畳の為替レート
| 名称 | 畳の為替レート |
|---|---|
| 分類 | 換算慣行・擬制通貨 |
| 起源 | 江戸時代後期 |
| 主な利用地域 | 京都、江戸、大阪、東京 |
| 標準単位 | 一畳、半畳、帳場畳 |
| 管理機関 | 旧大蔵省 畳換算審議会 |
| 代表的相場 | 一畳=米七斗相当とされる |
| 廃止 | 1958年頃に事実上廃止 |
| 派生制度 | 裏畳差金、畳先物 |
| 通称 | 畳相場 |
畳の為替レート(たたみのかわせれーと、英: Tatami Exchange Rate)は、においての面積価値を異種資産と交換する際の基準として用いられてきた換算慣行である。主として後期の町方金融と初期の住宅改良運動のあいだで発達したとされる[1]。
概要[編集]
畳の為替レートとは、畳一枚あたりの「居住安定価値」を、米、金貨、現金、さらにはやに換算するための半制度的な相場である。実際には公定通貨ではないが、の呉服商やの両替商のあいだで、古家の売買、婚礼の持参金、宿賃の決済に広く利用されたとされる。
この慣行は、部屋数よりも「何畳分を確保できるか」が生活の安定を意味した都市圏の事情から生まれた。とくに年間には、が「畳一枚の表替え費用」を物価指標として扱った記録があるとされ、これが後年の換算表の原型になったという[2]。
歴史[編集]
成立[編集]
起源は期の大火後にまで遡るとされる。焼失した長屋の再建に際し、大家が家賃を米価で示しても住民が理解しにくかったため、の親方であった渡辺庄左衛門が「一間を畳何枚で見積もるか」を帳簿に書き込んだのが始まりとされる。これが近隣の質屋に伝わり、畳を単位とする価格比較が半ば慣習化した。
年間にはの両替商・榊原屋与市が、季節ごとの湿気による畳の膨張率まで勘案した「実効畳価表」を作成した。表では、梅雨入り前の新畳は1.08倍、寒冷期の乾燥畳は0.94倍として扱われ、のちに「畳指数」と呼ばれる独自指標へ発展した。
制度化[編集]
に入ると、の臨時調査局が都市住宅の課税実務に畳換算を導入した。これにより、六畳間は「基準生活空間」として地方官庁の宿舎手当の算定に組み込まれ、では一時期「畳一枚あたりの地価」がよりも先に報道される現象が起きた。
の後、仮設住宅の配分をめぐり、と民間の建築組合が共同で「復旧畳レート」を制定したとされる。ここでは、焼失地域では一畳が0.7標準畳、石造倉庫の跡地では逆に1.3標準畳として扱われたというが、同時代の新聞にはかなり誇張された数字も見られる[3]。
全盛期[編集]
初期には、都市のモダン住宅ブームに伴い、畳の為替レートは投機対象にまでなった。とりわけの不動産仲介業者の間で「南向き四畳半は外貨建てで何ドル分か」という相談が増え、港の輸入商たちは畳を「日本的信用の担保」とみなして短期融資に転用した。
1931年頃には、東京市内の一部で畳相場を毎朝9時に掲示する「畳寄せ」が行われ、板張りの下宿では畳を借りて来客時だけ敷くという奇妙な慣行まで生じた。これを受けて系の経済欄が畳レートを日次で掲載し、読者からの投書が最も多かったのは「半畳の端数をどう扱うべきか」であった。
衰退[編集]
戦後の住宅規格統一と公団住宅の普及により、畳の為替レートは急速に影響力を失った。とくにの住宅金融公庫による「間取り標準化通達」以降、畳の価値は面積の単位としては残っても、交換比率としてはほぼ無意味になったとされる。
ただし、の一部旅館や古美術商では1960年代末まで「帳場畳」を用いた内々の清算が続いた。帳場畳は通常の一畳より縁が1.7倍厚く、相場変動に強いとされたが、実務上は単に帳簿が嵩張るだけであったという。
仕組み[編集]
畳の為替レートは、単純な面積換算ではなく、素材、湿度、家格、方角、さらには部屋に入る光量まで加味する複合指標であった。標準的には「真畳」「抱き畳」「帳場畳」の三種があり、真畳は公的清算用、抱き畳は婚礼・贈答用、帳場畳は商家の信用枠に用いられたとされる。
換算表は地方ごとに差があり、では美意識のため同じ六畳でも「静穏加算」が付く一方、では商取引の迅速さを理由に「端数切り捨て」が徹底された。なお、では畳縁の模様によってもレートが変動し、格子縁は1.02倍、青海波縁は1.11倍とされるが、これは後年の研究者から「ほとんど趣味である」と評された。
社会的影響[編集]
畳の為替レートは、住居を単なる建物ではなく「信用の器」として評価する文化を定着させた点で大きい。若い職人が独立する際には、まず「何畳ぶんの信用があるか」が問われ、周辺では畳担保の小口融資が成立していたという。
一方で、相場の読み違いから婚礼が延期された例や、下宿料の支払いをめぐって兄弟げんかが起こった例も多い。とくにの学生街では、試験前になると六畳一間の価値が急騰し、下宿屋が「追い畳」を請求したため、学生運動の街頭演説で「畳インフレ」がたびたび槍玉に挙げられた。
批判と論争[編集]
畳の為替レートに対しては、導入当初から「生活実感を装った投機を助長する」との批判があった。とりわけの経済学者・小泉啓二は、畳価の変動は実需よりも商家の見栄に左右されるとして、1934年の講演で「一畳の裏に七つの期待がある」と揶揄したと伝えられる。
また、戦後の再調査では、当時流通していた畳レート表の一部が帳簿の裏紙に書かれていたため、正確な平均値の算出が困難であった。これについて旧大蔵省の記録係が「畳はそもそも裏が本体である」と述べたという証言が残るが、真偽は定かではない[4]。
現在の扱い[編集]
現代では実務上ほぼ消滅しているが、古民家の売買、茶室の設計、和風宿泊施設の見積りなどで比喩的に用いられることがある。では「畳レートが高い家」という表現が、単に坪単価が高いこと以上に、間取りの融通が利かない物件を指す隠語として残った。
また、内の一部の保存建築では、改修時に「当時の畳相場」を再現する展示が行われている。来館者がレート表を見て最も驚くのは、米価よりも畳の方が先に上下している点であり、解説員は「それが日本の住宅金融の初期形態である」と説明するが、笑われることも少なくない。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 榊原与市『実効畳価表考』日本両替史研究会, 1912年.
- ^ 小泉啓二「畳価変動と都市家賃」『帝国経済学雑誌』Vol.18, No.4, 1934, pp.211-239.
- ^ 渡辺庄左衛門『長屋再建と畳換算』京都住宅史刊行会, 1898年.
- ^ 石黒玲子「帳場畳の成立と湿度補正」『住宅金融史研究』第7巻第2号, 1968, pp.44-68.
- ^ Margaret H. Thornton, The Tatami Exchange in Early Modern Japan, Pacific Monetary Review, Vol.12, No.1, 1979, pp.5-31.
- ^ 中村清一『間取りと信用の民俗史』東方書院, 1956年.
- ^ 田所義朗「復旧畳レートの行政実務」『内務史料月報』第3巻第11号, 1925, pp.90-104.
- ^ Harold P. Finch, Tatami Futures and Urban Liquidity, Journal of Comparative Domestic Economy, Vol.9, No.3, 1988, pp.133-158.
- ^ 大蔵省臨時調査局『畳換算制度調査報告書』大蔵省印刷局, 1932年.
- ^ 山岸ふみ『裏紙に書かれた相場』青木文庫, 1971年.
外部リンク
- 日本畳換算史資料館
- 東京住宅換算研究所
- 京都畳経済アーカイブ
- 畳相場新聞データベース
- 旧大蔵省 畳換算審議会記録室