浜名湖押し相撲傷害事件
| 名称 | 浜名湖押し相撲傷害事件 |
|---|---|
| 発生日時 | 1968年8月17日 - 1968年8月19日 |
| 発生場所 | 静岡県浜松市 浜名湖東岸特設土俵 |
| 原因 | 湖風による踏み込み乱れ、観客席の可動柵の不具合 |
| 関与者 | 浜名湖観光協会、遠州押し相撲保存会、県警機動雑踏係 |
| 負傷者 | 選手7名、行司補助2名、観客14名 |
| 分類 | スポーツ安全管理事件、観光公害、地域興行事故 |
| 後続制度 | 土俵縁石規格(HMS-71) |
浜名湖押し相撲傷害事件(はまなこおしずもうしょうがいじけん)は、の周辺で発生したとされる、押し相撲の興行中に生じた一連の負傷事案を指す事件名である。昭和後期に地域観光と土俵安全基準の整備をめぐって議論を呼び、現在ではの文脈でしばしば言及される[1]。
概要[編集]
浜名湖押し相撲傷害事件は、岸辺で行われていた押し相撲興行「湖畔場所」において、取組中の接触が過度に反復し、複数の負傷者を出したとされる事件である。主催したは当初、湖面の涼風が競技性を高めるとしていたが、実際には土俵の外周が湿気で滑りやすく、選手が押し返しの際に連鎖的に転倒したことが原因とされる[2]。
事件は単なる興行事故にとどまらず、40年代の地方観光政策、民間競技の安全基準、そして「押し相撲」という半ば民俗芸能化した競技の定義そのものに影響を与えたとされる。なお、現地では事件後もしばらくのあいだ、関係者が「これは傷害ではなく押圧の余剰である」と説明したため、記録の整理が遅れたという[3]。
背景[編集]
押し相撲は、もともと地方の港湾労働者の余興として発展したという説が有力である。荷役後に力比べを行う際、相手を倒すのではなく「胸を押して三歩下がらせる」ことを勝ち筋とする方式が好まれ、末期には海辺の祭礼で定着していたとされる。
一方で、の古い会報には、1949年にある旅館経営者が「湖の景観に相撲の躍動を重ねれば滞在日数が0.8日延びる」と提案した記録が残る。これが後の湖畔場所の原型になったというが、提案書の末尾に「土俵は最低でも直径7.4間」とだけ妙に細かい注記があり、後世の補筆を疑う声もある[4]。
事件前には、内の観光団体が共同で「浜名湖サマー押圧月間」を実施しており、毎週末に12試合程度が組まれていた。観客動員は初年度で延べ1万9,300人に達したとされ、湖上遊覧船から観戦できることが人気を呼んだが、風向きによって行司の烏帽子が飛ぶことがしばしばあり、競技の緊張感を高める演出として受け取られていた。
事件の経過[編集]
初日の混乱[編集]
1968年8月17日、東岸特設土俵で開催された第4回湖畔場所の初戦において、土俵脇の湿った砂利が踏み込み時に滑り、力士2名が同時に柵へ衝突した。これにより観客席前列の可動柵が半メートルほど外側へずれ、最前列にいた地元中学生3名が足首を捻挫したとされる。
当時の実況記録では、行司補助のが「押せ、だが落とすな」と叫んだ直後、湖風が連続して吹き込み、土俵中央の白線が見えなくなったとある。このため取組が一時中断され、係員が釣り用の重り20個を用いて白線を押さえたという、いかにも地方興行らしい対応が取られた。
二日目の傷害拡大[編集]
18日には、観客参加型の「親子押圧教室」が併催されていたことから、通常よりも人の出入りが激しかった。午後2時過ぎ、十両格とされたが、対戦相手の肩を押し込もうとして足を滑らせ、相手を巻き込む形で土俵外へ転落した。相手は護岸の木製段差に腰を強く打ち、さらにその衝撃で段下に積まれていた救命浮環18個が一斉に転がり出したため、会場は一時騒然となった。
この場面を撮影していたの取材班は、フィルムの一部が水滴で曇っていたにもかかわらず、翌日の短報で「押し相撲、浜名湖を揺らす」と報じた。なお、この短報の見出しは後年、実際には新聞部デスクが三分で考えたものだと証言しているが、出典は残っていない。
三日目の収束[編集]
8月19日、主催者側は安全確認のため土俵高を通常の1.2倍に引き上げ、柵の内側へ藁束を64束追加した。しかし、これが逆に踏み込みの反発を強め、決勝戦では選手全員がほぼ同時に前のめりとなる事態が発生した。最終的に7名の負傷が記録され、うち1名は右手親指の腱を痛めて3週間の静養を要したとされる。
事件後、には「押し相撲は湖面に近すぎる」との苦情が53件寄せられた。これを受けて市は、同年末に仮設会場の設営許可に関する指導要綱を作成し、土俵と水面の最短距離を12メートル以上とする暫定基準を設けた。後にこの基準は、全国各地の河川敷興行にも波及した。
影響[編集]
事件の最も大きな影響は、押し相撲が「郷土の見世物」から「管理対象の準スポーツ」へ移行した点にある。以後、各地の保存会では土俵の外周に吸水性の高い麻縄を二重に巻く方式が標準化され、選手の体重区分も従来の「軽・中・重」から「64kg未満」「64〜82kg」「82kg超」へと細分化された。
また、観光行政上の教訓として、周辺では「競技そのものより観客の靴底を先に点検せよ」という合言葉が生まれた。これは地元の安全講習会で定着し、後に全国の祭礼競技で引用されるようになったが、実際に誰が言い始めたのかは確定していない[要出典]。
事件を機に、は雑踏事故対策班を増員し、湖畔の臨時興行に対して風速計の設置を義務づける内部通知を出したとされる。もっとも、風速計が「3m/sを超えると押し返し率が14%上昇する」という数値は、後年の研究者が手計算で出したものであり、当時の資料には見当たらない。
関係者[編集]
事件の中心人物としてよく挙げられるのは、主催責任者のである。彼は元々、浜名湖の遊覧船運営に携わっていたが、競技会場の設営に異常な情熱を示し、「土俵は陸上の小さな島であるべきだ」と語ったと伝えられる。
一方、審判長を務めたは、押し相撲の判定基準を「押し込んだ側の息が先に切れたら負け」と独自に解釈していたことで知られ、事件後もしばらく地元紙の人生相談欄に登場した。彼の著書『押圧と礼節』は、本文よりも巻末の土俵図が詳しいことで有名である。
負傷者の中で最も記録が多いのは、補助係のである。彼女は転倒した選手を受け止める役目を担っていたが、実際には3試合連続で反動を受け、救護班から「最も押された人物」として表彰された。表彰状には「心身ともに土俵の外へ出なかったことを讃える」と記されていたという。
後世の評価[編集]
後世の郷土史研究では、浜名湖押し相撲傷害事件は「失敗した興行」ではなく、「地方スポーツ安全法制の起点」として再評価されている。特にのある研究班は、事件後5年間で東海地方の仮設土俵事故が27%減少したと報告しているが、比較対象が祭り・運動会・縁日を一括していたため、信頼性には疑義がある。
また、事件の記憶は観光土産にも転化され、1973年には「押し返し最中」「湖風せんべい」などが販売された。中でも人気だったのは、箱の裏に「安全第一、ただし勢いは第二」と印刷された菓子であり、現在でも一部の古書店や湖畔土産店で稀に確認されるという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
40年代の観光ブーム
脚注
- ^ 野末重三『浜名湖押圧興行史』遠州出版、1972年、pp. 14-39.
- ^ 松井宗一『押圧と礼節』浜松文化協会、1971年、第1巻第2号、pp. 7-18.
- ^ H. Watanabe, “Safety Margins in Floating Sumo Stages,” Journal of Regional Sports Studies, Vol. 8, No. 3, 1974, pp. 211-229.
- ^ 静岡県観光局『浜名湖観光年報1969』静岡県庁、1969年、pp. 52-61.
- ^ K. Ellis, “Wind Drift and Ring Balance in Lakeside Exhibitions,” International Review of Folk Athletics, Vol. 12, No. 1, 1975, pp. 33-49.
- ^ 浜松商工会議所『遠州興行メモランダム』第4巻第1号、1950年、pp. 88-91.
- ^ 小林みどり『受け止める仕事』浜名湖救護会、1976年、pp. 101-120.
- ^ A. Thornton, “Public Liability after the Hamana Incident,” Sports Governance Quarterly, Vol. 5, No. 4, 1976, pp. 1-26.
- ^ 静岡県警察本部雑踏対策課『仮設会場安全要領』1970年、pp. 3-15.
- ^ 渡辺精一郎『押し相撲の民俗と測量』東海学芸社、1973年、pp. 44-58.
外部リンク
- 遠州湖畔競技史アーカイブ
- 浜名湖安全土俵研究所
- 静岡地方興行資料館
- 押圧文化デジタル年表
- 中部民俗スポーツ博物誌