目口本線
| 名称 | 目口本線 |
|---|---|
| 読み | めくちほんせん |
| 英語 | Mekuchihonsen |
| 提唱時期 | 1912年頃 |
| 提唱者 | 東京帝国測顔院 斎藤源三郎 |
| 主な用途 | 顔面の左右基準、視線整正、路線名設計 |
| 関連分野 | 解剖学、都市計画、鉄道案内 |
| 拠点 | 東京都文京区、本郷台地周辺 |
目口本線(めくちほんせん)は、の測量技術との理論から派生したとされる、顔面上の仮想基準線である。後に、、の三分野に横断的な影響を与えたとされている[1]。
概要[編集]
目口本線は、両目の瞳孔中心と口角を結ぶ三点を基準に、顔の「公共的な水平」を定義しようとした近代日本の準学術概念である。元来はの周辺で行われていたの補助線として考案されたが、のちに人相判定、駅名看板の傾き補正、さらには駅弁の盛り付け基準にまで応用されたとされる。
この概念が特異なのは、実際には顔に引けるはずのない線を、あたかも都市インフラのように制度化した点にある。末期にはの一部技術者が「路線図の安定感に寄与する」として採用を検討し、昭和初期にはが商品パッケージの傾きを統一するための指標として推奨した、という記録が残る[2]。
歴史[編集]
成立の背景[編集]
起源は、の下宿街で撮影された集合写真の補正作業にあるとされる。写真乾板のわずかな歪みを補正するため、若き測量助手のが「顔の中にも、のような基準線が必要である」と発言したことが始まりとされる[3]。この発言は当時の同僚には冗談と受け止められたが、翌月に提出された覚え書きでは、目・口・鼻梁のうち最も社会的に安定しているのは口角である、との奇妙に丁寧な結論が導かれていた。
なお、斎藤は後年の回想録で「最初に目口本線を見出したのは、赤坂の写真館で斜めに傾いた軍人写真を直していた時である」と述べているが、同一人物の別稿では「谷中の団子屋の看板を見た時」とも書かれており、起点には諸説がある。いずれにせよ、内の写真文化と、近代的な整列欲求が結びついて成立した概念であるとみられている。
制度化と流行[編集]
に入ると、目口本線はの準機関誌『顔貌と線引』でたびたび取り上げられた。とくにの第14号では、顔写真における「目と口の傾斜差が3度を超える場合、居住空間に不安定感を与える」という主張が掲載され、編集部には全国から約840通の相談が寄せられたという[4]。
その後、の百貨店が化粧品売り場の陳列を整えるために応用し、日本橋本店では「目口本線試験台」と呼ばれる鏡付きの展示装置が期間限定で置かれた。購入客は自分の顔を見ながら、店員が引く糸の位置にうなずくか首をかしげるかで、パウダーの粉の量を調整されたとされる。これが後の「顔色診断カウンター」の原型になったという指摘がある。
鉄道との関係[編集]
目口本線が最も奇妙な発展を遂げたのは鉄道分野である。技師のは、駅名標の文字列が斜めに配置されると乗客の動線が乱れると考え、顔面の安定線を路線案内に転用する提案書を作成した。これにより、の一部案内板では、実験的に「目口本線角度」なる概念を用いて矢印の傾きが調整された[5]。
また、地方私鉄のなかには、曲線半径の小さな区間を「目口本線に対し不快なズレがある」として改良した例もあったとされる。沿線の古い聞き取りでは、運転士が「このカーブは顔でいうと左目が先に上がる」と表現したという証言が残るが、一次資料の所在は不明である。もっとも、こうした擬顔面化は乗客の記憶に残りやすく、沿線広告のキャッチコピーにも流用された。
理論[編集]
目口本線の理論は、単なる線分ではなく「視線の社会的重心」を表すものと説明される。斎藤源三郎は、目は情報を受け、口は情報を発するため、その中間に引かれる線は個人の意思決定の安定軸になる、と論じた。この仮説はとの両方から支持されたように見えたが、実際には図版がたいへん整っていたために信じられた可能性が高い[6]。
また、に刊行された小冊子『目口本線に於ける静的均衡』では、理想値として「左右差0.7ミリ以内、口角の高さ差1.2度未満」が提示された。著者はなぜかの舞妓との外国人居留地の写真を比較材料にしており、地域差と美意識を数式で結ぶ試みが当時の読者に受けたとされる。もっとも、同書の末尾には「測定はあくまで便宜であり、笑った瞬間に全て崩れる」との注記があり、そこだけ妙に現実的である。
社会的影響[編集]
目口本線は、初期の礼法教育にまで入り込んだ。東京市内の女学校では、挨拶時に顔を斜めに傾けすぎないよう、教員が黒板に大きな目口本線を描いて指導したという。生徒のなかには、この線を意識するあまり笑顔が極端に不自然になる者も多く、当時の卒業写真は総じて「頬より先に線が立っている」と評された[7]。
さらに、映画館では看板俳優の顔写真を目口本線に揃えて掲示する慣習が一部で定着し、ポスター制作会社は額縁用の「整顔定規」を大量生産した。のある劇場では、上映前に支配人が来場者へ向けて「本日の映像は目口本線に沿って投影しております」とアナウンスした記録がある。これは映写機の調整誤差を、あたかも顔の問題であるかのように言い換えた典型例である。
批判と論争[編集]
当初から、目口本線には強い批判もあった。の解剖学講師は、顔面には個人差があり、線で公共性を与える発想自体が乱暴であると述べた。これに対し支持派は、「公共性はまず線から生まれる」と反論し、論争はの投書欄にまで拡大した。
また、には「目口本線は顔の左右対称を過剰に礼賛し、笑い皺や頬肉の動きを抑圧する」として、芸能関係者からも抗議が出た。とくに寄席芸人のは、舞台上で目口本線に逆らう角度の見得を切ることで人気を博し、結果として「反目口本線」という逆概念まで登場した。ただし、この流れが本当に思想運動だったのか、単に芸人の受け狙いだったのかは判然としない。
衰退と再評価[編集]
戦後になると、目口本線はの合理化のなかで急速に忘れられた。測定器の多くは学校の理科室や写真館の倉庫に移され、用紙には「顔面用水平器」とだけ記されていたという。だが頃から、戦前資料の再発見により一部の美術大学で再評価が進み、デッサン教育において「観察の補助線」として利用された[8]。
にはインターネット上の古書目録を通じて再び話題となり、顔の左右を測る冗談のような道具として紹介されたが、研究者の中には「近代日本の制度的まなざしを象徴する重要概念」とみなす者もいる。なお、にの古書展で発見されたとする斎藤の草稿には、「目口本線が完成したあかつきには、駅のホームにも応用したい」と書かれており、もし本当なら理論の暴走はかなり早い段階で始まっていたことになる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 斎藤源三郎『目口本線概論』東京帝国測顔院出版部, 1919.
- ^ 黒田正次郎「駅名標と顔面基準線の相関」『鉄道技術評論』Vol. 18, No. 4, pp. 211-229, 1934.
- ^ 村瀬静雄『顔貌解剖学講義』医海堂, 1938.
- ^ 渡辺千代子「女学校礼法における視線の整序」『教育と作法』第12巻第2号, pp. 44-61, 1928.
- ^ Harold P. Emerson, “Facial Baselines and Urban Legibility,” Journal of Measured Aesthetics, Vol. 7, No. 1, pp. 9-36, 1941.
- ^ 小島信一『目口本線の社会史』みすず書房, 1967.
- ^ Marianne Feld, “The Civic Face: Linearity in Japanese Visual Culture,” The East Asian Review, Vol. 22, No. 3, pp. 173-198, 1975.
- ^ 『顔貌と線引』編集部「特集 目口本線の測定誤差」『顔貌と線引』第14号, pp. 3-17, 1927.
- ^ 高橋玲子『図像の水平と国家』岩波書店, 1989.
- ^ 斎藤源三郎『目口本線に於ける静的均衡』私家版, 1929.
- ^ John P. Wetherby, “A Note on the Mekuchihonsen Problem,” Proceedings of the Imperial Institute of Face Studies, Vol. 2, No. 2, pp. 101-104, 1931.
外部リンク
- 帝国顔面学会アーカイブ
- 東京近代測顔資料館
- 本郷写真補正研究所
- 線引文化デジタル図書室
- 日本擬線史学会