、にの視察中、積み上げられた荷札の山を見て即座に船会社ごとの配列を言い当て、同行した職員を驚かせた話が有名である。また、晩年にはの喫茶店で注文したコーヒーの砂糖袋まで時系列に並べる癖があったと伝えられる。
業績・作品[編集]
浅野の代表的業績は、資料を内容別に分けるのではなく、発生順・移動順・破損順に応じて再構成する「浅野式記録配列法」の提唱である。この方法は後半に地方史料館や港湾博物館の一部で採用され、閲覧者が資料の来歴を追いやすいとして評価された[4]。
著作としては、『配列学小史』()、『潮位と索引』()、『港湾帳簿の幽霊性』()がある。特に『港湾帳簿の幽霊性』は、船の出入港記録を「見えない乗客の集合」として読む独自の視点で注目された。
また、には向けに「三枚一束法」を提案し、同一事件に関わる紙片を三枚単位で束ねる実務指針を作成した。これは便利である一方、三枚未満の資料をどう扱うかが最後まで解決せず、助手たちはしばしば追加の付箋を作って帳尻を合わせたという。
後世の評価[編集]
浅野の評価は生前には限定的であったが、以降、アーカイブズ研究の文脈で再発見された。とくに立の旧港湾資料庫が彼の索引箱を展示したことにより、「日本における記録工学の先駆」とする見方が広がった。
一方で、彼の方法は過度に細分化されているとして批判も受けた。実際、にの研究会で試験導入された際、参加者の半数が配列表の読み方を誤り、別の年の資料を誤って閲覧したとされる。この失敗が、逆に「浅野法は現場に向かないが、現場をよく暴く」という評価につながった。
史料学研究室の回顧録では、浅野は「分類しすぎたことで分類の限界を示した人物」と位置づけられている。もっとも、彼の名前が一般に知られるようになったのは、に古書店で未整理のノート群が発見されてからであり、そこに書かれた索引語の一部が実際には存在しない紙片を前提にしていたことが判明して、研究者を困惑させた。
系譜・家族[編集]
浅野家は神戸の回漕業に関わる家系で、父・嘉市は荷主との折衝を担当し、母・すみは家計簿の管理に長けていた。妹の浅野ふさは小学校教員となり、兄の収集癖とは対照的に「捨てることの教育」を重視したという。
、浅野は出身の女性・三輪ミヨと結婚した。ミヨは製紙業者の家に育ち、浅野の資料保存を支える一方、彼が不要とした紙片を別の箱に移しておくことで、結果的に研究の再発見に寄与したとされる。
子は二男一女が知られており、長男の琢一はの倉庫管理に就き、次男の彰はで出版社勤務となった。なお、娘の房子が残した家計帳には、父が晩年まで「索引用の小銭入れ」を持ち歩いていたことが記されている。
脚注[編集]
[1] 浅野の生年と死年については諸説あるが、本項では『神戸記録工学年表』に従った。 [2] この発言は本人の講演録に見えるが、書き起こし者が二名おり、文言が一致しない。 [3] 初期の紹介文では「配列術」と記されており、現在の名称とはやや異なる。 [4] 浅野法の実際の運用例は少なく、評価は主に回顧的なものである。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯隆一『港湾資料と配列思想』中央公論資料研究会, 1959年, pp. 41-68.
- ^ 三輪京子『浅野琢郎の記録哲学』神戸文化出版社, 1972年, pp. 12-95.
- ^ Harold M. Finch, "The Asano Method and Japanese Indexing", Journal of Archival Studies, Vol. 8, No. 3, 1981, pp. 201-223.
- ^ 田中冬樹『昭和資料整理史』日本史料刊行会, 1988年, pp. 144-177.
- ^ Margaret A. Thornton, "Portable Index Boxes in Prewar Japan", East Asian Records Review, Vol. 14, No. 2, 1994, pp. 77-104.
- ^ 浅野房子編『父・浅野琢郎覚え書』私家版, 1997年, pp. 5-39.
- ^ 村瀬一郎『配列学小史注解』港湾史研究叢書, 2003年, pp. 88-131.
- ^ Kenta Mizuno, "Reordering the Discarded: Takuro Asano and the Paper Residue Problem", Archives & Society, Vol. 21, No. 1, 2011, pp. 3-29.
- ^ 『神戸記録工学年報』第12巻第4号, 神戸記録工学会, 1958年, pp. 1-22.
- ^ 『港湾帳簿の幽霊性とその周辺』東方索引出版, 1960年, pp. 9-56.
外部リンク
- 神戸記録工学会デジタルアーカイブ
- 浅野琢郎資料室
- 港湾史料再配列研究センター
- 記録箱博物館オンライン
- 索引学協会年報データベース