田口貫太
| 人名 | 田口 貫太 |
|---|---|
| 各国語表記 | Taguchi Kanta(英) |
| 画像 | 田口貫太肖像画 |
| 画像サイズ | 220px |
| 画像説明 | 早期内閣期の上着に菊花章頸飾を配した肖像とされる。 |
| 国略称 | 日本 |
| 国旗 | 日本の国旗 |
| 職名 | 政治家(内閣総理大臣、閣僚) |
| 内閣 | 貫太内閣 |
| 就任日 | [[1939年]]〈[[昭和]]14年〉[[6月12日]] |
| 退任日 | [[1941年]]〈[[昭和]]16年〉[[9月28日]] |
| 生年月日 | [[1892年]]〈[[明治]]25年〉[[2月17日]] |
| 没年月日 | [[1974年]]〈[[昭和]]49年〉[[10月3日]] |
| 出生地 | 寒河江藩上松村 |
| 死没地 | 文京区 |
| 出身校 | 法科大学(現:東京大学) |
| 前職 | 貴族院調査局嘱託、内務官僚 |
| 所属政党 | 国民政道党 |
| 称号・勲章 | 大勲位菊花章頸飾、旭日重光章ほか |
| 配偶者 | 山上(やまがみ)綾子 |
| 子女 | 田口貫一、田口妙子 |
| 親族(政治家) | 田口貫一(衆議院議員)、田口武蔵(参議院議員) |
| サイン | 貫太 |
田口 貫太(たぐち かんた、{{旧字体|舊字}}、[[1892年]]〈[[明治]]25年〉[[2月17日]] - [[1974年]]〈[[昭和]]49年〉[[10月3日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。[[位階]]は[[従一位]]。[[勲等]]は[[大勲位菊花章頸飾]]である。[1]。[[内閣総理大臣]]としては[[第67代内閣総理大臣|第67代]]に就任し、同時に[[内務大臣]]、[[外務大臣]]、[[大蔵大臣]]を兼務したとされる。
概説/生涯[編集]
田口貫太は、[[1939年]]〈[[昭和]]14年〉に[[貫太内閣]]を組織し、就任後わずか「49日と6時間」のうちに[[国家財政調整局]]を新設したことで知られる[[日本]]の[[内閣総理大臣]]である。[1]
彼は「数字は嘘をつかないが、数字の切り方は嘘をつく」との趣旨を繰り返し、のちに戦時下の統制政策へ接続する独特の手腕を評価された。一方で、当時の新聞社は「政策が“署名簿の指紋採取”のように細かい」と批判的に報じたともされる。[2]
生い立ちとしては、寒河江藩上松村で「五代続く米蔵係」を祖とする家に生まれ、家計の帳簿は幼少から読み書きさせられたと伝わる。[[1910年]]〈[[明治]]43年〉に[[旧制山形中学校]]を卒業し、同年に[[東京帝国大学]]へ入学した。[3]
学生時代は寄宿舎の夜間閲覧室で、[[統計学]]と[[航路学]]を“並列学習”したという逸話が残る。のちに政界入り後「港が動けば税が動く」と語り、外交・財政・運輸を一つの方程式に落とし込む癖を形成したとされる。[4]
政治姿勢・政策・主張(内政/外交)[編集]
内政では、彼の政策は「生活防衛の“薄紙管理”」として知られた。すなわち、国民生活の要点だけを“薄い法令集”に閉じ込め、解釈の余地を残す方式を推進したとされる。[[1940年]]〈[[昭和]]15年〉には、全国の町村に対し「徴税の前に家計簿の雛形配布」を行う制度を提案し、結果として配布部数が年間約3,210,000部に達したと記録されるが、当該数は出典の追跡が困難であるとの指摘もある。[5]
外交では、[[外務省]]内の実務官僚から「地図を折りたたむ速度こそが交渉速度である」と揶揄された。貫太は[[第三国]]との貿易を増やす方針を掲げたが、同時に「港湾の夜勤体制」を重視し、交渉の場面でも“輸送の比率”を優先したと伝えられる。なお、これが後年の評価で「外交を運輸に縮減させた」と批判される点にもつながった。[6]
政策運用は、[[内務大臣]]として推進した秩序維持施策と、[[大蔵大臣]]の財政統制とが、同一の帳票体系で結び付けられるよう設計されたとされる。彼のもとで[[行政管理局]]の書式が統一された結果、書類の“差し替え回数”が平均2.7回から0.9回へ減ったと、庁内報でのみ語られたこともあり、外部検証はあまり行われなかった。[7]
人物(性格・逸話/語録)[編集]
田口貫太は性格として几帳面で、机の上の鉛筆を濃度順に並べる習慣があったとされる。ある秘書官は「削り始めから最後の0.8センチまでを“決裁の儀式”とみなしていました」と回想したとされるが、同回想録の所在は公表されていない。[8]
逸話としては、就任直後の閣議で[[国旗]]の掲揚順を巡り、議題の前に「日の丸の中心点を測る器具」を配布したことで笑いが起きたという。器具が“真円”ではなく“楕円補正付き”だったため、会議後に測量担当者がこっそり交換したと伝えられる。これに関して「測量は外交の前提」という彼の信念があったとされる。[9]
語録としては、次の発言が“演説草稿の余白”として残っているとされる。「政策は傘だ。雨が降る前に開かねばならぬ。ただし、傘を開く順序を誤ると、雨は人に当たる」。この言い回しは、のちに[[国民政道党]]の党内研修でも模範教材にされたという。[10]
評価[編集]
評価は賛否が割れた。肯定的な見解では、彼が“帳票の摩擦”を減らしたことで、行政が迅速化した点が挙げられる。[[貫太内閣]]期の通達は、形式上の差異が整理され、地方への到達までの平均日数が「18日短縮」したとする統計が発表されたともされるが、当時の統計書には脚注が少なく、検証には慎重さが求められる。[11]
一方で否定的な見解では、貫太の制度設計が現場の裁量を狭め、行政の創意が“帳簿の枠”に吸い込まれたと指摘されている。特に[[行政管理局]]が推奨したテンプレートが“正解探し”を生み、現場が萎縮したという批判がある。[12]
さらに、外交面での運輸優先は「国益の数式化」として称賛される場合もあるが、反面「相手国の感情」を扱う余白が削られたと見る論者もいる。こうした論争は、戦後の政治回想でも繰り返し語られたとされる。[13]
家族・親族(系譜)[編集]
貫太の配偶者は[[山上綾子]](やまがみ あやこ)である。綾子は出身の医師家系とされ、家庭内の教育方針として「文章は必ず鉛筆下書きで削る」ことを求めたと伝えられる。[14]
子女は長男の[[田口貫一]](たぐち かんいち)と長女の[[田口妙子]](たぐち たえこ)である。貫一は官界へ転じ、のちに[[衆議院]]議員として[[国民政道党]]の組織担当を務めたとされる。[15]
親族のうち、田口家は「系譜に官吏を置く」伝統を持つとされ、貫太は「祖父の代から“駅前の帳簿”を管理する役」を担ってきたという語りが残る。彼の家は[[世襲政治家]]としても扱われることが多いが、本人は「世は継がれても、仕事は継がない」と語ったともされる。[16]
選挙歴[編集]
田口貫太は[[衆議院議員総選挙]]に複数回立候補し、初当選を果たしたのは[[1928年]]〈[[昭和]]3年〉とされる。選挙区はではなく、[[山形県第3区]]であったと記録されている。投票率は「72.4%」とされるが、資料によって小数点以下が異なるため、同数値は誤差を含む可能性がある。[17]
その後[[1930年]]〈[[昭和]]5年〉、[[1932年]]〈[[昭和]]7年〉、[[1936年]]〈[[昭和]]11年〉にも当選を重ね、[[国民政道党]]の中で“財政帳票の専門家”として政争の渦中に入った。[[1937年]]〈[[昭和]]12年〉には党内で副総務に選出されたとされるが、当時の党史には版ごとの差異がある。[18]
最終的に彼は総理就任前に一度だけ政界の主戦場を変え、[[貴族院]]調査局からの継続的な影響を残したまま、衆議院での実務を通したと説明されることが多い。[19]
栄典[編集]
栄典として、彼は[[大勲位菊花章頸飾]]を受章したとされる。受章の時期は[[1940年]]〈[[昭和]]15年〉の年末とする資料がある一方、[[1939年]]〈[[昭和]]14年〉末の臨時叙勲だったという異説も存在する。[20]
また[[旭日重光章]]を経て、さらに海外からの褒章として「北海星団勲章」(通称)を授与されたとする記録がある。これは当時の新聞が「外国の実利を称える勲章」と報じたが、受章原簿は見つかっていないとされる。[21]
位階については[[従一位]]であり、叙位の申請は[[内務省]]経由で行われたとされる。なお、昇進の申請書の筆跡が“同じ墨の濃さ”で揃えられていたという細部が、後年の秘書官の証言として語られた。[22]
著作/著書[編集]
貫太の著作は政治学よりも実務書の色が濃く、『[[薄紙行政論]]』が代表的な著書とされる。刊行年は[[1940年]]〈[[昭和]]15年〉で、内容は[[行政管理局]]の書式整備を前提にした提案集であると説明される。[23]
次いで『[[運輸外交の比率法]]』を刊行し、外交交渉の順序を「輸送比率」「物資比重」「港湾労働配置」の三段に分ける方法が論じられたとされる。なお、同書の第3章は一部で紛失していたとする回想があり、複数版の存在が指摘されている。[24]
最後に『[[国家帳簿の詩学]]』がある。これは“硬い統計”を詩の比喩で説明しようとする異色作で、当時の若手官僚に読まれたという。もっとも、読後に「政治家が格好つけた」と評した者もいたとされる。[25]
関連作品[編集]
関連作品として、彼をモデルにしたとされる舞台劇『[[菊花章の薄紙]]』がある。同作は架空の内閣を舞台に「薄い法令集が厚い現場をつぶす」皮肉を描いたとされ、初演は[[1942年]]〈[[昭和]]17年〉の地方巡回公演だったと記録されている。[26]
また漫画『[[折りたたむ外務省]]』では、貫太が地図を折りたたみながら閣議を行う風刺が描かれたとされる。作者は取材ノートに「中心点を測る器具」とだけ書き残したと伝えられ、当該ノートは現在、どこにも公開されていない。[27]
映画では『[[貫太内閣夜勤港湾記]]』が「運輸を愛した政治家」を主題にしたとされるが、原作の出典表記があいまいだったため、後年に二次資料として訂正されたことがある。[28]
脚注[編集]
参考文献[編集]
(出典とされる文献のうち、一部は版によって記述が異なるとされる。)
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
脚注
- ^ 田辺憲三『薄紙行政の設計学』河原書房, 1939.
- ^ リュウ・ミンホ『比率外交と港湾政策』Tokyo University Press, 1941.
- ^ 北川綱治『運輸外交の比率法(増補版)』泰明社, 1940.
- ^ 高階尚武『貫太内閣の帳簿史料学』朝雲文庫, 1952.
- ^ 篠原縫太郎『統計学は嘘をつかないか』大和学芸社, 1938.
- ^ Hirose K.『Signature Verification in Cabinet Meetings』Journal of Administrative Forms, Vol.12 No.3, 1940, pp.41-77.
- ^ 内務省記録編纂室『叙位裁定手続の実務(第3巻第2号)』内務省印刷局, 1943.
- ^ 山上澄江『貫太の夜間閲覧室』文京回想社, 1966.
- ^ 森村直人『政治家の墨の濃度:田口家秘話』青燈舎, 1971.
- ^ ジョージ・W・アッシュ『The Center-Point Myth in Map Negotiation』London Maritime Studies, Vol.5 No.1, 1959, pp.10-29.
外部リンク
- 嘘都政史料館
- 薄紙行政アーカイブ
- 港湾夜勤データベース
- 菊花章系譜研究会
- 折りたたむ地図資料庫