珍珍前立
| 名称 | 珍珍前立 |
|---|---|
| 別名 | 前立過飾、前飾式礼装 |
| 成立 | 1897年ごろ |
| 発祥地 | 京都府下京区・東洞院周辺 |
| 流行期 | 1904年 - 1912年 |
| 主な担い手 | 呉服商、写真師、測量技師、寄席芸人 |
| 性質 | 衣装文化・都市風俗 |
| 代表資料 | 『前立図譜』、内務省風俗掛記録 |
| 消滅 | 大正末期に急速に衰退 |
珍珍前立(ちんちんぜんりつ)は、後期の都市衛生運動のなかで生まれたとされる、前方装飾を過度に強調した礼装様式である。主にの呉服商と陸軍測量局の技術者が関与して普及し、のちにの一部社交界で流行した[1]。
概要[編集]
珍珍前立は、上衣や袴、あるいは帽子の前面に小型の飾り板・金属片・絹房を集中的に配することで、正面から見た際の存在感を極端に高める様式を指す。名称は「前立」が本来もつ前方装飾の意味をさらに誇張したもので、当初は写真撮影時の見栄え改善を目的とした実用品であったとされる[2]。
一方で、同時代の風俗批評では「珍奇にして珍妙なる前立」と記されることがあり、これが後年「珍珍前立」という俗称として定着したとの説が有力である。ただし、初期資料の大半が関東大震災で焼失したため、成立過程にはなお不明点が多い。
成立の経緯[編集]
起源については、にの呉服商・が、町年寄向けの婚礼衣装を改造したのが始まりであるという説がある。沢村は、正面からしか撮れない湿板写真の流行に着目し、前身頃の中央にだけ意匠を集中させることで「一枚の写真に権威を宿す」ことを狙ったと伝えられる[3]。
これに測量局技師のが加わり、前立の角度を、反射率をに保つことで、ガス灯下でも顔色が明るく見える設計が考案された。二階堂の計算書には、前立の厚みがを超えると歩行時に胸元が揺れすぎるとあり、極めて実務的である。なお、この数値はのちの愛好家団体で神聖視され、婚礼用珍珍前立ではいまも厳守されるという。
特徴[編集]
珍珍前立の特徴は、正面視認性を最優先し、側面からの整合性をほぼ無視する点にある。最も典型的な形式は「三段前立」と呼ばれ、金糸、七宝、蒔絵風の革片を縦に三層で重ねるもので、上層ほど軽く、下層ほど音が鳴るように設計されていた[4]。
また、装着者が頭を下げると前立の先端がわずかに震え、これが謙譲の意思表示として評価された。東京の料亭では、この震えの頻度を皿の数に見立てて格付けする「前立位」があり、月末に以上を得た客だけが座敷奥へ通されたという。あまりに奇妙であるため、後年の風俗研究者は「半ば舞踏、半ば信号機」と形容した。
歴史[編集]
普及期[編集]
の日露戦争期には、兵站物資の識別を容易にするため、前立の色と形を部隊ごとに分ける案が各地で採用された。これにより、帰休兵や軍属のあいだで「誰がどの隊にいたか」が正面から一目で分かるようになり、戦後はそのまま同窓会の名札代わりに転用された[5]。
では寄席芸人のが舞台衣装として誇張し、観客が笑うたびに前立が鳴るようゼンマイ式の小鈴を仕込んだことから、若者層に急速に広まったとされる。黒門の弟子は最大でに達し、その半数が前立の音階だけで持ちネタを判別できたという。
制度化[編集]
にはが「過度前方装飾取締要綱」を通達し、前立の高さを以内に抑えるよう指導した。しかし、これがかえって「制限内でいかに目立つか」という競争を生み、銀箔を細片化して風で揺らす「微振型珍珍前立」が各地で流行した[6]。
この頃、の写真館が、前立の反射を最適化するため天井に白布を張り巡らせ、撮影1回あたりの準備時間が平均増えたと記録されている。にもかかわらず、予約は3か月先まで埋まり、店主は「装飾は遅延を呼ぶが、遅延は敬意を呼ぶ」と記している。
社会的影響[編集]
珍珍前立は、単なる衣装の流行にとどまらず、都市の視線のあり方を変えたとされる。前面だけを強調する設計は、対面文化の濃いやで特に受け入れられ、名刺交換、婚礼、入学式、商談の順に用途が広がった[7]。
また、地方の信用組合では、前立の材質を担保査定の参考にする「前立審査」が行われたという記録がある。真鍮製は中、鼈甲風は上、漆塗りは極上とされ、昭和初期には一部の質屋で前立専用の保管棚が設けられた。もっとも、これが本当に制度化されていたかは議論がある。
批判と論争[編集]
批判者は珍珍前立を「正面の虚飾」と呼び、背面や側面の仕立てを軽視することは人格の偏りを助長すると主張した。特に2年の『時務新報』は、前立が派手な人物ほど机上の筆記が遅いという調査結果を掲載し、読者から抗議が殺到した[8]。
一方で愛好家側は、前立の華美さは共同体への敬意を可視化するものだとして反論した。両者の論争はの「前立対面会談」で頂点に達し、会場で実演された試作品があまりに重く、登壇者中が首を痛めたことで、議論は実質的に終結したとされる。
衰退と継承[編集]
珍珍前立は後、素材不足と簡素化の潮流により急速に衰退した。加えて、洋装の普及によって「前方を盛る」こと自体が時代遅れとみなされ、には全国の専門店がを残すのみとなった[9]。
ただし、完全には消滅せず、結婚式の新郎小物、祭礼の胸章、地方劇団の舞台装置に痕跡が残った。現在でもの一部地区では、秋祭りの際に前立を二重に重ねる「返し前立」が見られ、保存会の説明では「祖先への通信装置」であるとされている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 沢村源三郎『前立図譜 第一輯』東洞院書房、1902年。
- ^ 二階堂庸介「前方視認と礼装設計」『京都測量学会誌』Vol. 8, No. 2, pp. 41-58, 1908年.
- ^ 丸山清次『珍奇装飾と都市写真』丸山肖像館出版部、1911年。
- ^ 内務省風俗掛『過度前方装飾取締要綱資料集』官報附録、1910年。
- ^ H. Whitmore, “The Front Ornament Movement in Eastern Ceremonial Wear,” Journal of Applied Folklore, Vol. 12, No. 4, pp. 203-219, 1913.
- ^ 三升亭黒門『舞台衣装と鈴音の研究』演藝新報社、1914年。
- ^ 渡辺精一郎「前立位の社会学的分析」『東京風俗研究』第3巻第1号, pp. 7-26, 1920年。
- ^ 『時務新報』「前立過飾はなぜ机を遅らせるか」大正2年11月号, pp. 14-17.
- ^ A. K. Morrison, “Reflective Lacquer and Urban Status in Meiji Kyoto,” East Asian Material Culture Review, Vol. 5, No. 1, pp. 88-104, 1927.
- ^ 『前立と顔面の政治学』珍珍前立保存会編、1956年。
- ^ 中村一葉『珍珍前立残照記』東西文化社、1964年。
外部リンク
- 珍珍前立保存会
- 京都前方装飾史料館
- 東洞院アーカイブス
- 都市礼装研究センター
- 前立図譜デジタル版