田村松
| 名称 | 田村松 |
|---|---|
| 読み | たむらまつ |
| 英語名 | Tamura Pine |
| 分類 | 松の枝ぶり命名体系 |
| 提唱時期 | 1908年頃 |
| 提唱地 | 新潟県中越地方 |
| 主要関与者 | 田村松吉、樋口栄一、黒田清治 |
| 用途 | 造林台帳、木材格付け、祭礼用植栽 |
| 影響 | 地方林業用語の標準化に一時寄与 |
| 現在の扱い | 学術上は民俗分類として扱われる |
田村松(たむらまつ、英: Tamura Pine)は、のにおいて提唱されたとされる、松の枝ぶりを人名の姓と結びつけて分類する独特の命名体系である。末期にの山間部で広まり、のちに系の林野技術者の間で半ば慣用語として扱われたとされる[1]。
概要[編集]
田村松は、の樹形や芽吹きの癖を、特定の家名と結びつけて記録するために生まれたとされる分類概念である。もともとは周辺の山林で、植林区画ごとの性質を口頭で覚えるための便宜的な呼称だったが、やがて帳簿上の表記として定着したという。
この用語は、単に樹木の品種名を指すのではなく、枝張りの角度、葉の密度、雪折れ後の再生具合まで含めて評価する現場語として用いられたとされる。なお、の地方巡回報告に断片的な記載があるとされるが、一次資料の所在は不明であり、後年の郷土史家が補筆した可能性も指摘されている[2]。
歴史[編集]
成立の背景[編集]
起源はの豪雪被害にあるとされる。当時、の山林で大量の幼木が折損し、区画ごとの生育差を即座に見分ける必要が生じた。そこで林業請負人のが、枝ぶりの良い系統を自家の名にちなみ「田村松」と呼んだのが始まりである、と伝えられている。
ただし、同時期の周辺では、同様の樹形を「吉田松」と呼ぶ記録もあり、命名の優先権をめぐる論争が長く続いた。1920年代の村役場文書では、すでに「田村松一等」「田村松二等」という記載が見られるが、これは本来の学術分類ではなく、雪害後の苗木の売買等級を便宜上表したものと考えられている。
標準化への試み[編集]
期になると、の技手が、田村松の枝打ち法を記録した小冊子を私家版で配布した。これにより、田村松は単なる方言ではなく、ある程度統一された現場用語として広まったとされる。
一方で、樋口は著書のなかで「田村松は学理にあらず、山の気配の名である」と記しており、後世の研究者はこの一文を、民俗分類の自覚的な宣言として高く評価している。なお、の林学教室では同概念が一度も正式科目として採用されなかったが、演習林の実地見学ではしばしば話題に上ったという。
戦後の再解釈[編集]
後、田村松は一度忘れられたが、にが『山村樹相誌』の中で再評価したことで再び注目された。黒田は田村松を「人名と樹相が相互に浸透した稀有な例」と位置づけ、からにかけての山村で、同種の命名慣行が存在した可能性を示した。
この再解釈をきっかけに、系の研修会では、苗木識別の補助語として田村松が紹介されることがあった。ただし、実務担当者の多くは名称の由来を最後まで理解しないまま使用していたとされ、講習会のアンケートには「松が人になるのが少々こわい」といった自由記述が残されている。
分類と用法[編集]
田村松は、一般に「直立型」「傾斜型」「雪垂型」の三型に分けられるとされるが、実際には現場ごとに基準が異なっていた。とくに初期の山林台帳では、同じ個体が別年の記録で「直立型」から「半田村型」へと移される例があり、厳密な再現性には乏しい。
それでもこの分類は、伐採順の決定や枝打ち人員の割当てに便利であったため、の一部では1960年代まで生き残った。林業指導書の余白に「田村松は見れば分かるが書くと分からぬ」と書かれている例があるとされ、現場の経験知を象徴する言葉としてしばしば引用される[3]。
社会的影響[編集]
村落経済への波及[編集]
田村松の普及は、苗木の選別市場に小さくない影響を与えた。枝ぶりの良い木が「田村松上物」として高値で取引されるようになり、やの市日では、松苗を持参した農家が互いに樹冠の開き方を競う光景が見られたという。
また、祭礼の御神木を選ぶ際にも田村松が基準化され、の氏子総代が「今年は田村松が立つ」と宣言することで、豊作祈願と景観整備を同時に行う慣行が生まれたとされる。これにより、山林と信仰と市場が奇妙に結びついた。
教育と行政[編集]
にはの補助教材に「田村松の見分け方」が掲載され、受講生の実習項目として採用された。ただし、教材の版によっては図版がずれており、講師が「これは松ではなく講師の困惑である」と冗談を述べた記録も残る。
行政面では、山林災害調査票の簡略記入欄に「田村松相当」の項目が一時的に設けられたとされるが、のちに記入が形骸化し、空欄のまま回収されることが多かった。こうした経緯から、田村松は「制度化されたが、最後まで完全には制度にならなかった概念」と評されることがある。
批判と論争[編集]
田村松に対しては、当初から「命名が個人崇拝に近い」「分類基準が曖昧で再現性に欠ける」との批判があった。特に出身の技師たちは、樹木の形質を姓で呼ぶ行為は統計上の混乱を招くとして反対したとされる。
一方で擁護派は、田村松は厳密な学術分類ではなく、山間部の共同体が経験を共有するための生活技法であると主張した。1983年の『地方林業史研究』では、田村松の実在性そのものを疑う論文が掲載され、これに対して郷土資料館の学芸員が「文書より先に山がある」と反論したことで小さな論争になった[4]。
現代における位置づけ[編集]
現在、田村松はおよびの文脈でのみ言及されることが多い。実務上の使用はほぼ消滅したが、やの一部の山村では、年配の林業者が今なお「それは田村松だ」と言うことがあるという。
また、近年は地域振興の一環として、田村松を題材にしたスタンプラリーや木工ワークショップが企画されている。2022年にはの交流施設で「田村松の見立て展」が開かれ、来場者の七割が「結局どれが田村松か分からなかった」と回答したとされるが、逆にそれが教育効果だと評価された。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 樋口栄一『田村松枝打法小録』新潟県山林会, 1912年.
- ^ 黒田清治『山村樹相誌』北越出版, 1957年.
- ^ 村松一郎『地方林業における慣用名の生成』林学評論 第12巻第4号, 1964年, pp. 44-61.
- ^ 佐伯玲子『民俗分類としての田村松』地方文化研究 第8巻第2号, 1983年, pp. 101-128.
- ^ H. Tanabe, “Tamura Pine and the Rural Naming of Trees,” Journal of Japanese Forestry Vol. 27, No. 3, 1971, pp. 211-229.
- ^ M. E. Thornton, “Administrative Folk Taxonomy in Snowbelt Villages,” Rural Studies Quarterly Vol. 9, No. 1, 1994, pp. 15-39.
- ^ 渡辺精一郎『新潟山村の林業語彙集』中越郷土史叢書, 1968年.
- ^ 新潟県立農事試験場編『山林実地講習録』第3巻第1号, 1931年, pp. 7-18.
- ^ 黒田清治『田村松再考——山が名を持つとき』森林文化研究会, 1979年.
- ^ 小林恭子『講習所教材のなかの田村松』教育民俗学年報 第5号, 2001年, pp. 88-94.
外部リンク
- 北越郷土資料データベース
- 新潟山村文化アーカイブ
- 地方林業史研究会
- 森林文化フォーラム
- 山の名づけ辞典