渡辺ゆきな
| 氏名 | 渡辺 ゆきな |
|---|---|
| ふりがな | わたなべ ゆきな |
| 生年月日 | 8月17日 |
| 出生地 | (旧・下彦根村) |
| 没年月日 | 11月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 伝統芸能研究家、筆録家 |
| 活動期間 | 1916年 - 1977年 |
| 主な業績 | 『所作記録綴』の編纂、忘却癖を前提にした稽古法の確立 |
| 受賞歴 | 彦根文化奨励賞(1941年)、紫綬芸能章(1969年) |
渡辺 ゆきな(わたなべ ゆきな、 - )は、の伝統芸能研究家。〇〇として広く知られる[1]。
概要[編集]
渡辺 ゆきなは、の伝統芸能研究家であり、特に筆録と口伝の「ズレ」を体系化した人物として知られる。本人は短期記憶に難を抱えていたとされるが、その不便さを逆手に取り、稽古の順序そのものを設計し直したという逸話が多い。
ゆきなはで生まれ、を卒業後すぐに「すぐ物事を忘れる」癖が研究上の武器になったと語られている。彼女の名は、古い所作を採集するだけでなく、採集した内容を翌日の再現に耐える形に変換する技法の代名詞となった。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
渡辺ゆきなは8月17日、(旧・下彦根村)に生まれたとされる。父は藩の記録方を離れたのち、帳簿の修繕を請け負う職人であり、幼少期から紙の匂いに慣れていたという[2]。
幼い頃、ゆきなは「覚える」より「戻る」を好んだと伝えられる。村の行事で一度聞いた口承を、数日後に誰よりも遅いタイミングで言い直してしまい、母に叱られたが、ゆきな自身はその遅れを“物差しの狂い”として観察していたともいう。
青年期[編集]
に入学したゆきなは、図画と速記の両方で成績が振るったとされる。ところが、卒業直前の実技試験では、練習した順番をそのまま再現できず、試験官からは「覚えていないのか」と詰問された[3]。
その場でゆきなは、見取り図の周囲に“戻りの矢印”を手書きし、再現の成否を「何回辿れば到達するか」という回数で測る方法を提案した。試験官は半ば呆れたものの、結果として合格させたとされる。この時から彼女の記録は、内容より導線を優先する癖がついた。
活動期[編集]
に研究助手としての小規模な師匠会に出入りを始めたゆきなは、採集した所作を「3層のノート」に分解して保存したとされる。すなわち、(1)手の形、(2)足の移動、(3)声の“間”である。特に“間”は、拍ではなく息の残量で書き起こしたとされ、紙面には妙に細かい数字が並ぶ。
彼女の代表的な方法は、忘却を前提として一回の学習を「11分×7回」で設計することにあるとされた。ある講習記録では、7回目にだけ最初の所作名を見せることで、翌週の再現率をからへ上げたと記されている[4]。なお、これらの数字は本人の筆跡を模した後世の写しから検証されたとされ、原本の有無は議論が残っている。
一方で、ゆきなは“忘れること”を口にしすぎたため、弟子の間では「先生は本当に稽古をしているのか」と疑われる時期もあった。そこで彼女は、あえて毎回同じ質問を弟子にさせることで、答えの揺れをデータとして扱うよう誘導したという。
晩年と死去[編集]
晩年のゆきなは、の整理作業を最後に公の講座から退いたとされる。退後は、彦根の自宅で“戻り矢印”を描く作業に没頭したが、近所の人々はその作業がどのように役立つのか理解しきれなかったともいう。
11月3日、ゆきなはで死去した。享年はとされ、葬儀では師匠会の代表が「彼女は忘れたのではなく、伝わり方を測った」と弔辞を述べたと記録されている[5]。
人物[編集]
渡辺ゆきなは、礼儀を重んじる一方で、細部にうるさいほどの執着があったとされる。本人の性格は「短気ではないが、数の計り方には妥協しない」と評され、弟子は帳面を閉じる前に必ず“最初の矢印”を再確認しなければならなかった。
逸話として有名なのは、初対面の相手に対して自己紹介の直後、必ず同じ場所へ向かって椅子を引き直す癖があったという点である。ゆきなは「覚えないからこそ、置き場だけは覚える」と説明したとされるが、周囲はそれを“演出”だと勘ぐったという[6]。
また、彼女はカレンダーに予定を書かず、代わりに紙片をずつ貼り替えることで日程を管理していたといわれる。この方式は、一度貼ると翌日も同じ貼り方になるため、忘却癖を補う仕組みとして機能したとされる。
業績・作品[編集]
ゆきなの最重要業績は、『所作記録綴(しょさき きろくづづり)』の編纂である。全、ページ数は合計を超えるとされ、各冊に「間の表」「戻りの表」「名の揺れ表」が付く点が特徴とされた。
彼女はまた、弟子向けの簡易教材『七回復唱抄(ななかい ふくしょうしょう)』を作成した。これは、口伝を一度で覚えようとせず、7回目にだけ“最初の言い方”を提示することで、声色の差異を学習させる仕組みであったという。講習会の案内状には、受講条件として「筆記具は黒のみ。青は禁止」と明記されていたとされる[7]。
このほか、内の小さな祭礼に残る所作を集めた『河辺の拍子簿』もあり、そこでは川の氾濫ではなく「音の濁り」を観測対象として記述しているとされる。なお、後年の研究者の一部は、この記述が実際の所作記録というより、ゆきな独自の“気分ログ”だった可能性を指摘している[8]。
後世の評価[編集]
渡辺ゆきなの評価は、賛否が入り混じっている。伝統芸能研究の側では、彼女が忘却の存在を前提にした学習設計を行った点が画期的だったとされる。特に、再現性を“内容”から“導線”へ移した発想は、のちの所作教育にも影響したと記される。
一方で批判としては、ゆきなの方法が「忘却をデータ化することで、肝心の芸の意味が痩せる」とする意見があった。弟子の一部は「先生のノートは正確だが、舞台の熱は別にある」と語ったとされる[9]。
また、後年の出版では『所作記録綴』の引用が過剰になり、「ゆきなの数値だけが正解」という空気が一時的に生まれたとされる。もっとも、ゆきな本人は数値の絶対化を嫌い、ノートの余白に“忘れてよい”と書き残したという伝承も残っている。
系譜・家族[編集]
渡辺ゆきなには、若い頃に同じ師匠会で学んだ男性・渡辺(旧姓:中原)を通じた縁があったと語られているが、具体的な婚姻年は資料によって異なる。ある系譜写しでは、に養子縁組があったとされる一方、別の写しでは“同居”にとどまったとされている[10]。
家族構成としては、弟子筋にあたる親類が多く、彦根で暮らす親戚の家を巡回して稽古を配ったとされる。ゆきなの後半生を支えた人物として、筆録係の「橘(たちばな)みすず」という女性がしばしば名前を挙げられる。ただし、みすずの姓の表記には揺れがあるとされ、彼女が実在の血縁なのか、単なる役職名なのかは不明である。
なお、晩年の手帳には、訪問予定ではなく「わたしの戻り先」というメモが残っていたとされる。そこにはが記されており、彼女が人と場所のつながりを同時に保とうとしていたことを示すものとして引用されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺ゆきな『所作記録綴・自筆抄』彦根文化記録室, 1949.
- ^ 中原清次『彦根師匠会の筆録史』滋賀芸能館出版, 1958.
- ^ 佐伯千代子『声の間を測る——復唱教育の前史』日本芸能教育学会紀要, Vol.12第3号, 1963. pp.45-71.
- ^ Matsuda, R. 『Forgetting as Method in Japanese Apprenticeship』Journal of Performative Memory, Vol.4 No.2, 1972. pp.101-129.
- ^ 山内啓介『数字で踊る人——伝統稽古の統計化』講談文化新書, 1980.
- ^ 橘みすず(編)『七回復唱抄註解』彦根文庫, 1967.
- ^ 北川美鈴『河辺の拍子簿の真意』月刊民俗研究, 第27巻第1号, 1976. pp.12-36.
- ^ Dawson, E. 『On Redirection Notes and Instructional Paths』International Review of Folk Pedagogy, Vol.9 Issue 4, 1981. pp.220-241.
- ^ 「紫綬芸能章受章者略伝」芸能勲章記録局『勲章年鑑』, 1970. pp.33-34.
- ^ ロングフィールド, J.『忘却の倫理——導線設計と学習』(邦訳)芸道社, 1985.
外部リンク
- 彦根文化記録室アーカイブ
- 所作記録綴デジタル閲覧
- 滋賀芸能館 研究者索引
- 日本芸能教育学会(架空)
- 紫綬芸能章データベース