片倉澄江
| 氏名 | 片倉 澄江 |
|---|---|
| ふりがな | かたくら すみえ |
| 生年月日 | 3月17日 |
| 出生地 | |
| 没年月日 | 11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗音響研究者、記録技術者 |
| 活動期間 | 1924年 - 1965年 |
| 主な業績 | 『街角の霊気』理論と「針金共鳴台帳」の整備 |
| 受賞歴 | (1962年)、日本音響学会功労賞(1958年) |
片倉 澄江(かたくら すみえ、 - )は、の民俗音響研究者。『街角の霊気』の発見者として広く知られる[1]。
概要[編集]
片倉 澄江は、日本の民俗音響研究者であり、街や路地に残るとされた微弱な反響(通称「街角の霊気」)を、録音装置ではなく金属線と定規を用いて“図形”として記録する方法を体系化した人物である。彼女の研究は、後に公共施設の防音基準や地域行事の音順(きき順)研究へ波及したとされる。
片倉はの港湾倉庫で育ち、波の音を数える癖から出発したとされる。とくに1929年、当時の海運会社の簡易測定所で、風向と反響の相関を「度ではなく糸の撚り回数」で表す独自の換算表を作成し、研究者の間で注目を集めたという[2]。ただし、この換算表が実在したかどうかについては、同時代資料の突合が十分ではないとも指摘されている。
生涯[編集]
片倉澄江は3月17日、に生まれた。父は倉庫の見張り番、母は行商で、家には測量用のコンパスと古い和時計があったと伝えられる。澄江は幼少期から、時計の秒針が鳴らす音を「距離の単位」とみなし、砂利の上に糸を張って反響が消えるまでの時間を計測した。
青年期には、の工業補習校に通い、のちにの前身にあたる夜間講座で、図学と計算術を学んだとされる。彼女が初めて「音」を対象として扱ったのは、夜店の太鼓が通りの途中で“折り返す”現象を見たことがきっかけだったとされ、澄江は当時、折り返し点を「三尺八寸の影縫い」と呼んだ。
活動期に入ると、澄江は(のちへ統合されたとされる)に参加し、1924年から1965年まで、全国の路地と寺社の回廊で調査を行った。調査の際には、録音を嫌い、針金を張った“共鳴台”と、壁の材料(漆喰、石灰、木摺り)ごとに作った微分目盛りを用いたという。特に1937年の調査では、回廊の振動数を「1分間に爪が鳴る回数」で換算し、結果として『街角の霊気』の初稿が完成したと報告されている。
晩年は、研究成果を若手へ残すことに注力し、1965年に現役を退いた。晩年の澄江は「測るとは、消える前に確かめることだ」と語り、弟子たちに針金共鳴台帳の保存規則を厳格に教えたとされる。澄江は11月2日、内で療養中に急逝し、68歳と記録された[3]。なお、年齢の換算に関しては異説があり、67歳とする記事も存在する。
人物[編集]
澄江の性格は、几帳面で、同時に異様なまでに細部へ執着した人物として描かれる。彼女は一つの路地を調査するのに「合計7回の横歩き」と決めていたとされ、歩幅がわずかに変わるだけで反響の輪郭が違って見えると述べたという。弟子のは、澄江が採取した砂塵の粒径(平均0.24ミリメートル)まで帳簿に書き込む姿を「研究というより儀式」と表現している[4]。
逸話として有名なのは、澄江が調査車の時計を必ず1日につき14秒進ませていたという話である。これは、路地の反響が「朝の最初の息」と同期するという“民俗的仮説”に基づいた調整だったとされる。ただし、その仮説が科学的な意味を持つかどうかは、当時から疑問視されてもいた。
また、澄江は対外的には穏やかで、会議の場でも声を荒げることはなかったとされる。一方で、彼女の机には鍵のかかった引き出しがあり、そこに「共鳴台帳の暫定値(絶対に公開しない)」が入っていたという証言がある。この“暫定値”が何を指すかについて、後世の研究者は推測にとどまっている。
業績・作品[編集]
澄江の代表的な業績は、反響現象を物理量としてではなく、民俗的な“順序”として扱う方法論である。彼女は、壁材ごとの反射の“癖”を「目盛りの癖」と呼び、針金共鳴台に取り付ける定規の角度を0.5度刻みで管理したとされる。こうした手法により、同じ場所でも行事の時刻や掃き方によって反響の印象が変わることが説明可能になるとされた。
作品としては、調査記録を整理した『街角の霊気――路地反響の図帳』(1939年初稿、1941年刊行)が挙げられる。書中では、路地の長さをメートルではなく「障子の枚数換算」で示す箇所があり、読者には不便だが“その場の実感”を優先した表現だとして擁護されている。さらに澄江は、音の強さをデシベルではなく「提灯の揺れ指数」(提灯の高さ3尺、揺れ半径1寸のときの値を基準)で示したとされる。この指数は後に一部の自治体の観光パンフレットにも流用されたと噂されている。
もう一つの代表作『針金共鳴台帳・第一輯(港の部)』では、の倉庫群における“風切り反響”を、倉庫番号1201〜1283の範囲で整理したとされる。ただし、当該の倉庫番号は当時の公式台帳と一致しないという指摘もあり、ここにフィクションが混入した可能性があるとされる[5]。
後世の評価[編集]
片倉澄江は、民俗音響研究の基礎を築いた人物として評価される一方、方法論の奇抜さゆえに批判も受けた。肯定的な見解では、彼女の記録体系が「現場の再現性」を高め、後の地域文化アーカイブに貢献したとされる。実際、澄江の提案した共鳴台帳の保存則は、の保存管理細則に参考として引用されたとされるが、引用箇所の原典確認は完全にはなされていない。
一方で、科学的妥当性に疑義を呈する研究者は多い。たとえば、彼女が示した「朝の息と反響の同期」という記述は再現性が乏しいとされ、追試では同様の相関が得られないことが報告されている。ただし、この追試が澄江の“1日14秒進ませた時計”の再現を含んだかどうかが争点になり、結果の解釈に揺れが出たとされる。
それでも、澄江の残した図形記録は、のちに現代のフィールドレコーディング文化へ間接的な影響を与えたと見る向きがある。特に、路地の音の“順番”を重視する姿勢は、音風景(サウンドスケープ)研究の市民参加型調査と相性が良かったとされる。
系譜・家族[編集]
片倉澄江の家系は、港湾周辺の小職と、寺社の修繕を請け負う手仕事集団が交じり合って形成されたとされる。澄江の父はといい、澄江が測量器に触れることを許した最初の人物だったとされる。母のは行商の帳簿付けが得意で、澄江の“数字への癖”は母からの影響であると語られている。
澄江の姉にがいる。登美は機織りの職人であり、澄江の針金共鳴台に使われた“撚りの設計”は、姉の織り糸の管理技術が転用された可能性があると推定されている。澄江には子がいなかったとされるが、弟子を“家の続き”として扱い、簡易な養家の形式をとっていたという証言が残る。
また、澄江の死後、台帳類の一部がの旧倉庫に保管され、1950年代に火災の噂が流れたことがある。もっとも、完全に焼失したかどうかは不明で、いくつかの欠頁が見つかったという報告がある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 片倉澄江『街角の霊気――路地反響の図帳(初稿)』私家版, 1939.
- ^ 片倉澄江『街角の霊気――路地反響の図帳』日本民俗音響出版, 1941.
- ^ 渡辺精一郎『共鳴台帳の保存則と再現性』港湾音響叢書, 1952.
- ^ 田中順三「提灯の揺れ指数による街角反響の分類」『日本音響学会誌』第12巻第4号, 1958, pp. 211-236.
- ^ M. A. Thornton「Folk Acoustics and Indexical Measurement」『Journal of Historical Sound Studies』Vol. 7 No. 2, 1960, pp. 33-57.
- ^ 佐伯民雄『路地の順序学――音の“きき順”研究』東都学術書房, 1963.
- ^ Catherine R. Weller「Revisiting the ‘Breath Synchrony’ Hypothesis in Urban Echoes」『Archives of Applied Ethnomusicology』Vol. 3 No. 1, 1966, pp. 1-18.
- ^ 【文化財保護委員会】『保存管理細則(参考資料編)』文化財資料出版, 1962.
- ^ 鈴木範雄「横浜倉庫番号と図帳の整合性」『地域記録論叢』第5巻第1号, 1967, pp. 70-95.
- ^ 片倉澄江『針金共鳴台帳・第一輯(港の部)』港北書房, 1940.
外部リンク
- 民俗音響アーカイブ(仮)
- 針金共鳴台帳デジタル閲覧室(仮)
- 横浜港の路地反響レポート(仮)
- 街角の霊気研究会(仮)
- 日本音響学会 歴史文書庫(仮)