片貝樹
| 分類 | 樹木文化・民俗植物 |
|---|---|
| 起源 | 18世紀後半の越後地方 |
| 主産地 | 新潟県片貝周辺、長野県北部、山形県南部 |
| 用途 | 庭園樹、護符、年中行事、婚礼装飾 |
| 代表的形状 | 双幹連結型、環状裂皮型、舟底根型 |
| 保護制度 | 片貝樹保存条例(昭和41年制定) |
| 関連団体 | 片貝樹研究会、越後民俗樹木協議会 |
| 記念日 | 毎年10月第2日曜日の「樹合わせ祭」 |
片貝樹(かたがいじゅ)は、の地域を起点として成立したとされる、対向する二本の幹が根元で連結したまま成長する樹木群、およびそれを核に発展した栽培・祭礼・護符文化の総称である[1]。古くはの記録にのみ見える名称であり、現在では園芸学と民俗学の境界領域に属する概念として知られている[2]。
概要[編集]
片貝樹は、通常のよりも幹の分岐と接合が強く現れ、成木になると二本の樹が互いを支えるように見えることから名付けられたとされる。園芸上は単一種の変異ではなく、植栽時の接ぎ木と土壌条件、さらに冬季の積雪圧が複合して形成される現象として扱われることが多い[1]。
一方で、民俗学ではこれを「別れたものが再び根で結ばれる」象徴として解釈し、地方の婚礼や相続儀礼に用いられてきたという説が有力である。なお、期の郡役所文書には、片貝樹の枝を切ると「倉が二度鳴く」とする禁忌が記されており、これが後世の迷信商法に利用されたとの指摘がある[2]。
歴史[編集]
成立以前の越後山間部[編集]
片貝樹の原型は、後期に周辺の寺社林で見られた双幹性のに求められることが多い。とくに年間、飢饉対策として苗木を密植した結果、根が地表近くで癒着した個体が増え、これを村人が「片貝」と呼んだという伝承がある[3]。
この呼称は、片側だけが欠けた貝殻に似ることから生じたとも、川沿いの片岸の斜面で育つ樹形を指したともいわれる。ただし、の後年の調査では、当時の土質はむしろ通気性が高く、自然癒着だけでは説明しにくいとされ、苗木師の手作業による「結び植え」が存在した可能性が示された。
明治期の学術化[編集]
20年代になると、林学科のが越後巡検の記録を発表し、片貝樹を「半人工・半民俗の樹形群」と位置づけた。渡辺はの報告書で、樹皮の接触痕を測定し「平均23.6ミリメートル、年輪偏差1.8」と記録したが、採取標本の半数に番号の振り直しがあり、後に助手の手書きによる修正ではないかと議論された[4]。
この時期、の地方博覧会でも片貝樹の苗が展示され、根を結んだ二本立ちの姿が「家内安全」と結びつけられた。とくにで開かれた臨時植木市では、来場者の約17%が護符目的で購入したとの商店組合の記録が残るが、当時の出納簿が焼失しているため、現在では推定値として扱われている。
戦後の再定義[編集]
後、住宅難による・周辺の宅地造成で片貝樹の古木が急減し、保全運動が起こった。これを主導したのは司書のと、園芸家のであるとされ、両名は31年に『片貝樹保存要覧』を自費印刷した[5]。
要覧では、片貝樹を単なる珍樹ではなく「地域共同体の記憶を固定する装置」と定義し、各家が一本ずつ植えることで祭礼順序を可視化する制度を提案した。この提案は一部の自治会で採用されたが、枝ぶりの良い個体ほど盆踊りの会場中央に移植され、結果として道幅が狭くなるという問題も生じた。
形態と分類[編集]
片貝樹は、研究者の間では大きく、、の三型に分類されている。双幹連結型は最も典型的で、若木期に二株を20〜40センチメートル間隔で植え、三年目の寒波で幹を寄せると発生しやすいとされる[6]。
環状裂皮型は、積雪で樹皮が環状に裂けた後、内側に形成層が再接合したもので、見た目がもっとも派手であることから、しばしば婚礼写真の背景に使われた。舟底根型は、根が片側に偏ることで地面に沈み込むように見える型で、流域の湿地で多い。なお、の調査では、1958年から1967年にかけて登録された標本214本のうち、実際に学術的な意味で同一系統と確認されたものは68本にすぎず、残りは「見た目がそれっぽいだけ」であったという。
祭礼と民間信仰[編集]
片貝樹は単なる植物ではなく、地域の年中行事に深く関わった。毎年10月第2日曜日に行われるでは、左右の幹に色違いの縄を巻き、片方には、もう片方にはを結んで豊凶を占う。札が風で絡む年は「商いが伸びる」とされ、の商工会が1974年から統計を取り始めたところ、売上増加年との一致率が62%に達したという[7]。
また、婚礼においては、新郎新婦の実家から持ち寄った枝を片貝樹の根元で結ぶ「根結び」の習俗が広まった。これを怠ると「家が片方だけ先に太る」といって嫌われたが、実際には隣家との日照争いが原因であり、民俗的説明は後付けであるとの見方もある。なお、50年代には観光用に樹液入り飴「片貝樹の滴」が販売され、1シーズンで約38万個を売り上げたとされるが、成分表には単なる麦芽糖と香料しか記載されていない。
社会的影響[編集]
片貝樹は、園芸文化において「複数の個体が共存する美」を強調する概念として受容され、特に戦後の団地庭園設計に影響を与えた。の一部会では、片貝樹式の対向植栽を採用した公園がで試験的に整備され、児童の迷子率が14%低下したという報告がある[8]。
一方で、保護が進むにつれ古木の所有権をめぐる争いが増え、において「片方の幹のみを相続できるか」が争点になったとする判決要旨がよく引用される。ただし、実際の事件番号は一致せず、後年の地方紙が記事を混同した可能性が高い。こうした曖昧さにもかかわらず、片貝樹は「分かれていても同じ根を持つ」という比喩として、教育現場や自治体の標語に広く流用された。
批判と論争[編集]
片貝樹をめぐっては、学術的実在性に関する批判が根強い。とくにに誌上で発表されたの論文は、登録標本の採集地がほぼすべて半径9キロメートル以内に集中していることを指摘し、「文化的人工物を樹種と誤認した可能性」を示唆した[9]。
これに対し、片貝樹研究会は「集中しているのは伝承の核がその範囲に収束していたため」と反論したが、同会が配布した普及冊子の表紙写真が別種のシダであったことから、かえって疑念を深めたとされる。さらに、観光振興期に売られた「片貝樹の種」は、分析の結果、ほとんどがとの混合物だったことが明らかになり、土産物店との間で軽微な返金騒動も起きた[10]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『越後林相誌 第三輯』東京帝国大学出版会, 1894年.
- ^ 高瀬みどり・有沢宗平『片貝樹保存要覧』私家版, 1956年.
- ^ 小林澄江『越後の結び植えと民俗樹木』新潟民俗叢書, 1968年.
- ^ 田所一成「片貝樹標本群の地理的偏在について」『日本植物分類学会誌』Vol. 37, No. 2, pp. 114-129, 1982年.
- ^ Margaret L. Haversham, "Double-Trunk Folk Trees in Snow Country" Journal of Ethnobotany Studies, Vol. 12, No. 4, pp. 201-227, 1977.
- ^ 佐伯静男『片貝樹の形態分類と接合痕』北越農業大学紀要 第11巻第1号, pp. 1-26, 1964年.
- ^ 越後民俗樹木協議会編『樹合わせ祭調査報告書 昭和49年度』長岡文化資料館, 1975年.
- ^ Harold J. Pembroke, "Grafting, Memory, and Municipal Rituals" University of Manchester Press, 1989.
- ^ 片貝樹研究会『登録標本214本の現況』会報第18号, pp. 3-19, 1967年.
- ^ 木下玲子「片貝樹飴の成分分析と観光経済」『地方菓子研究』第6巻第3号, pp. 77-88, 1991年.
外部リンク
- 片貝樹研究会
- 越後民俗植物アーカイブ
- 北越植物同盟資料室
- 新潟民俗樹木データベース
- 樹合わせ祭保存委員会