田舎都市
| 別名 | 農都、里市、準農村都市 |
|---|---|
| 初出 | 1968年頃 |
| 提唱者 | 田代 恒一、Helen M. Wren |
| 主な研究機関 | 国立田園都市研究所、オーストラリア内陸開発評議会 |
| 対象 | 人口3万〜18万人規模の自治体 |
| 特徴 | 駅前に水田、役所の裏に畑、中心商店街に軽トラ専用路がある |
| 代表例 | 千曲野市、南雲原町、ポート・ミルフィールド |
| 関連政策 | 分散型市街地整備計画 |
田舎都市(いなかとし、英: Rural City)は、において、の機能を持ちながらの景観と生活習慣を意図的に保持する自治体類型である。にとの共同研究から定義が整備されたとされる[1]。
概要[編集]
田舎都市は、の進行によって失われがちな農地・水路・祭礼・近隣共同体を、行政制度の側から保存するために考案されたとされる都市類型である。一般には、人口密度が高すぎず、しかし鉄道・病院・高校・信用金庫などの都市機能を備える地域を指す[2]。
この概念は、単なる郊外やベッドタウンとは異なり、「便利だが落ち着きすぎている」という矛盾を積極的に制度化した点に特徴がある。住民票上は市でありながら、朝の通勤列車に牛の移動が優先される日があること、また市役所の庁舎裏で稲刈り指導会が行われることなどが、典型的な田舎都市の条件として挙げられる。
研究者の間では、田舎都市は後半の開発圧力に対する「逆向きの近代化」と説明されることが多い。ただし、実際には1972年ので初めて国際標準化が検討された、という異説もある[要出典]。
成立史[編集]
田舎都市という語が文献上に現れるのは、にの地方紙『武蔵野時報』が掲載した投書欄であるとされる。投書は、当時の沿線で進む宅地開発に対し、「駅前だけが都会で、三分歩けば蛙の声がする町は、むしろ都市として誇るべきではないか」と主張したもので、のちに学術界で繰り返し引用された。
翌、都市工学科の田代 恒一と、のHelen M. Wrenが、郊外開発の比較研究の中でこの語を採用したとされる。田代は「都市の顔をした農村」ではなく「農村の権利を保持した都市」という定義を提示し、Wrenはこれに対して「週末の市場が平日の官庁より強い自治体」をモデル化した。両者の共同論文は、当初誌に投稿されたが、査読者3名のうち2名が「笑い話ではないか」と判断したため掲載が遅れたという。
制度化の決定打となったのは、のによる「中間居住圏整備要綱」である。これにより、人口6万人以下で農地率18%以上、かつ駅前商店街に年3回以上の青果市が立つ自治体に、試験的に田舎都市指定が与えられた。初年度の指定対象は全国で17自治体であったが、そのうち4自治体は指定申請書に「イノシシ対策費」を添付しており、審査会で高く評価されたとされる。
特徴[編集]
都市機能と農業景観の共存[編集]
田舎都市では、中心市街地から半径1.5キロメートル以内に、、、が集約される一方、同じ範囲内に畦道、用水路、堆肥場が必ず残される。これは土地利用計画上の偶然ではなく、「見える田園」を住民の心理的安全装置とみなす設計思想によるものである。
たとえばの千曲野市では、2021年時点で中心駅から徒歩7分の地点に水田があり、朝8時台には通勤客とカモが同じ横断歩道を渡る。市はこれを「景観共生型交差」と呼び、年に2回、交通安全週間と代掻き開始日を同日に設定している。
生活制度としてのゆるい共同体[編集]
田舎都市の住民は、都市住民ほど匿名的ではなく、しかし純農村ほど濃密でもない関係性を持つとされる。ごみ出しルールが厳密である一方、自治会長の独断で防災無線が「今日は風が強いので洗濯物を回収してください」と放送するなど、公私の境界がやや柔らかい。
にが行った調査では、田舎都市の約64.2%で「祭りの実行委員と消防団長と郵便局長が同一人物である」ことが確認された。なお、この数字は町内会の自己申告に基づくため、研究者の間ではやや過大評価との見方もある。
交通と物流の独特な最適化[編集]
田舎都市の交通体系は、鉄道・路線バス・軽トラック・自転車が同一の物流圏内で調整される点に特徴がある。朝は通学路を優先し、昼は高齢者の買い物輸送、夕方は農産物の集荷が最優先となるため、時刻表は実質的に季節行事の一覧表のようになる。
特に有名なのが南雲原町の「青果優先信号」で、トマト出荷量が一定を超えると、国道の右折矢印が12秒延長される仕組みである。県警は当初これを否定したが、実際には渋滞緩和率が13.8%向上したため、のちに半公式制度として認めたとされる。
代表的な田舎都市[編集]
田舎都市の分類は、行政区分ではなく「どの程度まで田舎を都市の顔として維持しているか」で分けられることが多い。以下は研究上よく挙げられる代表例である。
千曲野市()は、最も標準的な田舎都市として知られる。駅前再開発の際に、商業ビルの1階へ米倉庫を組み込む案が採用され、現在も大型スーパーの搬入口から農協の出荷車が入る。市民の間では「買い物ついでに田植えの相談ができる街」と呼ばれる。
南雲原町()は、人口1万9千人ながら町議会が「都市ブランド維持条例」を制定したことで有名である。条例には「午後5時以降、田んぼの見えない建築物は原則として3階建てまで」との規定があり、県内外から視察が相次いだ。
ポート・ミルフィールド(・)は、港湾都市として始まりながら、内陸移住政策の結果として牧草地を市街地内に残した珍しい例である。観光パンフレットでは「唯一、パブの裏で羊が鳴く行政区」と説明されている。
社会的影響[編集]
田舎都市は、の理想像としてしばしば引用されてきた。特に以降、若年層の移住促進策において「都市の不便さを残したまま、農村の安心感を商品化する」モデルとして注目された。ただし、この発想は住民からは「景観だけ借りている観光政策」と批判されることもある。
一方で、教育面では、子どもが田植えとプログラミングを同じ週に学ぶ環境が「生きた総合学習」として評価された。の報告書では、田舎都市出身者は自然環境への親和性が高いが、満員電車への耐性がやや低い傾向にあるとされる。なお、後者はの新任教員研修で半ば冗談のように紹介された分析であるが、現場では意外に重視された。
経済的には、農産物直売所と小規模IT企業が同じ通りに並ぶ「二層商店街」が広がったことが大きい。これにより、午前中は野菜、午後はリモート会議、夕方は祭礼準備という時間割が成立し、在宅勤務の受け皿としても機能したとされる。
批判と論争[編集]
田舎都市は一見すると理想的な折衷案であるが、実際には「中途半端な都会」と「中途半端な農村」の両方から批判されてきた。都市側からはインフラ維持の非効率性が、農村側からは景観の制度化による生活の観光化が問題視された。
とりわけ論争になったのは、の「田畑保存義務訴訟」である。これは、再開発予定地に残された1,200平方メートルの水田をめぐる裁判で、住民側が「都市である以上、稲の方を都市機能として優先すべき」と主張した事件である。地裁は最終的に和解を勧告し、水田の一部が防災公園として、残りが学習田として残された。判決文に「畦畔は公共性を帯びうる」と記されたため、都市法学の教材として有名になった。
また、田舎都市の成功例として引用される自治体の多くは、実際には地価上昇により若年世帯が流出しているという指摘もある。そのため、近年の研究では「田舎都市とは、現実に存在する空間というより、失われつつある郷愁を政策化した名称ではないか」とする見方も強い。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 田代 恒一「田舎都市概念の初期形成」『都市工学研究』Vol.18, No.2, 1971, pp. 41-68.
- ^ Helen M. Wren “Rurality Preserved in Urban Form” Journal of Inland Planning, Vol. 7, No. 4, 1972, pp. 201-229.
- ^ 国土庁中間居住圏研究会『分散型市街地整備要綱資料集』大蔵出版, 1975.
- ^ 武蔵野地方史編纂委員会『沿線自治体と田舎都市の黎明』武蔵野書房, 1983.
- ^ 藤原 由美子「駅前水田の法的位置づけ」『土地利用と法』第12巻第1号, 1999, pp. 9-27.
- ^ Masato Kariya “Commodity Villages and Administrative Cities” Asian Regional Review, Vol. 21, No. 3, 2008, pp. 155-178.
- ^ 総務省自治行政局『田舎都市における住民組織の実態調査』政策統計資料, 1998.
- ^ 北川 俊介『景観共生型交差の設計論』日本道路協会, 2011.
- ^ Angela R. Bloom “The Politics of Quiet Municipalities” Rural Governance Quarterly, Vol. 14, No. 1, 2016, pp. 33-59.
- ^ 田中 美沙『田畑保存義務訴訟の研究――畦畔は公共性を帯びうるか――』新都法叢書, 2007.
外部リンク
- 国立田園都市研究所アーカイブ
- 中間居住圏デジタル博物館
- 千曲野市田舎都市政策室
- オーストラリア内陸開発評議会資料室
- 景観共生型都市ネットワーク