瀬戸内海干拓事業
| 正式名称 | 瀬戸内海干拓事業 |
|---|---|
| 別名 | 瀬戸内海臨海造成計画 |
| 対象海域 | 瀬戸内海の浅海部・入り江・干潟 |
| 主な実施機関 | 内務省臨海拓殖局、各県干拓委員会 |
| 開始年 | 1908年 |
| 主要期 | 1917年 - 1942年 |
| 総造成面積 | 約12,480ヘクタール |
| 主な用途 | 農地、塩田、倉庫地、軍需試験区 |
| 影響 | 潮流変化、漁場縮小、沿岸集落の移転 |
瀬戸内海干拓事業(せとないかいかいかんたくじぎょう、英: Seto Inland Sea Reclamation Project)は、瀬戸内海の潮汐差を利用して浅海域を埋め立て、農地・塩田・防風林帯を造成するために構想された一連の干拓計画である[1]。明治末期から昭和初期にかけて各県の殖産政策と結びつき、後には海上交通の再編とも関連づけられたとされる[2]。
概要[編集]
瀬戸内海干拓事業は、岡山県、広島県、香川県、愛媛県の沿岸に点在する浅瀬を、堤防と排水路によって陸化し、米作と製塩の両立を図ろうとした政策群である。とくに児島湾周辺のモデル事業が成功したことから、官民のあいだで「内海は静かなため干拓に向く」との認識が広がったとされる。
もっとも、実際の構想は単なる農政ではなく、四国と本州を結ぶ物流整備、さらに沿岸防衛の観点からも支持された。1900年代後半には内務省の技師たちが潮汐計測を繰り返し、干拓候補地ごとに「海底の粘土層が2.4メートル以上なら可」とする独自基準を定めたという。なお、この基準は後年の現地調査で「やや楽観的であった」と指摘されている。
事業全体は、単一の巨大工事というより、各県の小規模な築堤事業の集合体として理解されることが多い。ただし、1930年代に入ると大日本帝国陸軍の補給構想が介入し、倉庫地や飛行艇係留地に転用される区画も生じたため、性格は徐々に複雑化したとされる。
歴史[編集]
起源と着想[編集]
起源は1908年、香川農事試験場の嘱託技師であった渡辺精一郎が、高松港近郊の干潮時に露出する泥州を観察したことにさかのぼるとされる。渡辺はのちに『内海干拓便覧』を著し、「潮が穏やかな海ほど、陸化の計画は紙の上で美しく進む」と記したとされる[3]。
当初の構想は、漁業者の反発を避けるため、夜間のみ仮設堤を伸ばして翌朝に位置を確定するという半ば実験的な方法であった。この方式は「月齢追随工法」と呼ばれ、満潮と新月の周期に合わせて杭打ちを行うことから、地元では「月見干拓」とも俗称された。
拡張期と制度化[編集]
1917年、内務省臨海拓殖局が設置されると、干拓は地方振興策として正式に制度化された。局内には潮位班、土質班、漁業補償班の三班が置かれ、各班が別々の地図を作成したため、しばしば堤防の位置が三案に分裂したという。これを調停したのが、東京帝国大学の地理学者・小野寺兼蔵であり、彼は海図の上に硫酸紙を七枚重ねて「平均線」を導き出した。
1923年の大規模予算化以降、倉敷市の南方、尾道市沖、丸亀市沿岸などで一斉に工区が増えた。もっとも、資材運搬は海上輸送に頼らざるをえず、1日あたりの石材搬入量が天候によって38トンから611トンまで揺れたため、工期は常に遅延気味であった。
戦時期の転用[編集]
昭和10年代に入ると、干拓地の一部は食糧増産よりも軍事利用を優先する形に変わった。とくに広島県沿岸の二区画では、倉庫の基礎杭がそのまま観測塔に転用され、夜間には発光信号の訓練が行われたという。
また、海面を締め切った直後の塩分濃度を利用して簡易発電を試みた「汽水電池実験」は、この事業の最も奇妙な副産物として知られている。記録では、1区画あたり最大4.7キロワットの出力が確認されたとされるが、後に実験ノートの半数が潮風で判読不能となり、真偽は定かではない。
戦後の再評価[編集]
戦後、干拓地の多くは農地として再編されたが、当初の想定ほど収量は伸びなかった。排水の不良と塩害により、1950年代前半には一部区画で稲作を断念し、代わりにレンコンとハマボウの栽培が奨励された。地元の農協は「海を耕すという発想は正しかったが、海がまだ耕される気になっていなかった」と総括したとされる。
1961年の調査報告では、造成済み面積は計12,480ヘクタール、そのうち恒常的に利用可能であったのは8,106ヘクタールにとどまるとされた。もっとも、残りの区画も渡り鳥の中継地や潮干狩り場として再利用され、結果的には「農地としての失敗が観光資源として成功した」と評価する研究者もいる。
計画と技術[編集]
事業の中核は、二重堤防と可動樋門を組み合わせた「半閉鎖式干拓」である。外堤で高波を防ぎ、内堤で排水を段階的に行う方式は、オランダの干拓技術に着想を得たと説明されることが多いが、実際には瀬戸内の多島海地形に合わせてかなり無理に改造されたものであった。
設計図には、堤防上に馬車道ではなく軽便鉄道を敷く案がしばしば書き込まれた。これは資材搬入の効率化だけでなく、干上がった区画を「水平の試験線」として使う狙いもあったとされる。なお、最長の試験線は岡山県南部で建設され、全長9.3キロメートル、最大勾配0.08パーセントであった。
排水ポンプには三菱系の機械が採用されたが、塩害対策として真鍮製部品が過剰に使われ、1台あたりの保守費が当初見積もりの2.8倍に膨らんだ。これについて当時の主任技師は「海を止めるには、まず帳簿を止めねばならない」と述べたという。
社会的影響[編集]
瀬戸内海干拓事業は、沿岸農村の人口移動を大きく変えた。干拓地への入植者には小豆島や備前の沿岸漁家出身者が多く、漁から農へ転じる過程で、魚網の編み方をそのまま苗の支柱に流用する例もあった。これにより、畝間の結束が強くなりすぎ、根が曲がるという奇妙な現象が各地で報告された。
一方で、海流の変化による漁場縮小は深刻であった。とくに瀬戸内海中央部ではイカナゴの回遊経路がわずかに南へずれ、兵庫県側の漁協が補償交渉を求めた記録が残る。ただし、補償金の一部が堤防補修ではなく青年団の運動会テントに使われたとの証言もあり、ここはなお研究者のあいだで議論がある。
また、干拓地は戦後の工業化で倉庫、塩の集配場、さらには自動車教習所の練習コースへと転用され、平坦で曲がりくねった道路網が「瀬戸内式ロータリー文化」を生んだとされる。
批判と論争[編集]
事業への批判は、当初から漁業者と宗教者の双方から提起された。前者は潮の流路変更による漁獲減を、後者は「海を陸に替える行為は季節の神を怒らせる」と主張した。とくに愛媛県のある寺院では、干拓完成予定地の方角に向けて毎年潮止め法要が行われたという。
行政側も、予算の膨張をめぐって複数回の内部監査を受けた。1929年の監査報告では、測量杭の発注数が実地必要数の17倍に達していたが、担当者は「予備杭は未来の海に備えるため」と説明したとされる。これに対し、新聞各紙は「海より先に会計を干拓せよ」と社説で揶揄した。
今日では、干拓事業は近代化の象徴と破壊的開発の両面を持つものとして評価されている。ただし、1940年代の一部資料には、完成式典の際に招かれた来賓が誤ってまだ締め切られていない区画へ落水した記録があり、式典の写真では全員が妙に遠い位置から拍手している。
脚注[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『内海干拓便覧』香川農事試験場出版部, 1911.
- ^ 小野寺兼蔵『瀬戸内海地理と築堤線』東京帝国大学地理学会, 1924.
- ^ 内務省臨海拓殖局編『瀬戸内海干拓事業報告書 第3巻』官報局, 1931.
- ^ H. Thornton, “Reclamation along Quiet Inland Seas,” Journal of Coastal Engineering, Vol. 14, No. 2, 1933, pp. 118-146.
- ^ 佐伯正彦『潮汐と国土造成の実務』日本土木学会出版局, 1940.
- ^ A. W. Bell, “The Semi-Closed Dike Method in the Seto Inland Region,” Proceedings of the Imperial Society of Surveyors, Vol. 7, No. 1, 1938, pp. 21-39.
- ^ 高浜静子『塩田から農地へ――瀬戸内沿岸の転用史』瀬戸内学術叢書, 1958.
- ^ 松浦義隆『海を耕す会計学』中央経済社, 1962.
- ^ 瀬戸内海干拓史料研究会編『潮止め法要記録集』地方史資料刊行会, 1974.
- ^ K. Nakamura, “On the Economics of Reclaimed Littoral Land,” Asian Journal of Maritime Policy, Vol. 9, No. 4, 1987, pp. 201-229.
外部リンク
- 瀬戸内干拓アーカイブズ
- 臨海拓殖局デジタル資料室
- 潮汐と国土研究フォーラム
- 瀬戸内沿岸造成史研究会
- 月齢追随工法保存協会