瀬戸内海沿岸の方島
| 名称 | 瀬戸内海沿岸の方島 |
|---|---|
| 読み | せとうちかいえんがんのほうとう |
| 分類 | 人工地形・準離島 |
| 成立期 | 1908年頃 |
| 主な分布 | 広島県、香川県、愛媛県、岡山県沿岸 |
| 主提唱者 | 渡海地理院の安芸田清次郎 |
| 特徴 | 方角を示すため四辺形に整形された岬・埠頭・干潟 |
| 関連政策 | 灯台補助金制度、潮待ち港整備令 |
| 別称 | 角島、方位島、船戻り島 |
| 統計 | 1937年時点で確認数17か所 |
瀬戸内海沿岸の方島(せとうちかいえんがんのほうとう)は、に面する沿岸部において、潮位差と航路標識の保守を目的として半島状の陸塊を人工的に「島化」した地形群の総称である。明治末期にの測量技師たちが提唱した「方位固定式離島政策」に由来するとされる[1]。
概要[編集]
瀬戸内海沿岸の方島は、の沿岸に点在するとされる、角張った輪郭を持つ小規模な島状地形の総称である。実際には完全な島ではなく、や埋立、切通しによって「四つの見通し」を確保した土地が多いとされる[2]。
この概念は、近代港湾整備の過程で誕生したと、漁民の間にあった「島は角を持つほど風を受け流す」という経験則が結びついて生まれたとされる。特にの塩飽諸島周辺では、方島は船乗りの目印であると同時に、潮待ち時の雑談の基準点にもなっていたという。
起源[編集]
安芸田清次郎の「四辺地図」[編集]
起源として最もよく引用されるのは、に付属の測量技師であった安芸田清次郎が作成した『四辺地図試案』である。安芸田は、からにかけての海岸線が「見た目に入り組みすぎて初心者船員の精神を消耗させる」と主張し、岬を直線化し、岬先端を台形に削ることで航路を覚えやすくする案を出したとされる[3]。
この案は当初、海軍水路部から「地形への過剰な礼儀」として退けられたが、期に入ると港湾倉庫の背後地確保とあわせて再評価された。結果として、島でも岬でもない半端な陸地が「方島」と呼ばれるようになったのである。
潮待ち港と方角税[編集]
、の牛窓周辺で、停泊時の方角確認作業に対して微額の「方角税」を課すという奇妙な慣行が生まれた。これは港ごとの見張り台維持費を名目にしたものだが、実態は方島の上に建てられた木造標柱の更新費であり、税収の約43%が方角表示板の塗り替えに使われたと記録されている[4]。
この制度により、方島の住民は毎月一度、島影の直角度を報告する義務を負ったとされる。なお、報告書の余白には船頭の筆跡で「今日は北西がよく見える」といった雑記が残されていることがあり、研究者の間では生活史資料としても珍重されている。
構造と分類[編集]
方島は地形的特徴により、概ね三類型に分けられる。第一に、自然の岬を削り出して正方形に近づけた「削角型」、第二に、埋立地の外周を防波堤で囲い、上空から見ると定規で引いたように見える「囲角型」、第三に、もともと小島であったものを港湾拡張の都合で一度つなぎ、再び水路で切り離した「反復分島型」である[5]。
特にの宇和海側では、冬季の季節風に備えて港の背後に方島を置く設計が流行し、漁協が独自に「南東向きの角は鯛が好む」とする経験則を採用したことがある。ただし、この経験則については統計的裏づけがなく、後年の調査でも「たぶん気分の問題」と結論づけられている。
歴史[編集]
明治後期から大正期[編集]
後期には、方島は主として灯台と税関の補助施設として扱われた。からにかけて、の一部港湾で試験的に「角見式護岸」が採用され、海岸線を二十度単位で整理する工事が行われたという。これにより、漁船の接岸事故は三年間で12件減少したが、方角を失った海鳥が倉庫の屋根に集まるようになり、逆に糞害が増したと報告されている[6]。
また、8年には港湾局が「方島は景観と航路の双方に資する」とする通牒を出したとされ、各地の町村が競うように台形の小島を造成した。この時期の流行は、後に「港のモダン建築」と呼ばれることになる。
昭和期の標準化[編集]
初期になると、方島は地図記号の問題として再編された。従来は丸印で表記されていたものが、の地形表現委員会により「角印」に改められ、測量図の余白がやや節約されたという。これは全国で年に約8,400枚印刷される沿岸図の用紙削減に寄与したとされる[7]。
一方で、標準化に反発する漁民も多く、のある組合では「島に角をつけると神が滑る」として役場前に木杭を26本立てた。これが後の方島保存運動の原型になったとみられている。
戦後の再解釈[編集]
戦後には、軍事利用よりも観光・教育用途が前面に出るようになった。にはが沿岸地理教材の中で方島を「人工と自然の境界を学ぶ好例」として紹介し、修学旅行で訪れる学校が増加した。特に周辺では、方島を三つ巡ると潮の満ち引きが理解できるという半ば迷信めいた学習法が広まり、地元の旅館が「方島めぐり弁当」を販売した記録がある。
ただし、1960年代以降の大型港湾化によって多くの方島は失われ、現在確認されるものは、護岸に名残をとどめる小規模なものが中心である。研究者の一部は、現存数を「実質11、感覚上19」と数えるが、この数え方には異論もある。
社会的影響[編集]
方島の概念は、港湾設計だけでなく、沿岸住民の方位感覚にも影響を与えたとされる。小学地理では、児童に「西風の日に角を数える」訓練が行われ、これが後のの初期会員に妙に几帳面な人物が多い理由だという説もある。
また、商業面では、方島周辺の市場が「角入り干物」「直角わかめ」といった商品を売り出し、観光客の土産物として定着した。中でもの某港で売られた「八十七度せんべい」は、割れ方がほぼ直角であることから話題になり、1978年には1日平均1,200袋を売ったと記録されている。
なお、地方議会では方島の保存をめぐって「景観資源」か「海の邪魔者」かの議論がたびたび起こり、と付記された議事録が今も散見される。
批判と論争[編集]
方島をめぐる最大の論争は、それが本当に独立した島と呼べるかという点にある。地質学者の一部は、方島の多くは実質的に岬であり、「島」とは行政上の都合にすぎないと批判した。これに対し保存派は、島であるかどうかは潮目と住民の気分で決まると反論した[8]。
また、にで行われた港湾改修では、方島を保護するために新しい防波堤を四角く設計したところ、かえって波が内部で回転し、洗濯物が勝手に畳まれるという奇妙な現象が起きたとされる。この件は当時の地方紙で大きく扱われたが、公式報告書には「概ね良好」とだけ記されていた。
さらに、方島の命名権をめぐっては、民間の地名研究会が「方島」のほか「角島」「面島」「矩島」を商標登録しようとした事件もあり、これは関係者を困惑させた。
現代の方島研究[編集]
現在では、方島は沿岸景観の保存対象として、また近代港湾史を読み解く資料として研究されている。の沿岸文化研究室では、方島の角度をGPSと古地図の双方から測定する「角度考古学」が進められており、誤差が3度以内に収まると「由緒ある方島」と判定されるという[9]。
一方で、自治体の観光PRでは方島がしばしば「映える岬」として紹介され、実態以上にロマンチックな扱いを受けることが多い。だが、地元の古老の証言によれば、真に価値があるのは景色ではなく、潮風の中で方角を言い当てるときの誇らしさであるという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 安芸田清次郎『四辺地図試案と沿岸角形論』渡海地理研究会, 1911.
- ^ 久保田妙子「瀬戸内沿岸における方島の成立」『港湾史学』Vol.12, No.3, pp. 41-68, 1938.
- ^ 内務省港湾局『潮待ち港整備と方島配置要覧』官報附録, 1920.
- ^ S. H. Rowland, "Angular Littorals of the Inland Sea", Journal of Maritime Topography, Vol. 7, No. 2, pp. 113-139, 1956.
- ^ 河合俊策『地図記号の政治学――角印はなぜ生まれたか』北斗書房, 1964.
- ^ Margaret E. Hollis, "Shoreline Rectification and Civic Identity", Coastal Studies Quarterly, Vol. 19, No. 4, pp. 201-226, 1979.
- ^ 瀬戸川一郎『方角税の社会史』海鳴社, 1984.
- ^ 田中みどり「宇和海における反復分島型方島の分布」『地方地理研究』第28巻第1号, pp. 9-31, 1997.
- ^ 広島大学沿岸文化研究室編『角度考古学入門』瀬戸内新報社, 2008.
- ^ Robert T. Finch, "The Peculiar Case of Hoto Islands", Transactions of the Eastern Archipelago Society, Vol. 33, No. 1, pp. 7-29, 2015.
外部リンク
- 瀬戸内沿岸地形アーカイブ
- 角島保存連盟
- 潮待ち港資料館デジタル展示
- 方位考古学会
- 港湾古地図ライブラリ