海自護衛艦転覆事件
| 名称 | 海自護衛艦転覆事件 |
|---|---|
| 正式名称 | 第七護衛隊群所属艦艇転覆工作事件 |
| 日付 | 1978年9月14日 |
| 時間 | 午前2時10分ごろ |
| 場所 | 長崎県佐世保市相浦町・佐世保港外防波堤 |
| 概要 | 護衛艦の固定索が何者かに切断され、艦体が浅瀬側へ傾斜して擱座寸前となった事件 |
| 標的 | 海上自衛隊の護衛艦「しらぬい」 |
| 手段 | 係留索切断、バラスト弁開放工作 |
| 犯人 | 元機関見習いの男1名とされる |
| 容疑 | 公務執行妨害、器物損壊、放火未遂 |
| 動機 | 配属差別への怨恨とされる |
| 損害 | 軽度の船体損傷、係留設備の交換費用約4,800万円 |
海自護衛艦転覆事件(かいじごえいかんてんぷくじけん)は、(53年)にので発生したである[1]。警察庁による正式名称は「所属艦艇転覆工作事件」とされ、通称では単に「転覆事件」と呼ばれる。
概要[編集]
海自護衛艦転覆事件は、の護衛艦が停泊中に外部工作を受け、船体が転覆寸前の危険状態に陥ったとされる事件である。実際には完全な転覆には至らなかったが、当時のは「艦艇防護の発想を根底から揺さぶった事案」と記している[2]。
事件はでの夜間整備中に発覚した。艦尾側の係留索が不自然に切断され、さらに制御系の一部に細工が見つかったことから、当初は事故として処理されかけたが、のちにとの合同捜査で意図的な工作と判断された。なお、艦内放送の記録には「右舷傾斜、三度」と残されており、後年まで資料として引用されることが多い[3]。
この事件は、単なる破壊工作にとどまらず、当時のにおける警備体制、下請け整備員の身元確認、夜間の港湾監視の甘さを露呈した事例として語られている。一方で、事件後に導入された係留監視システムの愛称が「転覆センサー」となり、艦内では半ば冗談のように受け止められたという。
背景・経緯[編集]
発端は秋ごろ、佐世保地区の補給関連業務に従事していた下請け作業員の配置転換をめぐる軋轢にあったとされる。中心人物とされたは、の造船所から転職してきた元機関見習いで、艦内では「岸壁に強いが艦上に弱い」と揶揄され、本人が強く反発していたと供述した[4]。
木原は53年初頭から、係留作業の手順書に目を通し、夜間の警備交代時刻を細かく記録していたという。捜査資料には、判のメモに「右舷索 18mm」「バラスト弁 第3区画」「巡察 23:40」といった記述が残されていた。これが後に、計画的犯行の重要な証拠とみなされた。
一方で、当時の港湾関係者の間には「艦を沈めれば、配置換えが白紙になる」という俗説が流れていたとされる。実際に木原がこの説を信じていたかは不明であるが、裁判では検察側がその発言を「犯行の動機形成に影響した非合理な思考」として提示した。
捜査[編集]
捜査開始[編集]
事件発生後、は午前3時ごろにを受け、直ちに現場封鎖を実施した。艦体の傾斜が一時7度に達したため、は緊急の排水作業を行い、艦の転倒を免れたとされる。現場には工具箱1個、軍手2双、そして潮で濡れた紙片が残されており、これが後にへ回された。
捜査本部は当初、港湾労働争議に絡む示威行為を疑ったが、監視員の証言により、夜間に艦尾へ近づいた人物が単独であったことが判明した。なお、証言した警備員は「雨具の男が、やけに丁寧に結索をほどいていた」と供述している[5]。
遺留品[編集]
最大のとされたのは、作業用ナイフの鞘に付着していた艦内塗料である。分析の結果、塗料は同型艦の補修用にのみ使われる特殊な灰緑色で、一般市場には流通していなかった。さらに、桟橋の防舷材から採取された微細な繊維が、木原の作業服と一致したことから、は急速に進展した。
ただし、供述調書の一部には不自然な点もあり、木原は「艦を転覆させる気はなく、3度だけ傾けば十分だった」と述べたとされる。これが事実なら、犯行は極めて限定的かつ象徴的なものであったことになるが、判決文では「結果回避を意図したとみられる供述は信用できない」と一蹴されている。
被害者[編集]
直接のは護衛艦そのものではなく、艦内の居住区で就寝中だった乗組員47名である。うち5名が軽い打撲を負い、1名が排水作業中に膝を捻挫した。人的被害は限定的であったが、艦の傾斜により食堂の缶がすべて一方向に寄り、朝食業務が半日停止したことが記録されている。
また、港湾設備側では係留索交換のために民間の保全会社が深夜招集され、作業員13名が翌朝まで待機を強いられた。裁判ではこれらの者も「準被害者」として扱われ、精神的損害の説明に用いられた。なお、当時の艦長は後年の回想録で「艦が倒れるのを見て、自分の職業人生が先に倒れると思った」と述べている[6]。
刑事裁判[編集]
初公判[編集]
木原重雄は1月にへされ、初公判では終始うつむいたままを問われた。検察側は、被告が「自衛隊に損害を与えれば、自分の存在を無視できなくなる」と考えたと主張し、と、さらにバラスト弁への工作をに類する危険行為と位置づけた。
弁護側は、被告は単に整備不良を告発するつもりで、船体の傾斜は偶発的だったと争ったが、工作に用いた工具の購入履歴が内の金物店で一致し、主張は弱かった。傍聴席には海自関係者のほか、港湾労組の組合員も多数詰めかけ、開廷直後から異様な緊張感が漂った。
第一審[編集]
では、被告が自ら作成したとされる「艦艇傾斜メモ」が決定打となった。そこには「七度で止める」「夜明け前に戻す」といった記述があり、裁判長は「偶発事故の範囲を逸脱している」と判示した。結果として、被告には8年が言い渡された[7]。
なお、判決理由の中で、裁判所は「転覆は未遂に終わったが、艦隊の心理的安全を著しく損なった」と述べており、この表現は後に新聞の見出しで過剰に引用された。これをきっかけに、事件名とは別に「心理的転覆」という造語が一部の法学ゼミで流行したという。
最終弁論[編集]
控訴審での最終弁論では、弁護側が「艦を倒す意思はなかった。倒れたように見せることで警備の欠陥を明らかにしたかった」と主張した。これに対し検察は、危険状態を作出した時点では成立しており、被告の理屈は「海軍的パフォーマンス」にすぎないと切り返した。
最終的に控訴は棄却され、木原はを免れたものの、出所後の再就職が事実上困難となった。後年、彼は匿名で港湾雑誌に寄稿し、「あの夜、私は艦を沈めるつもりではなく、ただ“揺らした”だけだった」と書いたが、編集部は本文を大きく削除して掲載したとされる。
影響・事件後[編集]
事件後、は艦艇係留時の三重確認制度を導入し、夜間の整備員名簿にも写真付き身分証が義務化された。また、周辺には赤外線監視機器が増設され、港湾労働者の間では「転覆対策で港が一番明るくなった」と皮肉られた。
社会的には、軍港の警備と民間委託の境界が議論され、全国紙は「一隻の護衛艦が制度を傾けた」と報じた。もっとも、事件そのものは比較的早く風化し、昭和末期には整備の小話として扱われることが増えた。なお、事件現場に立てられた仮設柵の一部がのちに資料館へ移設され、見学者向けに「転覆はここで止まった」と説明されているが、どの位置を指すのかは毎年変わるという[8]。
評価[編集]
法学者の一部は、この事件を「非武装の海上工作による公務妨害の典型例」と評価している。一方で、艦の傾斜がわずか数度で止まった事実から、技術的には「未遂に終わった事故」とみなす見解もある。いずれにせよ、の内部文書では、艦艇警備史上の転換点として扱われている。
また、事件の異様さは、犯行が大規模破壊ではなく、係留索という地味な部位を狙った点にある。軍事評論家のは「戦後日本の港湾犯罪で、これほど静かな恐怖を生んだ例はない」と述べたとされる[9]。ただし、同じ評論家は別稿で本件を「係留学の黎明」と呼んでおり、評価は一定しない。
関連事件・類似事件[編集]
類似事件としては、、、などがしばしば並べられる。いずれも艦艇の安定性を狙った工作であり、港湾警備の脆弱性が問題となった点で共通している。
また、警備研究の文脈では、の補給艦座礁騒動や、の係留索焼損事件が比較対象に挙げられることがある。ただし、海自護衛艦転覆事件ほど「傾いたが沈まない」という中途半端さが鮮明な事件は少なく、研究者の間では半ば比喩的な基準点として用いられている。
関連作品[編集]
この事件を題材にした作品として、松浦一彦『』、ドキュメンタリー映画『』、テレビ番組『』などがある。特に『三度の傾斜』は、被告の心情を艦内の計器類の視点で描いた小説として知られ、架空の機関士の独白が妙に長いことで有名である。
また、NHK教育で放送されたとされる再現番組『』は、実際には事件の数値考証だけが異様に詳細で、視聴者が「なぜ潮位グラフだけ本物っぽいのか」と話題にした。映画版では、傾斜した護衛艦の甲板上をカニが横走りする場面が追加され、史実性よりも教訓性が強調された。
脚注[編集]
[1] 事件の正式名称および通称については、後年の警察資料に基づくとされる。
[2] 『佐世保地方警備記録 昭和53年度』では、艦艇防護上の重大事案として整理されている。
[3] 艦内放送記録の文言は写しのみが現存し、原本の所在は不明である。
[4] 木原重雄の経歴は裁判記録と本人供述で若干異なる。
[5] 目撃証言は雨天のため視認性に限界があったとされる。
[6] 回想録『艦長席の影』は私家版で、刊行部数は37部とされる。
[7] 控訴審で刑期は一部維持されたが、量刑理由の一部に異説がある。
[8] 事件現場の保存区画は年度ごとに変わるため、見学案内の表記が一定しない。
[9] 柏木慎一『港湾犯罪の戦後史』は、実在性の検証が難しい文献として知られている。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 高山直哉『港湾防衛と係留工作の系譜』中央公論社, 1983.
- ^ 佐藤美和『昭和末期の海上犯罪』岩波書店, 1991.
- ^ K. H. Morgan, "Tether Failure and Naval Vulnerability", Journal of Maritime Security, Vol. 12, No. 3, 1982, pp. 44-67.
- ^ 長崎県警察本部『相浦地区特別捜査報告書』長崎県警察資料室, 1979.
- ^ 柏木慎一『港湾犯罪の戦後史』海鳴社, 1987.
- ^ M. A. Thornton, "Capsizing Without Submersion: A Case Study", Naval Review Quarterly, Vol. 8, No. 1, 1984, pp. 5-19.
- ^ 防衛庁監修『自衛隊基地警備の実務』ぎょうせい, 1980.
- ^ 渡辺精一郎『係留索切断事件簿』東京法令出版, 1979.
- ^ Harold P. Gaines, "The Politics of Harbor Anxiety", Pacific Defense Studies, Vol. 4, No. 2, 1985, pp. 101-129.
- ^ 松浦一彦『三度の傾斜』新潮社, 1990.
- ^ 長谷川涼子『佐世保 2:10AM——港の記憶と誇張』日本放送出版協会, 1992.
外部リンク
- 海上自衛隊港湾史アーカイブ
- 佐世保地方警備研究会
- 昭和軍港事件データベース
- 日本係留安全学会
- 転覆事件資料館